第10話 決着

 ローテーブルを挟み、志津しづはハゲ校長、ブタ部長、そして弁護士のカッパと向き合っている。志津の隣では白山しろやま白狼はくろうが堂々とICレコーダーを卓上に置き、悠然と腕組みをして流れを見守っていた。

 ハゲは他の表情の作り方を忘れてしまったかのように、眉間に深いシワを刻み込んだまま、じっと志津の手元あたりを見ている。

「……す」

 長い沈黙の果てに一文字だけを発声したかと思いきや、ハゲはまたぎりりと歯を鳴らして黙り込んでしまった。煮え切らない態度に志津が苛立ちを抑えられずにいると、ハゲの横からカッパが「早く謝罪してしまった方が」と意外な助言を出した。

 ぐぬぬ、と今にも声を出して唸り出しそうな代表取締役の様子を、ブタ部長は意気消沈した表情で見守っているだけである。ある意味、この場で最も居場所がないのは、雇用契約の当事者でもなければ第三者でもない微妙な立ち位置の、このブタかもしれない。

「経営者殿、やはり謝罪は無しかね? 構わんよ、こちらはそれでも。嫌がることを強制は出来んからな。貴兄が謝罪しない自由を行使するのであれば、こちらも訴訟を提起する自由を行使するまでだ」

 どこまでも冷たく相手を追い詰める白山の言葉に、ハゲは怒りに満ちた視線を上げて彼と志津に目をやり、ようやく、消え入るような声で、「すまなかった」と口にした。

「……ハァ?」

 志津はいよいよもってハゲの態度に堪忍袋の緒が切れてしまった。一応、隣の白山にちらりと視線で許しを得てから、「アナタねえ!」と声を張り上げる。

「『それが反省してる態度か』とか、『何が悪かったかを自分で述べないと謝罪にならん』とか、無能なハゲの分際で散々わたしに偉そうなこと言ったでしょうが! それなのに自分が謝るときは反省のカケラも見られん態度で『すまんかった』の一言ですって!? アンタみたいなクソゴミがわたしの前で教育を語ろうなんて百万年早いのよ!」

 怒りのままに言葉を並べ立てながら――志津の脳裏に否が応でも蘇るのは、自分が大学生アルバイト講師を叱責した後のハゲとブタの言動。このクソどもは事もあろうに、予備校生上がりのバイト達を擁護し、このわたしを悪者に仕立て上げて謝罪まで要求してきたのだ。なぜその瞬間に辞表を叩きつけなかったのか、と志津はずっと後悔している。この無能なハゲとブタからの、「指導」という名の的はずれで厭味ったらしいご高説に一度は屈し、全く悪くもないことで謝罪の真似事をしてしまったことを。

 志津がクソどもの前で初めて見せる啖呵に、ハゲとブタは虚を突かれたように目を見開いていた。隣の白山がちらりと志津に一瞥をくれ、「気の済むまでやれ」と目で言っている。

 今こそ、今日に至るまでの不当な扱いの恨みを晴らし、溜飲を下げる時だ。

「わたしに謝罪しなさい。何が悪かったか一つ一つ数え上げて」

 もう、こんなゴミに敬語など使ってやる必要もない。

 まさか志津がここまでの剣幕で迫るなど想像もしていなかったのだろう――、ハゲは哀れにも目を見開いたまま口をぱくぱくさせている。いい気味だ。落とし前は付けてもらう。

「アンタの頭じゃ何が間違ってたかを考えるのも無理? 教えてあげるからよく覚えなさい。わたしの経験を買って会社に迎え入れると言っておきながら、現に素人でも務まる雑務雑用を押し付けて、見識を活かす場を作ろうともしなかったこと――それでも明らかにわたしの方が無能な同僚達より生徒の信頼を得ているのに、その事実を見ようともしなかったこと――学生講師に社会人として適切な指導をしたわたしを、逆に悪者扱いして必要のない謝罪までさせたこと――そのことで不当にわたしを担任業務から外して、わたしの大事な生徒を可哀想な目に遭わせたこと――そして無能なボンクラの分際でわたしを上から品定めするような真似をして、あまつさえ、全部わたしが悪かったことにしてわたしを会社から追い出そうとしたこと! この二ヶ月でアンタがわたしに対してしてきたこと、何もかも全部間違ってるのよ! 認めて謝りなさい!」

 全身から噴き上がる二ヶ月分の怒りを込めて、志津はハゲに向かって機関銃のように言葉を並べ立てた。その息つく暇もない怒りの洪水を横で聞いていた白山が、すっとバトンを受け取ってハゲにトドメを刺してくれる。

「まあ、一部、法的に論外な部分もあるが――彼女の怒りは至極もっともだ。貴兄が任意に謝罪をせねば当方の損害賠償請求額が跳ね上がるという理屈も、これで分かってもらえよう。さて、どうするのだ、経営者殿。御社が彼女に与えた精神的損害の数々を、彼女は寛大にも、と言うのだぞ」

「わ……わかった」

 無能な小悪党は遂に観念したようだった。俯いていた顔を上げ、ハゲが志津の顔を見据える――怒りや苦悶の表情をなんとかして収め、あたかも反省しているかのような顔を作ろうとしているハゲの見苦しい努力は、なんとか志津も認識することができた。

 決着の瞬間だ。

不動ふどう先生に、素人のような雑用をさせたり……学生講師とのトラブルの責任を不動先生に求めたり、担任業務から外したりしたことは……会社の判断が間違ってました。すみませんでした」

「それだけ? 不当解雇の件は?」

「……不動先生を不当に解雇したことも、会社の判断に誤りがありました。すみません」

 まだどこか煮え切らないハゲの謝り方に、志津は苛立ちを募らせたが――

 これ以上責めたところで、このクソは一生クソのままなのだろう。人に謝るときは「すみません」ではなく「申し訳ありません」と言うのだという、中学生でも知っているようなことをここで志津が教えてやったところで……。

「まあ、いいです。アナタみたいな無能がこの先少しでもマトモになれるとは思いませんけど、少なくとも反省した振りができるようになっただけでもマシでしょう」

 形だけ頭を下げた振りをするハゲに向かって、そう吐き捨ててやると、少しだけ志津の気持ちもスカッとした。

「それだけでいいのかね?」

 白山がさらりと問うてくるので、志津は「まあ」と一言だけ返した。

 辣腕弁護士は白スーツの腕を伸ばして卓上からレコーダーを取り上げ、これ見よがしにかざしてみせてから、「会社は不動志津に対し、双方代理人立ち会いのもと任意で謝罪に応じた」と追加でそこに吹き込んだ。

河辺かわべ先生、謝罪の任意性には間違いありませんな」

「はい……そうですね」

 カッパの同意を待って、白山はレコーダーのスイッチを切り、ポケットに仕舞い込む。

「では、和解契約書の取り交わしを」

 白山が当たり前のようにブリーフケースから書類を取り出すので、カッパは「えっ」と驚いた顔をしていた。

「もう書面があるんですか」

「起案の速さには定評がありますのでね」

 半ば話に付いていけていない志津やハゲ達を横目に、白山が卓上にポンと置いた書面は、解決金の欄だけが‌‌空白になっていた。

 そこで白山が、ちらりと志津の顔を見てくる。

「先方の提示額は七十五万円だったわけだが……どうするかね、その金額で折り合いを付けるか、不服として更に交渉を続けるか、決めるのはキミだ」

「はぁ」

 ハゲを苛烈に追い詰めて謝罪を引き出し、ようやく頭がクールダウンしてきた志津としては――

 正直、解決金が七十五万円だろうとそれ以上だろうと、どうでもいいという思いが勝っていた。

 白山の用意した和解契約書を見ると、そこにもちゃんと、会社は過ちを認めて志津に全面的に謝罪するという旨が明記されている。志津が最も欲しかったものは、もう手に入ったのだ。

「わたしはまあ、先方提示額でいいですよ」

 そう志津が答えることを、白山はひょっとすると事前に見抜いていたのかもしれない。どこかホッとしたようなカッパの顔を見て志津はその確信を強めた。

 弁護士・白山白狼は、ブラック企業のクソ経営者をコテンパンにぶちのめす一方で、最後に相手方弁護士の顔もしっかり立てたというわけだ。


 素人目にも異例とわかる和解契約の即日取り交わしが完了し、ハゲ御一行がホワイトウルフ法律事務所を後にした直後、白山はくだんの和解契約書を立派な封筒に入れて志津に手渡してくれた。

「これはキミの後人生のちじんせいのお守りだ。大事に保管しておきたまえ」

「……お守り、ですか?」

 白山の言葉の意味がイマイチわからず、志津がぽかんとしていると、彼はコーヒーサーバーで飲み物を淹れながら言ってきた。

「キミのような性格の者は、こうして敵に謝罪をさせて溜飲を下げたところで、また一連の出来事を思い出せば同じように腹が立つだろう。これから何年の時を経ようとも――奴らに受けた屈辱は、いつでも昨日のことのようにキミの意識の中で首をもたげてくる。そんな時、その和解契約書が少しでもキミの心の支えになってくれよう。奴らの顔を思い出してムカついた時には、同時に今日の快哉かいさいを思い返すのだ。キミは憎むべき敵から謝罪を引き出し、復讐を果たしたのだよ」

 そんな。まるでわたしが主体となって戦いに勝利したようなことを白山は言ってくるが、実際、ハゲから謝罪を引き出せたのは全て彼のおかげではないか。

 そういう意味のことを志津が言うと、白山は笑って「弁護士は本人の代理をするだけだ」と言い、志津のためのコーヒーを応接テーブルに置いてくれた。


 テーブルを挟んで白山と向き合い、ふう、と志津は息を吐く。

 志津らがハゲ達と応接室で話していた間に、事務のおばさんは勤務時間を終えて退勤したらしく、ジャケット姿の男性事務員と交代していた。雇われ弁護士らしき男性はどこかへ出て行っているようだ。

 コーヒーに口をつけ、ふと、明日からどうしよう、と志津は思った。

 結局、不当解雇に際して獲得できた解決金は七十五万円。白山に十パーセントを報酬として支払う契約なので、志津の手元に残るのは六十七.五万円。企業に勤めていない間は保険料や年金もそのぶん高く付くのだから、志津が束の間の猶予期間モラトリアムを満喫できる日数は決してそう長くはない。

 ――来週くらいから、また就職活動か。

 志津がそう考えていると、白山はアイスミルクの入ったカップをことりと自分の前に置き、機嫌良さそうに声を弾ませた。

「それにしても、最後のキミの啖呵――あれは気に入った。法律論とは関係ないがね。そうとも、犠牲者は虐げられて泣いているだけではいかん。自ら声を張り上げ、悪と戦わねばならない」

「はぁ」

 白山に手放しで絶賛されると、志津はなんだか気恥ずかしく感じてしまう。思い返してみれば、さっきは随分と自分も大口を叩いたものだ――。

 と、そこで、白山は志津が想像だにしなかった一言をぽんと放り込んできた。

「ときに、シーズー君。キミがもし教育業界に特別の未練を持っていないのであれば――我がホワイトウルフ法律事務所で法律事務員パラリーガルを目指さないかね。事務の彼がちょうど育児休暇に入るので、人手が欲しかったのだ」

「はい?」

 白山の台詞に込められた情報量の多さに、志津は二重の意味であっけにとられてしまう。

 無意識に事務の男性のほうを志津が見やると、彼は自分が話題に出されるのを聞いていたのか、ぺこりと会釈してきた。

 志津はそこで初めて、男性の薬指に指輪があることに気付いたが――男性で育児休暇を取らせてもらえる職場なんて、都市伝説以外に存在していたのか。

 志津の逡巡を見てとったように、白山はさらに言葉を続ける。

「これは俺にもメリットのある話だ。即ち、キミの文芸創作が実を結べば、俺は唾棄だきすべきブラック企業どもとの正義の戦いを、キミの著作を通じて一層、世に知らしめることが出来るわけだが――もし、当のキミが新たな本業に忙殺されて小説を書けなくなってしまっては、それも叶わない」

 彼の言うことは志津自身も危惧していたところだった。今の御時世、教育業にせよそれ以外にせよ、時間外労働のない職場などそうそう見つかるものではない。白山白狼をモデルに職業小説を書き下ろすのだと意気込んでみたところで、そんな時間が次の職場で確保できる保証はないのだ。

「企業勤めというものは往々にして、人を意に沿わぬ形で忙殺する――合法的な残業の範囲でさえな。その点、我が事務所ならば、キミの人生の貴重な時間を規定を超えて拘束することはない。知っていよう、我がホワイトウルフ法律事務所はホワイト・オブ・ホワイトなのだ」

 白山の言葉にウソがないことは、志津がこれまでに彼とこの事務所に関して見聞きしてきたことの全てが物語っていた。


 事務所を出て、駅へ向かうところで、志津は西進サテライト予備校で担当していた女子生徒の二人連れと出くわした。志津が彼女らの担任業務を任されていたのは僅かな間に過ぎないのに、彼女らは「不動先生っ」と自ら志津に寄ってきてくれた。

「先生、ホントに辞めちゃったんですか?」

「残念です。あの予備校では先生が一番いいヒトだったのに」

 生徒達は本気で残念そうな顔で言ってくる。志津がいたたまれない気持ちで「ごめんね」と口にすると、生徒の一人は明るく、「大丈夫ですよ!」と答えた。

「勉強で大事なことは不動先生に教えてもらったんで」

「そうそう。あとはイマイチな先生しか居なくても頑張れます」

 彼女達の志望校は、二人とも都内の上位私大だったはずだ。志津の見立てが正しければ、彼女達にとってそれは決して届かない目標ではない。

「頑張ってね。二人なら受かるよ」

 志津がそう言って立ち去ろうとすると、生徒の黄色い声が彼女の鼓膜をとらえてくる。

「先生、予備校やめて何するの?」

 志津は生徒達に向き直り、少し考えてから、胸を張って答えた。

「正義の味方の、お手伝い」


 こうして不動志津は、天職と思っていた教育業の世界にしばしの別れを告げ――この世の悪を追い詰める正義の白き狼、弁護士ホワイトウルフに仕える日々に身を投じることとなった。

 それが片腕と呼ぶべき働きになるか、はたまた駒に過ぎないのかは、今は神のみぞ知るところである。


(第1章 不当解雇編――完)

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