第9話 雇用の重み
その両隣ではハゲ校長とブタ部長が不機嫌そうな顔でソファに腰を下ろしている。志津の隣で彼らを迎え撃つ
数秒の沈黙を経て、カッパが口火を切る。
「えぇと……白山先生からの書面を拝見致しまして、こちらとしても、そのぅ……金銭的解決による和解が、やはりですね、一番であるかと思いまして」
カッパは和解案を簡単な書面にして持参していた。ソファに挟まれたローテーブルに差し出されたそれに白山がちらりと一瞥をくれ、志津もしげしげとそれを覗き込む。
「甲及び乙は……本件労働契約が……四月三十日付で終了したことを認める……本件の解決金を……金七十五万円と定め……」
志津が小声でその内容を呟き、頭に入れるのを、白山は悠然と待ってくれているようだった。
解決金七十五万円。
白山が絶対に獲得すると宣言していたラインの、きっちり下限を押さえている。
「……まあ、それはあくまで、こちらからの案ですので……」
何かを取り繕うようにカッパが言うと、ハゲ校長がフンと息巻いた。
「それ以上は出せませんよ。あのねぇ、ただでさえね、こちらは彼女のせいで損害を被ってるんですからねえ」
「まあまあ、社長さん……それに関して損害という言葉を使うのは不正確ですので……」
カッパが困ったような顔でハゲをなだめにかかっている。そんな様子を見て、この弁護士も大変だな、と志津はまたしても彼への同情を感じていた。
カネを積まれれば黒でも白にするのが弁護士の本来のあり方だと白山は以前言っていたが、このカッパはそういうタイプの弁護士ではないのか、あるいは白山を相手に回しているからこそ大人しい態度を取らざるを得ないのか、志津にはそこまでの判断はつかない。
と、そこで、白山がメガネ越しにぎらりと瞳を光らせた。
「
その鋭い迫力に志津は思わず身をこわばらせる。彼の言葉は、カッパに対してというより、その両隣を囲むハゲとブタにこそ向けられているように思えた。
「……はぁ、その……」
カッパが頭を掻き、白山から内容証明郵便で送られていた書面を見直している。当然、何か見落としがあったわけではなく、カッパ自身もそこに何が書いてあるのかは重々承知していながら意味もなく書類に目を落としてみたのだろう。
「和解条件で『謝罪』が要求に挙がるというのは……こうした事案では随分と異例で……」
「謝罪だと!?」
そこでハゲ校長とブタ部長が揃って声を挙げていた。二人は醜い顔にたちまち驚きと憤慨の色を浮かべ、カッパの両隣から彼の手元の書面を覗き込んだ。
「な、なんで、こっちが謝罪なんかしなきゃいかんのだ!」
ハゲは例のごとく顔を真っ赤にして白山に噛み付いていた。ブタも口調を荒げ、太い指で志津を指差してくる。
「この新人のせいで、ウチがどれだけ迷惑してると思う!? こっちが謝罪して欲しいくらいだぞ!」
「フン。この状況は、どちらがどちらに損害を与えているのか――。河辺先生、いかがですかな?」
白山はハゲとブタの勢いを涼しい顔で受け流していた。ここでカッパに話を振るのが何より彼の恐ろしいところだ、と志津は思う。しかも、先程ハゲの口から飛び出した「損害」という言葉をわざと使って。
「…‥えぇ……不当解雇事件ということですから……西進さんが、
「だから、あんたはどっちの味方なんだ!」
ハゲがとうとう顧問弁護士に向かってまで怒鳴りだした。先日の対決時と同じ流れではあるが、カッパは今度こそはオロオロしたような態度は見せず、弱々しい口調ながらもハゲに向かってきっぱりと返答した。
「私は西進さんの味方ですよ。……だから、おたくが支払う落とし前が少しでも軽くなるように、こうして調整してるでしょうが……」
カッパの絞り出したその言葉は、激昂するハゲとブタを完全に黙らせてしまうだけの威力を持っていた。
志津は心の中でカッパにガッツポーズを送りたいくらいの気分だった。彼の言葉でクソどもは悟ったのだ。もう、どうあがいても自分達の立場を正当化することはできないと。
「……だ、だけどね、河辺先生。謝罪なんてする義務があるのか!?」
どうあっても志津に頭を下げるのは避けたいらしく、ハゲが尚もカッパに取りすがっている。そこで今度は白山が説明のバトンをぶん取った。
「義務などない。ただ貴兄らの真摯な反省と謝罪を彼女は要求しており、俺はそれを伝えているまでだ。謝罪をする、せんは貴兄らの自由だよ。――ただ、訴訟を経ずに示談で済ませてやるのは、あくまでそちらが彼女への処遇を過ちと認めて真剣に反省し、彼女を納得させうる謝罪を果たした場合のみだ。書面で伝えた通り――貴兄らが謝罪を拒むのであれば、こちらとしては損害賠償の要求額を何倍にも引き上げ、訴訟を提起するまでだ」
「な、なにを、そちらの言い分ばかり勝手に」
「訴訟となれば俺は手を緩めんぞ。過去に先例のない真新しい角度からの司法判断を求め、下級審から判例集に載るような判示を引き出してやろう。そうなれば御社にとっては名誉なことではないか。『西進サテライト予備校事件』として、御社の名前が我が国の労働法実務の歴史に燦然と残るぞ。ネットで御社の名前をググれば真っ先にこの事件の判例がヒットするようになるだろうな。天下のウィキペディアにも取り上げてもらえる。なんと有難いことか! 判例に名を残すなど、全ての企業が望んで叶えられることではないのに」
志津には白山の並べた言葉の前段は半分くらいしか分からなかったが、後段はいやというほどよく分かった。ハゲやブタの顔が見る間に顔面蒼白になっていくことからも、それが彼らにとってどれほど強烈な脅しになっているかが分かる。――そして恐らく、脅しは脅しでも、白山の言葉は法律的には何ら脅迫に当たらないのだということも。
「き、
ハゲが額に血管を浮かび上がらせて言葉を発しようとしたところで、それを遮るように白山が身を乗り出した。
「無論――この俺が、ネットの検索に社名が出る程度で許してやると思うな」
彼の言葉にハゲが息を呑み、空間全体がぞくりと凍りつく。
恐ろしい男だ、と志津も感じずには居られなかった。ネット程度では許さないと言いながら、何も具体的なことを告げない白山の――何も告げないからこそ却って伝わる恐ろしさ。
この弁護士を敵に回すことが、一体どれだけのものを同時に敵に回すことになるのか、その場の誰もが否応なしに悟ったようだった。
顔を茹でダコのように赤く染めたまま固まっているハゲにかわり、ブタが肥えた身体を震わせながら白山に言う。
「……な、何なんだ、あんた。何の理由があって、そこまでウチを追い詰めるんだ」
「決まっている。それは御社が違法企業だからだ」
「た、た、たかが、新人を一人クビにするだけじゃないか!」
本気で理解できないといった様子で声のトーンを上げブタに対し、白山はやれやれと両腕を広げてみせる。
「たかが、と言われるか。教務部長殿は
「は? ……いや、自分はもともと別の会社で営業をしていたんだが」
「ふむ。ではお尋ねするが、貴兄が今日いきなり職を失ったとして、次の安定した収入源に巡り合うまでにどれほどの日数を要すると思うか」
「……はぁ?」
白山の急な詰問に、ブタは何故自分がそんなことを訊かれなければならないのか、という風情で目を丸くしていた。
「フン。ブラック経営者と一緒になって、優秀な経験者である彼女を無能と断じていた貴兄のことだ。己の転職市場価値など到底算出できまいな。この俺が断言してやろう。貴兄の年齢と能力では、必死に地べたを這いつくばって就職先を探し回って、三ヶ月目にやっと働き口を見つけるのがやっとであろう」
「な、な……! 失礼じゃないか!」
「俺は貴兄の市場価値を算出しただけだ。……だが、どうかね? 三ヶ月もの間、定職もなく希望もなく、次の一社こそは己を拾い上げてくれるかもしれないと、一縷の望みを懸けて面接に足を運び続ける日々。転職経験者である部長殿には、それがどれほど心細い毎日であるかお分かりであろう。それでも彼女や貴兄ならば何とか再就職先も得られようが、世の中にはそれすらままならず首を吊る者さえいる」
狼の牙が獲物の
「俺は社会に法の光を当てる正義の味方だが――これは法律以前の問題として言わせて頂く。人ひとりを解雇するというのはそれほどの
ブタは今や、俯き加減で声にならない唸りを上げ、何かの苦しみに悶えているようだった。助けを求めるように、ブタが自らの雇い主と顧問弁護士をちらちらと見る。ハゲ校長は尚も真っ赤な顔をしかめており、カッパは再び困りきった顔に戻っていた。
「賢明な判断をされることだ、経営者殿」
白山が腕を組み、胸を張ってハゲを見下す姿勢で言い放つ。
「過ちを自ら認め、この場で
「……こ、この場で謝らないと、ウワサを撒き散らすと言うんだろう!」
「ウワサなど広めんさ。世間に伝わるのはただの事実だ。自分達が悪くないと思うのなら、誰に知られても不都合はあるまい」
ハゲは尚も憤りに口元を歪ませ、何かを言おうとしているようだったが、そこで横からカッパが「先方の言うとおりにするのが宜しいかと」と口を挟む。
それが最後の引き金になったようだった。
ハゲはどこまでも眉間に険しくシワを寄せたまま、志津にはちらりとも目をやらず、白山に向かって「謝ればいいんだろう、謝れば」とヤケバチのように言葉を吐いた。
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