第3話 無知あるいは悪意

 弁護士・白山しろやま白狼はくろうに連れられて志津しづが足を踏み入れたのは、真白い壁面がぴかぴかと光る、真新しい雑居ビルだった。エレベーター横の案内ディレクトリを見ると、「ホワイトウルフ法律事務所」はその最上階である十階に入居している。……最上階?

「このビル、ひょっとしてあなたの持ち物なんですか」

「いかにも。俺が個人名義で所有するホワイトタワーだ。トランプタワーには及ばないが、入居審査は厳しいぞ。このビルに入っている企業はみな、規模は小さいが絶対的ホワイト企業だ」

 そう言って白山は志津をエレベーターにエスコートし、軽やかにボタンを操作して己の牙城へといざなう。

 金持ちが無条件に偉いというわけでもないが、しかし、都心にこの規模のビルを個人所有できるというのは……。この白山という男、思った以上に大物なのかもしれないな、と志津は息を呑み、変な白ブチ眼鏡が目立つ彼の横顔をちらりと見上げた。


「さあ、入りたまえ。労働者の生命・権利・財産を守る白亜のシェルターにして、ブラック企業を爆撃殲滅せんめつする正義のミサイル基地、ホワイトウルフ法律事務所だ。キミの来訪を心から歓迎する」

 わけのわからない売り文句とともに白山に招き入れられ、志津は事務所の扉をくぐった。たちまち目に入った内装は、なんというか、予想を微塵も裏切らないものだった。

「……白っ」

 床も白なら壁も白。広いデスクが並べられた開放感のあるオフィスは、そこそこの面積を誇っているように見えるが、内装が白いから余計に広く見えるのかもしれない。

「こんにちは」

 事務員らしきおばさんが上品にお辞儀をしてきた。さすがに彼女の服は白ではなかったが、そのことが逆に空間の白さを引き立たせていた。

 白いパーテーションで区切られた相談ブースに案内され、白いチェアに着席して志津が待っていると、白山白狼はくろうが白いマグカップを二つ持ってそこに姿を表した。

「コーヒーで良いかね。俺は冷たいミルクを飲む」

 志津の前に置かれたカップは、湯気とともに良い豆の香りを立ち上らせていた。一方、白山のカップは本当に白い液体に満たされている。

「本当はホットミルクが好きなのだが、あの匂いは人によっては悪臭に感じるらしいからな。キミがどうかは知らないが」

「……はぁ。意外と他人への配慮とか持ち合わせてらっしゃるんですね」

 志津は本気で意外に感じたが、白山は「何を言う。俺はいつでも他者への配慮に満ちているぞ」と真顔で言い返してくる。あんな強引な勧誘で事務所に連れてきておいて、よく言うものだ――。

 ……あれ? そういえば、事務員らしきおばさんが居るのに、この弁護士は自分で飲み物を持ってきたな。

「事務員の女性がいるのに弁護士が自分で飲み物を持ってきたな、と思っただろう」

「はあ」

「その発想が既にブラック企業の体質に毒されているのだ、キミ。女性だから、事務員だから飲食の給仕までしなければならんというのは、古き悪しき日本企業の唾棄だきすべき身分思想だよ。俺はこの事務所の経営者として、従業員に本来の仕事以外の雑務雑用を強いたことなど、今までもこれからも一度もない」

 ふふん、と胸を張って、白山はマグカップのミルクを美味そうに飲んだ。

「……はぁ」

「さて、お嬢さん。まだ委任契約を締結していないので、この時点でキミの身分素性を尋ねる気はないが――まずは事件のあらましを聞かせてもらおうか。キミがクソ企業に勤めることになってから、不当解雇の憂き目に遭うまでの時系列を」

 カップを置き、偉そうに腕組みをして、白山が眼鏡のレンズ越しにじろりと志津の顔を見据えてくる。志津はせっかく淹れてもらったコーヒーに手を付ける心の余裕も持てないまま、まずは気になっていることを問いただした。

「あの、なんでわたしが不当解雇されたって――」

「それ以外に何がある? キミは見たところ大卒数年目、己の能力と経験に確固たる自信を持ち、高待遇を求めて転職した身だろう。おそらく職業は学習塾か予備校の先生と予想するが――学生時代から塾なり予備校なりの講師バイト経験があり、そんじょそこらの校舎長などよりよほど自分の方が授業も上手く、生徒の人心掌握にも優れ、教育の何たるかを知り尽くしていると確信しているタイプ。当然の如く己を重用してもらえると信じて新たな会社の門を叩いたものの、無能で分からず屋の経営者からはズブの素人と変わらぬ新人扱いを受け、沸々と怒りを燻らせながら勤務を続けている内に早期解雇を言い渡されてしまった――違うかね」

「あなた超能力者ですか!?」

 志津は本気で心臓が喉から飛び出るような衝撃を受けていた。白山がぺらぺらと並べ立てた推理が全て当たっていたからだ。

 ……どういうことだ? 小説投稿サイトで流行りの異世界ファンタジーではあるまいが、この男、読心術のチートを与えられた転生者か何かなのか?

 唯一、志津の実感と合わないのは、志津が会社から受けた扱いを白山が「解雇」と表現していることくらいだが……。

「試用期間限りで勤務は終わりにしてもらう、とでも言われたか」

「は、はい」

 そうなのだ。志津がブタ部長とハゲ校長に言われたのは、あくまで試用期間後の本採用はしないという話。勤務開始から二ヶ月間は試用期間扱いだということは、雇用契約書にもしっかり書いてあったのを覚えている。言うなれば、志津は最初からその会社に勤めなかったのと同じ扱いになるわけで、解雇クビにされたというのとは若干話が違うのであって――。

「キミ、まさか、試用期間限りの解雇は解雇に当たらないと信じ込まされているのではあるまいね」

「へ?」

「駅前で見かけた時から、おそらくそのクチだろうと思ってはいたが――嘆かわしい。己の持つ権利の重みすらも知らずに雇用契約を交わすなど愚の骨頂だ。と言いたいところだが……この国の労働者のほぼ全てがそうなのだから、キミの無知を責めても始まらんか」

 心の底から志津を憐れむような白山の視線は、バカにされているようで腹が立ったが――しかし、むっとする以前に、どういうことか教えて欲しいという思いが志津の中では上回った。

 志津とて仮にも作家志望の端くれ。レトリックをぶん回した白山の日本語を正しく理解できるくらいの読解力はあるつもりだ。

 彼は、試用期間後の本採用見送りも立派に「解雇」に当たるのだと述べているのだ。……そうなのか? 本当に?

「本当にそうなのか、と問いたげな顔をしているな。安心したまえ。キミ達の無知を正しく補うために我々法律家は居るのだ」

 腕組みを解き、マグカップのミルクをぐいと飲み干してから、白山は告げた。

「『本採用見送り』などと巧みに言葉を言い換えて労働者を騙す違法企業を許してはならない。万引きが窃盗であり、援助交際が売春であり、カツアゲが恐喝であり、いじめが暴行・傷害であるように――『試用期間後の本採用見送り』は、不当解雇という名の違法行為なのだ」

 会社の行いをはっきり違法と言い切った白山の言葉に、志津ははっと目を見開いた。自分の受けた仕打ちは、あくまで合法の範囲の中での権益の行き違いだと思っていた。だが、試用期間限りで辞めてもらうと言われたあの言葉自体が、そもそも不当で違法だというのか?

「お嬢さん。プライドの高いキミには認めがたいことかもしれないが、キミは無知に付け込まれて騙されているのだよ。あるいは、もう一つの可能性は、相手もまた無知であるということだ。キミの権利を踏みにじらんとするクソ会社のクソ経営者は、なんとも残念なことに、『試用期間』の名のもとにキミをクビにするのが自社の正当な権利だと思い込んでいるのだ。嘆かわしい! ブラック企業は悪意のみならず無知からも生まれる」

 立板に水の勢いで並べられる白山の言葉に傾聴しながら、志津はブタとハゲのムカつく顔を脳裏に思い返していた。……やつら、悪意のせいか無知のせいかは知らないが、わたしに偽りの内容を信じ込ませてコケにしてきたのか。「試用期間限り」と言われれば労働者は文句を言えない、と思い込ませて――!

「……わたしは、どうすれば」

「決まっている。無知無能なゴミどもに人生を振り回され、あるいは悪意に満ちたクズどもに己の尊厳を踏みにじられることを笑って流せるのなら、そんなクソ会社のことなどさっさと忘れて次の就職活動をすればいい。優秀なキミならどこでも働き口があろう。しかし、キミがあくまでそのクソ会社やクソ経営者のことを許せないのなら――立ち上がり、戦うのだ。キミは既に武器を手にしている。ブラック企業を叩き潰す正義の味方、白山白狼はくろうと巡り会えた幸運という武器をな」

 白山がそう言い終えたとき、彼の白ブチ眼鏡のレンズが照明を受けてきらりと光った。

「わたし――」

 志津は自分の中に沸々と燃え上がるものの正体を探っていた。怒り、悔しさ、後悔、怒り、怒り――いや。これは闘志だ。相手のほうが間違っていたことを目の前で専門家が保証している。あとは、やつらに認めさせるだけだ。

「わたし、戦います。力を貸してください」

「よかろう」

 白山が突如デスクから立ち上がり、さっと腕を伸ばして握手を求めてきた。志津は彼の勢いにつられて立ち上がり、気付けばその握手を受けていた。胡散臭いと思えた白山の視線が、今は何より心強かった。

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