第8話 共感できない主人公

 弁護士・白山しろやま白狼はくろうと出会った翌日、志津しづは暖かな陽射しの中で目を覚ました。枕元に置かれたスマホの時計にはAM11時とある。志津はベッドに寝そべったままじっくりと昨日の記憶を回想し、やがてそれが夢ではないことを確信して、心の中でガッツポーズを作った。

 ――そう、わたしは、あの掃き溜めの悪夢から解放されたのだ。

 職を失ってしまった引け目や不安感が無いわけではなかったが、それよりも、あのいけすかないハゲとブタに白山が泡を吹かせてくれたことが何より快哉かいさいだった。自分達のしたことが法律的に間違っていたと、味方の弁護士カッパにまで言われたときの、やつらの顔ときたら!

 今にして思えば、よくあんな無能の無能による無能のための職場に二ヶ月も居続けたものだな、と志津は嘆息する。不当解雇の憂き目に遭ってみて、初めて自分でも気付いたが――あんなところは、自分の居場所ではなかったのだ。

 あの会社を追い出されて志津が憤慨したのは、そこで働き続けたかったからではない。あのクソどもが、こともあろうに、

 そのことを思い出すと、また志津の胸中に沸々と怒りが沸き上がってきたが……幸いにも、今の彼女は、その怒りを鎮めるすべを知っている。ただ白山白狼の手腕を信じればよいのだ。彼があのクソどもから謝罪を引き出すと言った以上、きっとそれは近い将来、現実になるのだろう。

 今後も怒りを引きずって生きるか否かは、わたしの前にこうべを垂れるクソどもの姿を見届けてから決めればいいことだ。


 さて、晴れて自由の身になった以上、今日からの一日一日を有効活用しよう――そう思って志津はベッドから起き上がり、リモコンでテレビをつけて、起床時のシャワーを浴び、楽な室内着に袖を通して、遅い朝食のパンをかじった。

 再就職については、ひとまず、今回の解雇事件のカタが全て付いてから動き出せばよさそうだった。

 志津は西進せいしんサテライト予備校には二ヶ月しか勤めなかったが、前の職場の在籍期間を合わせれば、失業保険の受給資格を満たすことはできる。そのくらいのことは、法律家に教えてもらうまでもなく彼女自身の知識でもわかっていた。しかも、会社都合での退職となれば、失業保険の給付が始まるまでの時間はかなり短くて済む。

 会社からも昨日まで働いた分の給与は当然振り込まれるのだし、白山はこれから解決金の獲得を目指してハゲ校長を追い込むと言っていた。適法な解雇の場合ですら一ヶ月分の解雇予告手当は必ず支払われるのだから、あくまで不当解雇を主張して戦う以上、最低でも三~四ヶ月分の解決金は獲得してみせると彼は昨日豪語していたのだ。

 ――つまり、不当解雇に遭ったことで、志津には図らずも、仕事をしないで生活費を得られる猶予期間モラトリアムが数ヶ月ほどもたらされたということになる。

 そんな季節外れのサンタの贈り物が舞い込んできた以上、やるべきことは決まっているではないか。

 これも何かの思し召しかもしれない。この時間を使って小説に専念するのだ。


 ……しかし。

 意気揚々とパソコンに向かったはいいが、ものの数分で彼女は頭を抱えていた。


 題材はいい。法律モノはいつの時代も受けるし、ブラック企業との戦いというテーマはこの上なく時勢に合っている。

 白山白狼はくろうのキャラクターもいい。事実は小説より奇なりというが、彼のような突き抜けたキャラはとても志津自身の発想からは出てこなかった。ホワイトウルフさまさまである。

 ストーリーもいい。志津自身がいま体験している事実を書くだけで、ちょっとしたブラック企業征伐せいばつ譚の出来上がりだ。そしてこのテーマならいくつものエピソードを次から次へと書くこともできるだろう。


 だが、問題は主人公だ。

 白山白狼自身の視点で文章が進んでいく形を取ってもいいのだが、あの荒唐無稽を絵に描いたような男になりきれるほど志津は想像力豊かな作家ではないし、そもそも法律の専門知識を持たない自分が弁護士視点で物語を書くなど論外だ。また、あのようなタイプの人物を作劇のメインに据える場合、物語の「語り手」にはその本人ではなく取り巻きの素人を充てるのがセオリーだということは、シャーロック・ホームズ以来の常識として志津も当然理解している。

 そうなると、語り手は志津わたし、ということになるのだが……。

「……誰が感情移入してくれるのよ、こんな女」

 一人きりのアパートの自室でパソコンに向き合い、志津は誰にともなく自嘲気味に呟いた。

 冒頭部を書いてみただけでわかる、圧倒的な主人公わたしの魅力の無さ。

 普通、読者というのは、主人公に等身大の自分を投影しながら小説の世界に入っていくものだ。主人公が読者の共感を得やすい性質や境遇であればあるほど、小説の吸引力も高まるということになる。むろん例外はあるが、志津が応募しようとしている職業小説コンテストなど、そうした「共感」が求められる部類の最たるものだろう。

 周りの人に愛されやすい性質を持った主人公が、誰が聞いても同情するしかないような理不尽な目に遭わされ、救いを求めて懸命にもがく――そういう筋書きなら誰もが読みたがる。

 だが。その点。志津わたしというやつは。

 ……職場の同僚を無能と見下し、意味のない交流を徹底的に拒む。そのあげく、試用期間限りの本採用見送りという、まあ法律に照らしてどうかはともかく、一般論としては「仕方ないこと」の部類に入りそうな扱いを受けただけで、即座に会社への復讐を誓って弁護士を探し始める……。

「……ないない。こんな主人公、ありえない」

 志津は我が道を行く女ではあるが、仮に自分が小説の登場人物だったら読者にどう思われるか、という視点で客観的に自分自身を判断することくらいはできる。

 自分が読者だったら、こんな女が主人公のWEB小説など、一ページ読んだだけで脱落ブラウザバックしてしまうだろう。


 そんなことを考えながら志津が悶々としている内に、日付はまた変わり――

 白山から呼び出しの電話がかかってきたのは、信じられないことに、初の邂逅から僅か二日後の昼過ぎのことだった。


「もう相手から反応があったんですか!? つい一昨日のことじゃないですか」

 ホワイトウルフ法律事務所の真っ白なオフィスで志津を出迎えた白山白狼は、「何が早いものか」とうそぶき、応接テーブルを挟んだソファを志津に勧めた。今日は相談ブースにわざわざ入るまでもない話、ということらしい。

 事務所では先日会ったおばさんが書類仕事をしており、別のデスクでは雇われ弁護士らしき男性がやはり書類と格闘していたが、所長の白山は言うまでもなく志津と自分の飲み物を自らの手で淹れていた。

「キミの依頼を受任したあの日の内に、俺は内容証明を起案し、e電子サービスで送信した。それが紙の書類となって速達で先方に届いたのが昨日。そして河辺かわべ弁護士が和解交渉の申し入れをしてきたのが先程のこと。特段早くはない――まあ、キミが他所の法律事務所に依頼していれば、ひょっとしたら来週末くらいまでは待たされていたかもしれんがね」

 お決まりのミルクのカップを手にぺらぺらと述べる白山の言葉に、志津はなるほど、と頷いてしまった。確かに日付の辻褄は合っているが……白山はともかく、あのカッパも意外と動きの早い弁護士だったのか。

 ……と志津が思っていると。

「この俺を数日待たせる度胸のある弁護士など、この界隈にはおるまい」

 白山がさらりとそう付け加えてニヤリと笑うので、志津は思わずびくっと肩を震わせてしまった。

 この変人弁護士を相手に回して、あのカッパも可哀想に……などと、相手方への同情の念すら頭に浮かんでしまう。

「さて、シーズー君。先方は十四時に事務所ここへお出まし下さるそうだ。本来なら和解交渉など弁護士だけで臨めばよいのだが――キミは性格上、自らその場に立ち会いたいだろうと思ってね」

 白山の言葉に志津は目を見張った。先程の電話では「今から事務所に来られるか」とだけ聞かれたのだが、まさか、いきなりそこまで話が進んでいたとは。

「先方って、誰々出てくるんですか」

「むろん、河辺弁護士と、くだんの連中だよ。キミを不快な目に遭わせたハゲとブタのお二方だ」

「そんな……よく承諾しましたね」

 彼の言葉にウソなどあるまいが、志津にはどこか信じられなかった。あの自分達の世界の常識でしか物を考えられないクソどもが、白山の事務所への呼び出しに容易く応じてくるなんて。

「承諾せざるを得んさ。奴らが自分達の薄汚れた牙城を守りたいのならな」

 白山は白ブチ眼鏡越しの瞳をギラつかせてそう言い切り、カラにしたマグカップをことりと卓上に置いて、ふと話題を変えてきた。

「ときに、執筆は捗っているかね。束の間の自由な時間を得て、キミも伸び伸びと創作に取り組めるのではないか」

「……それなんですけどね」

 白山の淹れてくれたコーヒーを一口飲み、志津は自嘲の念を込めて息を吐いた。

 彼が言った言葉の後段は事実なのだが、肝心の前段がイエスと言えないのだ。

「あなたの活躍は書きやすそうなんですけど……肝心の語り手が、わたしみたいなヤツでは」

「はて? キミが語り手で何がいけないのだ」

 白山は志津の前で初めてきょとんとした顔を見せた。彼にはどうやら本気で、志津わたしのような滅茶苦茶な女を物語の語り手にすることのマズさがわかっていないようだ。

 ――まあ、いくら法律の専門家でも、さすがに小説のプロではないのだろうし。

「わたしみたいなキャラは受けないですよ。もっと清廉潔白な主人公が、誰が聞いても同情するような理不尽な目に遭う話じゃないと、読者の共感は得られないです。……だから、あなたをモデルにした話を書くとしても、語り手のキャラクターや事件のあらましはイチから作り起こさないといけませんね」

 志津はこの二日間で真剣に考えてきたことを白山に述べたのだったが、それを聞いて彼はますます怪訝そうな顔になり、眉間にしわを寄せて彼女を見返してきた。

「わからんな。清廉潔白とはそもそも何だ。誰が聞いても同情するような理不尽な目とは、どんな目に遭うことを指すのだ?」

「だから、もっとこう……純真無垢なアイドルが異性交遊の濡れ衣を着せられて芸能界を追放されてしまうとか……そういうやつですよ」

「そんな薄っぺらい話は無能な素人作家にでも書かせておけ。いいかね、そもそもキミの被害事件の要諦は――、という点にあるのだ」

「……はぁ?」

 志津には白山の言うことこそイマイチわからなかった。ただ、自分の日本語力が確かならば、彼は今、わたしをちょっとバカにしたのか?

「キミは確かに万人に好かれるタイプの人間ではないだろう。己で選んだ職場への不満を常に募らせ、それを表に出すこともはばからず……いざ不当な扱いを受けたと知ればたちまち法に助けを求め、相手を屈服させんとする。読者の共感を得られる主人公のタイプでは決してない。むしろ、並の小説であれば、己の正しさを盲信したまま突き進み、壁にぶつかって痛い目を見る役回りがお似合いだ」

「……ええ……?」

 いきなり自分をこき下ろし始めた白山の発言に、志津はショックや憤りよりも、ひたすらにワケのわからなさを感じていた。なんだ? わたしの味方の筈の彼が、なぜ今になってこんなことを言う?

「――だが、だからこそ」

 志津が首を傾げていると、白山が突然、語気を強めた。

「そんな、世間の感覚とズレた価値観の持ち主であるキミが語るからこそ、この物語には意義があるのだ。なぜなら、キミをズレた存在たらしめている『世間の感覚』とは、我が国に根強くはびこるブラック労働意識に立脚するものに他ならないからだ。いいかね。法の理念が、真に正しく社会の全構成員に啓蒙されてさえいれば――そこでは、キミの価値観こそが正しいのだ」

 ポカンとする志津の前で、白山はさらに語り続ける。

「この国はまだまだ間違った常識を信奉している。雇い主の行うことは多少理不尽でも『正義』であり、それに楯突く労働者は『非常識』であるという前時代的な感覚をな。キミの価値観で語られた小説を読み、読者がキミという主人公に違和感を覚えるのであれば――それは、その読者が、自覚の有無にかかわらず、ブラック労働意識に染まりきっているということなのだ」

 そこまで聞いて、志津も彼の言わんとすることをおぼろげに悟った――わたしという主人公に共感するか否かが、要するに、その読者がブラック労働意識から解放されているか否かを測るリトマス試験紙になるというのだろう。

「だから俺は先日、キミの創作はキミ以外の者には代われないと言った。キミが書かねば意味がないのだ。自覚と自信を持って創作に励みたまえ」

「……はぁ、まあ、わかったような、わからないような」

 結局、ディスられたのか勇気付けられたのか、イマイチわからないが――きっと後者なのだろうと志津は納得することにして、「書けるだけ書いてみますよ」と白山に頷いておく。

「うむ。――さて、ちょうどお客様のお出ましのようだ」

 時計は十三時五十五分。事務所の入口のブザーが音を立てていた。

 事務のおばさんが立とうとするのをそっと片手で制し、白山がすくっとソファから立ち上がって入口のほうを振り仰ぐ。

「復讐のメインディッシュの時間だな」

 白き狼の両眼が、冷徹な光を鋭く放った。

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