第5話 お見合い期間

不動ふどう先生ねぇ……ちょっとこういうのは、社会人としてね、どうかと思うんだけどねえ」

 志津しづが数時間ぶりに顔を合わせるハゲ校長は、苦虫を噛み潰したような顔で奥の部屋に入ってくるやいなや、隣のブタ部長と顔を見合わせて言った。

 ブタがそれに追従ついしょうし、「まったく」と何かを言いかけたところで、志津の隣の席に腰掛けている白山しろやま白狼はくろうがよく通る声を朗々と張り上げる。

「面白い! 弁護士は社会制度に組み込まれたセーフティーネットであり、その存在意義を正しく知って活用することは社会人に必須のスキルであると私は思慮するが――不法行為の被害者が弁護士を正しく利用することの何が社会人として不適切なのか、彼女の代理人たるこの白山白狼はくろうが、ぜひ彼女自身にかわって経営者殿のご高説を伺いたい」

「……いや、あなたねえ」

 ガタガタと椅子を引いて志津らの向かいに座り、ハゲはチッと小さく舌打ちをしてから言った。

「私はね、彼女の勤務態度が思わしくないからね、試用期間後の本採用はできませんよと言っただけですよ。それで弁護士を連れて怒鳴り込んでくるなんてね、ねえ、前代未聞だよねえ、教務部長」

「まったくです。不動先生、あなたもわかるでしょ、校長の仰ること。こういうところも含めて、あなたはウチに向いてないという判断なの」

 ブタが厭味ったらしい視線で志津を睨みつけてくる。部屋の外は既に遠隔サテライト授業を受ける現役高校生や浪人生で満員になっており、正社員やアルバイト講師もその質問対応やら何やらでてんやわんやだ。この忙しい時間帯に弁護士を伴って会社に文句を言いに戻ってくるとはどういう了見か、と、ハゲとブタの迷惑そうな目が語っていた。

 クソどもの態度にムカついて、志津が自分で何かを言い返してやろうとしたところで、白い袖から覗く白山の手がさっと彼女を遮ってくる。

「はっはっはっ! 実に微笑ましい。御社は自社の社風に合う従業員を選りすぐるべく、懸命な努力を日々重ねておられるわけだ。なるほど確かに、望まぬ性質の社員を雇用してしまっては後が面倒だからな。結構、結構。どのような者を雇い、どのような者は雇わないか、これからも存分に選別の目を磨かれるがいい」

「……ハァ?」

 志津は白山が高々と言い放った言葉に軽く目を見張った。それではまるで、ハゲやブタがわたしの本採用見送りを決めたことを擁護しているようではないか。

 デスクの向かいのクソ二人もその醜い顔に困惑の色を浮かべている。……この弁護士は何しに来たのだ?とでも言いたげだ。――だが、そこで言葉を終わらせるほど白山は甘くはなかった。

「――ただし、雇用契約を交わす前にな!」

 突如、狼の咆哮のごとく発せられた鋭い声に、ハゲとブタがびくりと反応する。

「ひとたび雇用契約を交わして従業員を迎え入れた以上、職場に合うだの合わんだの、身勝手な御託を並べてその者を追い出す権利など雇用者そちらにはない。彼女を不当に解雇するというのなら、その不法行為に見合う落とし前は付けてもらおう」

 だん、と怒涛の勢いで言い切った白山の言葉に、空気が硬直する。ややあって、ハゲがハゲた頭を掻きながら白山に反論した。

「……だから、不動先生はまだ試用期間だったと言っとるでしょうが。ウチはね、入社して最初の二ヶ月は見習いなの。言うならこれは、雇用してないのと同じでしょ。だからね、私はね、会社の判断として、彼女を本採用することは出来ないなと、そう決めたまでで」

「昭和四十八年十二月十二日付、三菱樹脂事件最高裁判決――『試用期間中の解雇は、』」

 白山が左手の指を立てて話し始めると、彼の手首に巻かれた真っ白な腕時計が部屋の照明をぴかりと照り返す。

「『解約権を留保した趣旨から、採用時にはわからなかったが、試用期間中の勤務状態等から判断して、その者を引き続き雇用しておくのが適当でないと判断することが、試用期間を設定した趣旨・目的に照らし、客観的に相当である場合にのみ許される』」

 目的の文章をそらんじ終えると、白山は全員がそれを正しく聴き取ったことを確認するかのように、志津、ブタ、ハゲの顔をぐるりと見回した。

「経営者殿にお尋ねする。御社が試用期間なるものを設定している趣旨、目的とは?」

「……そ、そりゃあね、弁護士さん。試用期間っていうのは、そう、会社と従業員のお見合いみたいなものでしょうが」

 ハゲがそう言葉を絞り出したところで、隣のブタがうんうんと頷いた。

 志津はその表現に覚えがあった。忘れもしない。採用面接の日、このハゲ校長は、試用期間をお見合いに見立てるレトリックをやけにゆったりした口調で披露してきたのである。さも、自分は経営者として含蓄のある言葉を吐いているのだ、と言わんばかりの、自分自身に陶酔しきった得意ドヤ顔で。

「お互いに相性は悪くないのか、これから一蓮托生でやっていけるのかどうか――そういうことをね、実際に接する中でね、判断していくのが試用期間でしょ。ほら、社員のほうだって、ウチが合わないと思えば辞めてもらう自由はあるんだ。そこはお互い様じゃないですか」

 喋りながらいつもの調子を取り戻したのか、白山に対するハゲの口調は途中から得意げだった。ブタがまた、うんうん、さすが校長はいいことを言う、とでも言いたげな風情で頷きを繰り返している。

 だが、白山は腕を組んで胸を張り、ぎろりとクソどもを見据えるやいなや、「それは契約前にするべきことだ」とぴしゃりと言い返したのだ。

「お互い様だと? 詭弁も休み休み言いたまえ。企業は同時に何人もの従業員を抱えられるのに対し、従業員はただ一つしかない身体を――ただ一度しかない人生をその企業に預けるのだ。これがどうしてお互い様であろうものか」

「……そ、そう言われてもねえ。試用期間で見極めるのがね、許されないなら、どうやって雇った子の良し悪しを判断するのよ」

「知るか。雇用前に御社が御社の責任で済ませることだ。良識ある企業は皆そうしている」

「ウチに良識がないっていうのか? あんたねえ、さっきから聞いてればね、失礼じゃないか!」

 ハゲが顔を真っ赤にして怒鳴った。志津が内心ヒヤヒヤしながら白山の横顔をちらりと見やると、彼は究極的に冷たい目をして――本当にゴミを見るような視線で、ちらり、とハゲの憤慨した顔を見下ろしていた。

「試用期間の趣旨とやらは、それだけか」

 白山は腕組みをしたまま、とんとんとん、と右手の指で自身の左の肘を叩いている。ごくりと息を呑む志津の眼前で、ハゲ校長は見苦しくもう一度、「お見合いだよ、試用期間は」と繰り返した。

「潰れろ」

 辣腕弁護士の口から、冷ややかな言葉が重たい響きで発せられたのを、志津は確かに聞いた。

「違法企業が一人前の綺麗事を叩くな。何が見合いだ。貴様のしたことは、嫁入り前の娘のもとに夜這よばいをかけて手籠てごめにした挙句、やはり具合が気に入らんからと責任も取らず放り出したに過ぎん!」

「……な、な……!」

 ハゲとブタが竦んだ顔で白山を見返している。志津もぽかんと小さく口を開けてしまっていた。……当の女性本人がいる横で、なんという比喩を使うんだ、この弁護士は。

「こ、こ、これ以上は話にならん」

 ハゲは真っ赤に茹で上がった顔のまま、椅子をガタガタといわせて立ち上がり、ブタに顎でクイと合図していた。どうするつもりかと思って志津が見ていると、二人はそのまま部屋から出ていってしまう。

 閉められた扉のすぐ外から、ハゲとブタの必死な声が漏れ聞こえた。

「これじゃ、埒が明かないよ。教務部長、こっちも顧問の弁護士センセイをお呼びして」

「今からですか? そんな急に来てくれるかどうか……」

「無理でも来てもらうんだよ、高い顧問料払ってるんだから」

 そんな外の様子に聞き耳を立てながら、志津はそっと隣の白山に耳打ちする。

「大丈夫なんですか? あっちも弁護士呼ぶとか言ってますけど」

「何が『大丈夫』なのだ? この俺が相手の弁護士のメンツを折ってしまわないかどうか、か?」

 志津がせっかく外の二人に聞こえないように小さな声で話しているというのに、白山のほうは全く声のボリュームを抑えるつもりがないようだった。

「……向こうも本職が出てきたら、あなたのハッタリも通用しないんじゃ」

「俺はハッタリなど最初から言っておらん。同業者相手ならむしろ話は一層スムーズに進むというものだ。相手方とて、この俺が見ている前で依頼者クライアントに嘘は吹き込めんからな」

「でもほら、あっちだって、わたしをクビにする理由を色々並べてくるに決まってますよ。協調性がないとか何とか。わたし、ここで同僚やバイト講師と上手く行ってたとはいえないですし……」

 無能で愚鈍な同僚達や、この自分にナメた口を利いてきた学生バイト講師のムカつく顔が自然と志津の脳裏に思い浮かんだ。……ああ、この会社での二ヶ月間、生徒と接する以外で楽しいことなんて何一つなかったな。

 だが、切ない気持ちに浸る時間など一切与えないと言わんばかりに、白山はちらりと志津の顔を覗いてくる。

「シーズー君。キミは立派に自分なりの誇りを持って仕事をしていたのだろう。キミが己を卑下する必要も、クソどもの言い分に屈する必要も全くない」

 白山白狼の口調はどこまでも白山白狼だった。その台詞を聞いた瞬間、認めたくないことだが、志津はあやうく涙をこぼしそうになった。

 正義の味方、と彼が自分で名乗っている理由が、なんだか今、志津にも腑に落ちたような気がする。

「キミの味方についているのは誰だと思っている? 安心して見ていたまえ。この白山白狼はくろう、労働事件で相手の弁護士に負けたことなど一度もない」

 ひょっとして、わざと外に聞こえるように言っているのだろうか、白山は力強い口調でそう断言した。

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