第2話 ホワイトウルフ法律事務所

 弁護士はどこだ。わたしの無念を晴らす実力を持った、頼りになる弁護士はどこだ。

 志津しづは息巻いて駅前の噴水広場に仁王立ちし、立ち並ぶ雑居ビルの窓に踊る無数の文字の海を見回していた。

 弁護士の事務所、あるにはある。だが……。

 田村法律事務所。なんだか名字が平凡で気に入らない。ふらわあ総合法律事務所。そんなカワイイ名前の事務所にあのクソ会社をとっちめてくれる気概があるものか。山川総合法務事務所。だまされないぞ。事務所に弁護士はいないんだろう。

 駅のこっち側は望み薄だ、と志津は結論づけた。パンプスできびすを返し、つかつかと駅の反対側の繁華街に向かって舵を取る。――と、その時。

「お嬢さん。お困りのようだね」

 何者かが背後からキザったらしい声で志津の鼓膜を震わせてきた。

 このクソ忙しいときにナンパか? どんな罵詈雑言で追い払ってやろう、と思って振り向いた、その先には。

「……白っ」

 白ジャケットに白ネクタイ。ベルトも白なら靴も白。結婚式の新郎でもそこまで白くないぞと突っ込みを入れたくなるような、上から下まで真っ白の男が立っていた。

 さすがに髪は白くなかったが、黒い前髪の下できらりと存在感を放つのは、そんなのどこで売ってるんだと思ってしまう横長の白ブチ眼鏡。細身の身体で高身長、顔立ちだけなら男前だが、変な眼鏡のレンズ越しにはどんな女の子でも付いていく気が失せるような鋭い瞳がぎらりと志津を見据えている。

 印刷ミスかと見紛うような白一色の装いの中で、唯一、白以外の色彩を放つのは、ジャケットの左下襟ラペルに輝く向日葵ヒマワリはかりの小さな金バッジ。

「……弁護士さん?」

「ほっほう、バッジを見てわかるとは話が早い。社会に巣食うブラック企業を完膚なきまでに叩きのめす正義の使者、ホワイトウルフ法律事務所の白山しろやま白狼はくろうとは俺のことだ」

 長ったらしい自己紹介を一息で言い切り、名前まで真っ白な男がフフンと胸を張る。志津の頭に浮かんだ感想はただ一言――コイツ、大丈夫か?

 胸を張った姿勢のまま、ちらりと志津を見下ろしてくるその男。いかにも何かを聞き返して欲しがっているように見える。仕方がないので、志津は男が述べた変な事務所の名前をオウム返ししてやることにした。

「ホワイトウルフ?」

「そう、俺のファーストネームの白狼はくろうは『白いおおかみ』と書くのさ。研ぎ澄まされた嗅覚でブラック企業を追い詰め、怒りの牙を突き立てる正義の獣! 法曹界のホワイトウルフと恐れられたこの俺の力、頼りにしたくはないか」

「……胡散臭い。わたし、確かに弁護士さんを探してましたけど、もっとまともな人を所望してますので」

「まともな弁護士はキミのために動かないぞ!」

 歩み去ろうとした志津の背中を、男の張り上げた声がぴたりと釘付けにする。

「そう、そこで足を止めたのは正しい選択だ、お嬢さん。己の存在をないがしろにしてくれた極悪非道のブラック企業に一矢報いたいのだろう。ならばキミがすべきことはただ一つ、有象無象の弁護士の事務所をあてもなく尋ね回る無謀な真似はハナから諦め、この白山白狼はくろうに事の次第を話すことだ」

 男に背を向けたまま独白を聞きながら、志津はふと彼の態度に、見た目と自己紹介の奇抜さ以上の違和感を覚えていた。

 なぜ、この男は、わたしがあのクソ会社に反撃したいと思っているのを知っているのだ?

 志津がその場を立ち去らず、結局その男のほうへ再度振り返ってしまったのは、その疑問を解消したかったからに他ならない。

「どうして自分がブラック企業の犠牲者だとわかるのか、という顔をしているな」

「……ええ、まあ」

「簡単なことだ。こんな平日の昼下がりにレディススーツとビジネスバッグで駅前に立ち尽くし、きょろきょろと法律事務所を探す若いお嬢さんが一人。よもや婚約破棄や多重債務が原因ではあるまい。刑事事件の被害者でもなければ加害者の身内でもない――そういう依頼者はもっとオロオロと困った目をしているものだ。ところがキミの目はギラついた怒りに燃えている。人生を踏みにじられた絶望感や、ひとひらの救済を求める悲愴感ではなく――無能で分からず屋なクズどもに反撃を誓う復讐者リベンジャーの目だ」

 そう言われて男に正面から顔を覗き込まれ、志津は思わず息を呑んだ。彼の推理があまりに正鵠を射ていたからだ。この白山白狼とかいう弁護士……まさか、信じたくはないが、本当に凄い奴なのか?

「だから、キミは、俺以外の弁護士の事務所になど行ってはならない。せっかく燃え上がった復讐の炎をボンクラどもに吹き消されてしまっては勿体ないではないか」

「……あなた以外の弁護士さんは、ボンクラだと言うんですか?」

 男の繰り出すレトリックを正確に理解し、志津は問い返した。なんて厚顔無恥なことを言ってのける男だろう。年の頃なら三十代だろうか、弁護士の中では若手の部類だろうに、自分以外をまとめてボンクラ扱いするなんて。

 そんな志津の感想を見透かしたのだろうか、男は意外にもフォローのような一言を続けてきた。

「むろん、分野を限ればそれなりに優れた弁護士はいくらでもいる。キミの目当てが債務整理ならそれを得意とする事務所のドアを叩けばいい。チンケな傷害事件で勾留された恋人を不起訴で放免させたいのなら、刑事に強い弁護士を頼ればよかろう。――だが、キミを不当解雇したクソ企業に逆襲を果たすという目的においては、我がホワイトウルフ法律事務所以外にキミが頼るべき場所などない」

 男の言葉にまた志津はどきりとさせられた。……不当解雇、と言ったか?

 わたしの問題は、試用期間限りで勤務を終わりにしてもらうと言われたことなのだが――?

「どうして、他の弁護士さんは頼りにならないんですか」

「愚問だな。そもそも弁護士の本分は正義の味方などではない。カネを積んだ依頼者のために道理を曲げて無理を通すのが弁護士の仕事だ。カネさえ積まれればどんなクソ企業の味方でもする――それが弁護士の精神であり使命なのだよ」

 よくわからないことを堂々と宣言する男だ。いや、彼は待っているのだろう。志津がこう尋ねるのを。

「……なぜ、あなただけは頼りになると?」

「この白山白狼こそが日本で唯一、ブラック企業を蛇蝎だかつのごとく憎み、その根絶に魂を賭ける正義の味方だからだよ」

 ふふんと再び胸を張って宣言し、それから男は初めて胸ポケットから名刺を取り出してきた。志津の目の前に差し出されたそれは、紙片いっぱいに白い狼の絵が描かれ、「ホワイトウルフ法律事務所 所長 白山白狼はくろう」の文字が黒の縁取りに白抜きの印字で踊っている、やたら費用と手間がかかっていそうなデザイン名刺だった。

 ……やっぱり、胡散臭い。関わらないほうが身のためという気がする。

「ありがとうございます。あなたに依頼したくなったら後日また連絡しますので」

 男の手前、名刺をバッグにしまい込み、志津が再びきびすを返そうとすると――

「解雇事件は時間との勝負だぞ!」

 やたらと真剣マジな目付きになって男は声のトーンを上げた。びくっ、と志津の身体は強張ってしまう。この男、何がなんでも志津から依頼を取り付けなければ気が済まないらしい。

「安心したまえ、我がホワイトウルフ法律事務所は、ブラック企業絡みの事件に限り、相談費用は何度でも何時間でも完全無料だ。……だから、お嬢さん、話を聞かせてはくれまいか。人助けと思って」

「……人助け? あなたがわたしを助けてくれるんじゃなくて、わたしがあなたを助けるんですか?」

「いかにも。なぜなら弁護士は、事件があり、依頼者がいなければ動けない。どんなに目の前に唾棄だきすべきブラック企業があったところで、誰からの依頼も受けていないのに俺一人が乗り込んで奴らをぶっ潰すことなどできないのだ。嘆かわしいことではないか! 俺はこんなにも、ブラック企業の根絶を夢見ているのに!」

「……はぁ。つまり、わたしが仕事をお願いすることで、初めてあなたは動くことができる、と」

「察しが早い! なんと聡明なお嬢さんだ。キミ、ひょっとして東大くらいなら入れるんじゃないのかね」

「からかってるんですか?」

「いやいや、高く買っているんだよ。さあ来たまえ、事務所はすぐそこだ」

 やれやれ、と志津は溜息をついた。

 これ以上、目立つ駅前で押し問答をするくらいなら、もうこの人に話を聞いてもらうのでいいかもしれない。この男が本当に腕の良い弁護士なら、実際、志津にとっても渡りに船かもしれないのだ。

「じゃあ、まあ、相談だけ」

 やむをえず、志津が小さく首肯すると、上から下まで真っ白の男は、ぴかりと白い歯を見せて笑った。

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