第2章 残業代を取り戻せ!

第11話 狂気の会社

 恋人からのラインの通知が鈴木スバルのスマホを震わせたとき、オフィスの時計は夜九時を回ったところだった。

 スバルがノートパソコンのキーボードを叩く手を止め、傍らのスマホに目を落とすと、彼女からのテキストメッセージには「今夜も遅くなる?」とだけ書かれている。スバルは謝る顔のスタンプだけを手早く送り返し、再びパソコンの画面に目を向けた。

 向かいの席の先輩も、営業デスクの島の「お誕生席」に陣取っている上司も、まだ帰ろうとする気配はない。クリエイター側の島では、デザイナーの女の子も疲れた顔でまだ作業に勤しんでいる。

 今日は運の悪いほうか、と心の中で溜息をついて、スバルは大してカネに変わる見込みもない企画書を打ち続ける。

 パワーポイントで体裁だけ整えて営業先に持っていったところで、自社ウチのような胡散臭いベンチャー企業に会社のブランディングを任せる経営者などそうそう居ないだろうに――。


 結局、この日もスバルが会社を出られたのは夜十時を過ぎてからだった。

 運の悪いほう、というより、これがこの会社の通常営業である。より正確に表現するなら「運が良いわけではないほう」と言うべきか。たまに夜九時台に退勤することができればラッキーで、そのラッキーは一週間に一回もあればいい方である。

 新卒でこの会社に入って二年、貴重な若い時間をこんなことに費やしていていいのだろうか。だが――「お前をビッグにしてやる」という社長の言葉を信じ続けてみたい気持ちも、まだどこかには残っている。

「ゴメン。今から帰るから」

 駅に向かって歩きながら、ラインの音声通話でスバルが言うと、身重みおもの恋人は「お疲れさま」と優しい声で返してくれた。

 だけど、スバルは知っている。なし崩し的に同棲中の彼女が、自分との結婚を控え、ウチの会社のブラック加減に最近特に不満をつのらせていることを。

「スバルさぁ」

 ほら来た。通話ライン越しの彼女の声が、彼をねぎらう声から、泣きごとを言うときの疲れた声に変わる。

「やっぱり、もうちょっと早く帰れるようにならないの?」

「……今は無理だって」

 今は、というか、ウチのブラック体質が変わる気配なんてこの先もないのだけど。

 自由だとか自分らしさだとかを主張したいならノルマを果たせ、なんて上司は口癖のように言うが、ウチの滅茶苦茶な営業ノルマを達成できることなんて、その上司自身も半年に一度あるかないかなのに。

「じゃあ、せめて残業代くらいちゃんと払ってもらえるようにならない? これからのこと考えたら……やっぱりキツイよ」

 彼女の訴えは、真綿で首を絞めるようにスバルの意識をさいなむ。

「残業代は、『みなし』で付いてるから」

「それ以上に毎日働いてるじゃん。こないだなんて、日曜にまで……。ねえ、フツーの会社の人はもっと有給とかも取れたりするんじゃないの?」

 そんなことを言われたって、スバルの勤め先はそのフツーの会社とは違うのだから仕方がない。

 時間刻みの残業代だとか、有給休暇だとか。そんなのはどこか遠い世界の話だとスバルは思っていた。「みなし残業代」が給与明細に書いてあるだけでも、幾分マシな方だろうとも。

 スバルが電車に揺られてマンションに帰ってからも、彼女の切ない訴えは止まらなかった。大学の同期でも、優良企業に入ったり公務員になったりした人は、こんなことになってないんじゃないの――とも。

「どうしてそんな小さい会社になんか入っちゃったの」

 スバルはさすがに彼女の物言いにカッとなったが、怒鳴り返したくなる気持ちをぐっと抑え込む。これから彼女と一緒に生きていかなければならないのだ。すぐに怒って手が出ていた学生時代の自分に立ち戻るわけにはいかない。

「俺が営業さえもっと取れるようになったら、給料だって上がるから」

 それは彼女に向けた言葉であるとともに、自分自身への励ましでもあった。

 ウチは確かに、残業代だの有給だのにきっちりしている会社ではない。だけど――そのかわり、ブランディング・コンサルタントとして高い成果を挙げられるようになれば、給料の上がり方は青天井だと社長は言っているのだ。

 それを信じて頑張るしかない、とスバルは思っていた。


 だが、翌朝――。

 いつものように始業時刻の一時間前である朝九時にスバルが出社すると、珍しく朝から会社に来ていた社長が、ちょっと話があると言って彼を社長室に呼び込んだ。

 ロン毛にヒゲ、細身の三十代。ナビルート社を辞めてこの会社を興した、自称「金持ちの道楽息子」が、応接テーブルの奥側のソファに腰を下ろして足を組む。

 社長室には既に上司の姿もあった。社長の元同級生である上司は、いつもは浮世離れした社長とスバルら社員を繋ぐ橋渡し役をしてくれているのだが、今日はいつになく険しい仏頂面で、応接テーブルを囲む別のソファに座っていた。

「まあ、座れや」

 社長がスバルに着席を促した。その口調は普段のように気さくなものだったが、スバルにはなぜか、社長の声が普段とは違うぴりりとした空気を纏っているように思えた。

「スバルなー。ここんとこ、成績、振るわないな」

 煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら社長が言う。人が吸うのを見るとスバルも禁煙を断ち切りたくなるが、半年後には父親になる身としては、我慢せざるを得ない。

「はぁ。すいません」

 スバルはぺこりと社長に頭を下げたが、その程度では済まないのだろうな、という予感はしていた。

 遂に絞られる時が来たのか、とも。

 この会社の営業ノルマは、なのだ。社長はいつも「目線を変えろ」だの「相手を好きになって営業を取れ」だの抽象的なことを言ってスバルらの尻を叩くが、名も無き会社の名も無き営業マン……もとい「ブランディング・コンサルタント」が持ち込む企業ブランディングの話など、そうそうまともに取り合う相手はいない。営業成績なんて上がらないのが当たり前、というのが社内の暗黙の了解ではあるので、社長や上司が具体的に何かペナルティを言い出してくることなどなかったのだが――。

 今日の社長は、そうではなかった。

「俺もお前をビッグにするって責任があるからな。ここで気を引き締めてもらうためにも、心を鬼にして、ルールを厳格に適用することにしたんだよ」

「ルール?」

 そこで上司が横から一枚の紙をスバルの前に差し出してきた。それはスバルが初めて目にするものだった。営業数字の達成金額と、それに伴う給与の上昇幅が、表の形で列挙されている。

 営業ノルマの何パーセントしか数字が行かなかった場合は、給与がどれだけ下がるか、という情報も。

 社長が言う。

「スバルはこの半年でノルマの六十パーセントしか達成してねーから、本当なら給与四割ダウンだよな。だけど、お前にも生活があるだろうし、カノジョのこともあるんだろうから、そこまでは酷だと思ってな。結局、お前の給与は二割ダウンってことにした」

「に……二割ダウン、っすか」

 スバルは自分の顔面から血の気が引いていくのを感じていた。スバルの今の給与額面は二十四万円。この時点でそもそも薄給なのであるが、ここから二割ダウンとなると、月給は額面二十万を切ってしまう。

 おまけにこの会社は、営業マンもとい「コンサルタント」各自の目標数値と、会社全体での目標数値が、ともに達成されていなければ決算賞与の支給対象にならない。要するに、普通にやっている限りはボーナスは無し、月給の十二倍がそのまま年収なのだ。

 仮にダウン後の月給を二十万と考えても――今後のスバルの年収は二百四十万円。そんな稼ぎでどうやってこれから妻子を養っていくというのだ?

「まあ、これはな、しょうがないんだよ。ノルマは会社との約束だから、現にそれを守れなかった以上はな」

 社長が切なそうな顔を作って紫煙を吐き出すのを、スバルは何も答えられないまま見ていることしかできなかった。

「それか、スバル。大阪行くか、お前」

「はい?」

 社長の突然の一言に、スバルは頭がついていかず目を見張った。

 ここ東京に本社を置くこの会社が、営業範囲を広げるため、大阪に形だけの支社を置いているのはもちろんスバルも知っている。大阪支社にはたった二人の事務要員が詰めているだけで、特に独自の仕事があるわけでもなく、社長がたまに関西方面への営業で出張するための立ち寄り拠点としてしか活かされていないということも。

「いやな、これから関西での営業も活性化させていこうと思って、社員コンサルの誰かに転勤して欲しいとは思ってたんだよ。どう、スバル。心機一転、あっちで頑張ってみる気とかないか? そしたら給与ダウンの件もチャラにしてやるぞ」

 それを聞いたとき、ぞくり、と背筋が凍る思いがした。

 何が有り得ないって――この社長は、どうやら本気でそれを温情と思っているようなのだ。

「あはは……勘弁して下さいよ。俺もうすぐカノジョと結婚して、子供が生まれるんだって言ったじゃないすか」

 そう、恋人の妊娠がわかってすぐ、スバルは社長や上司にそのことを報告していた。バツイチ子無しの社長は、それをまるで自分のことのように喜んでくれ、「お前ももっと頑張んなきゃな!」と背中を叩いて励ましてくれたものだ。

 その社長が、なぜ、半年後に妻子ができると知っている自分に向かって、あっけらかんと大阪に行けなどと言えるのだ?

「それだよ。お前が責任ある立場になるからだよ、スバル。守るべきものができて、仕事に命を懸けなきゃいけなくなる時期にだな。敢えてその家族のそばから離れることで、お前はもう一回り強い『戦士』として頑張れると思うんだよ」

「……あ、はは、そうっすか」

 社長は明るい顔で煙草の二本目に火をつけていた。何かこう――自分は良いことを言っている、というナルシシズムに満ち溢れたような表情で。

 上司はといえば、社長の言葉にうんうんと頷き、スバルに向かって「お前をビッグにしてくれようって、松田の男意気だよ」などと言ってくる。

 ――ヤバイ。

 スバルはここにきて初めて、松田社長なる男に、その親友である上司に、そしてこの会社そのものに――本気で危機感を覚えた。

 なぜ今日まで気付かずにいられたのだろう?

 ――この会社は、狂っている。

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