第7話 職業小説

 志津しづ白山しろやま白狼はくろうとともにホワイトウルフ法律事務所に戻ったときには、時刻は既に夕刻に差し掛かっていた。

「先生、おかえりなさい」

 事務所に居たのは三十代ほどの男性だった。ブルーのシャツに紺色のジャケットという、女性でいえばオフィスカジュアルに当たるような格好をした彼は、白山の後に続いて事務所に入った志津にも「こんにちは」と丁寧にお辞儀をしてきた。

 彼に挨拶を返しながら、志津はふと、先程ここにいたおばさんの姿が今は見えないことに気付く。

「……あれ、さっきの女性の方は?」

「彼女は家庭があるので四時間勤務だよ。今いる彼も十四時以降の出勤だ。ともに正社員待遇だがね」

 白山は何でもないことのようにさらりと言うと、コーヒーサーバーで志津の分のコーヒーを淹れてくれ、自分はまたマグカップに冷蔵庫のミルクを注いでいた。

 随分と従業員を厚遇している事務所なのだな、と志津が感心していると、白山はそんな彼女の感想を見透かしたように「ホワイト・オブ・ホワイトが俺の経営者としての信条だ」と自慢げに言ってきた。


 パーテーションで仕切られた相談ブースに戻り、コーヒーに口をつけると、志津にもやっと一息つく余裕ができた。

 それにしても、先程のハゲとブタの苦渋に満ちた顔はどうだろう。奴らに散々嫌な思いをさせられてきた志津だったが、それだけに、白山を前にタジタジになっていた奴らの顔を思い出せば、少しばかりは彼女の溜飲も下がろうというものだ。

「ありがとうございました。さっきは結構スカッとしました」

 志津が礼を述べると、白山もまんざらでもない顔をしていた。

「礼には及ばんよ。我が国からブラック企業を一掃するためにも、あのような輩は心胆しんたん寒からしめてやらねばならん。相手の顧問弁護士がすぐに出てきたのは意外だったが、むしろこちらに都合が良かったのはキミも見た通りだ」

 普通、顧問弁護士はあんな風にクライアントのもとに急に駆けつけたりはしないのだよ、と付け加えて、白山は冷たいミルクを美味そうに飲んだ。

「……この後は、どうなるんですか?」

 志津は気になっていた疑問をぶつけてみた。先程の対決で、激昂する相手から白山が上手いこと失言を引き出していたのだということは、彼女にもわかっていたが……これで戦いが終わったわけではない。ここから先、彼らに過ちを認めさせて謝罪させるために、白山はどうするつもりなのだろう。

「ふむ。どうなるか、というのは、つまりキミがどうしたいか、ということでもあるのだが」

 彼はカップを置いて腕組みの姿勢を作り、じっと志津の顔を覗き込んできた。

「念のため確認しておくが、キミの望みは、あのクソ会社に解雇を取り消させて復職すること……などではあるまいよな」

 言葉通り念のための確認という風情だったが、志津は全く想定外の角度からの質問が来たので一瞬面食らってしまった。――そうか、そういう方向性で弁護士に依頼する人も居ないわけではないのか。

 しかし、あんな会社に復職などと。

「あんな掃き溜め、頼まれたって戻ってやりませんよ。わたしはただ、あのハゲとブタに、わたしへの待遇の不当さを認めさせて、謝罪させられればいいんです」

 言葉を絞り出すとともに、この二ヶ月の出来事が怒りの感情を伴って脳裏に去来し、志津はまたぐっと拳を握った。


 思えば、いくら条件の良さそうな転職先を探していたからって、いくらなんでもあんな会社に入ることもなかったのに。

 面接の時にはわたしの経験と能力を相当高く評価するようなことを言っておきながら、いざ入社してみたらズブの素人と同等の下っ端仕事に関わらせ、わたしの教育業への知見を全くかえりみもしなかったハゲとブタ。いつも淀んだ目でのろのろと流れ作業をこなし、それでいて休み時間中や就業後の中身のない会話にはやたらとご執心だった無能な同僚ども。そして、若くて新顔だからという理由でわたしを甘く見て、学生の分際で「自分達の方が先輩だから」とナメた口を叩いてきた、この予備校の生徒上がりのバイト連中。

 人として好きになれそうな相手など誰一人居なかったし、自分の才覚がここで活かせるとも思えなかった。唯一の救いは、生徒の中には志津の見識の広さや教育業への熱意を肌で感じ取ってくれ、慕ってくれる子達もいたということだけ。だが、それは救いであるとともに、彼女に一層の虚しさを味わわせる材料でもあった。自分はしっかり生徒に信頼される力量を備えているのに、なぜハゲやブタはそのことを見ようともせず、年齢だけで全てを決めたがるのか――。


 そうした思いを全て込めたような志津の一言を、白山はニヒルな笑みで受け入れてくれた。

「はっはっ。あくまで目的は相手にこうべを垂れさせることか。キミは実にユニークな依頼者クライアントだ。有り難い――それならば俺も一層やり甲斐がある」

 そして白山は、西進せいしんサテライト予備校に乗り込む前に志津と取り交わした委任契約書をデスクの上に突き出し、成功報酬に関して明記された部分をトントンと指で示してみせた。そこに「回収金額の10%相当額」という記載があることは志津ももちろん覚えている。つい二時間ほど前にこの場所でサインをした契約書だ。

「キミと俺の胸中でここに付け加えておこう。あのクソどもから謝罪を引き出せた場合の成功報酬――無償プライスレス、と。……奴らに吠え面をかかせてやろうではないか」

 白山の口元はどこか楽しそうだった。だが、彼は契約書を大事にファイルに仕舞い込んでから、こうも言った。

「だが、重ねて言うが、俺の動きは弁護士として極めてイレギュラーなものだと心得ておきたまえ。普通は、相手が反省していようといまいと、解決金を取れればそれで終わりだからな。『謝罪』などという無形物を目的として動く弁護士など、俺以外に居ればお目にかかりたいところだ」

「……あなたは、どうしてそこまで」

 志津は空気を読んでそう尋ねてはみたものの、彼女にもそろそろ、この男の本質がなんとなく掴めて来たような気はしていた。

「知っての通り、俺はブラック企業をぶちのめすことを何より優先して動く男なのだ。むろん、法に触れぬ限りにおいて、だがな。だから、これはキミからの依頼を受けた仕事であるとともに――俺自身の生きる糧でもあるのだ」

 あとは事務的なやりとりを二、三交わすだけだった。白山は、これから直ちに書面を作成して先方の弁護士に送るので、その後は相手の出方次第であると志津に説明した。万一の場合は訴訟に移行するかもしれないが、自分は労働事件において負け無しなので心配するな――と、胸を張ることも彼は忘れなかった。


「ときに、作家志望のシーズー君。今回の体験は良き題材になりそうかね」

 相談ブースを出る間際、白山はそう志津に問いかけてきた。

 志津は自分が書こうとしていたジャンルを思い出し、答えに窮してしまう。例の小説投稿サイトの職業小説コンテストにチャンスを見出そうと思っていたが、彼女はつい本日、職を失ってしまったばかりなのだ。まあ、これまでの経験から、民間教育の現場を舞台にした話はいくらでも書けそうな気はするが……。

 せっかく白山が体験させてくれている復讐劇そのものは、職業小説には活かせそうにない。

 しかし、志津がそうしたことを説明すると、彼はさらりと言ってのけた。

「職業小説? フン、打ってつけではないか。キミは今、俺という職業人を目の当たりにしているのだ。俺をモデルに小説を書き、その投稿サイトとやらを席巻すればよかろう」

「はぁ……?」

 志津は、彼に最初に声を掛けられた時のような怪訝な目で白山を見返してしまった。この弁護士、言うに事欠いて自分を小説のモデルにしろなどと……。

 だが、次の瞬きをするまでに、彼女はいやいやと思い直す。

 ――案外、悪くないかもしれない。文芸創作というのは突き詰めればキャラクター性が全てだ。こんなドギツイ個性を持った職業人が目の前にいるのだ、彼をモデルに一作書けというのは悪くないアイデアかも……。

 志津が目をぱちくりさせていると、白山はさらに自信満々な口調で続けてくる。

「キミが売れっ子作家となり、俺の活躍を描いた小説が世間で話題になってくれれば――ブラック企業の問題に対する大衆の関心、共感も一層集まろうというものだ。この国に根強く残るブラック労働意識を打ち砕いていくためには、そうした草の根的な意識改革こそが何より大事なのだ」

「は、はあ。……あなたが自分で書かれるという選択肢は?」

「そんな時間があれば一人でも多くの被害者を救済しているさ。俺の仕事は俺以外の者には代われんからな。――同様に、キミの創作もまた、キミ以外の者には代われまい」

 白山が次に吐いた一言は、志津の意欲に火をつけるのに申し分ないものだった。

「有能なキミのことだ。筆力には自信があるのだろう?」

 彼の鋭い目が白ブチ眼鏡越しに志津を見据えていた。……変人のくせして、人の転がし方を心得ている。

「上等ですよ。書籍ホンになったら印税は折半で」

 要らん、と言われるのを見越した上で、志津ははっきりと言い切ってみせた。

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