第30話 素顔

「あはは。もうしばらくアイドル続けることになっちゃいました、わたし」

 三週間ぶりに撮影現場で顔を合わせた豊橋レナは、ブレザーとミニスカートの高校制服コスチュームに身を包み、サヤカに向かって気恥ずかしそうにはにかんでみせた。

「最初からそのつもりだったでしょ?」

 サヤカがふふっと笑みを向けたのは、サングラスとマスク越しにでもレナに届いたらしい。

「もぉ、サヤカさんー!」

 周りのスタッフや共演者達の目があるのも構わず、レナは大きく腕を広げてサヤカの胸に飛び込んできた。人気アイドルのいきなりの挙動にサヤカは若干戸惑いながらも、ふっと納得して、彼女の細い身体を抱きしめ返す。

 これはアイドルの仮面を付けたレナなのか、それとも人間・豊橋レナの素の顔なのか。どちらであろうと、この儚くもしたたかな顔を持った戦友と一緒に酒田監督の復帰を迎えられることは、サヤカにとって至上の喜びに思えた。


「……いよいよ、大吾さんとの共演ですね」

 角屋プロダクションのロケバスが工場跡地の手前に乗り入れてくるのが見え、サヤカの隣に立つレナが、いたずらっぽい笑みをにんまりと浮かべてくる。

「そう……ですね」

 サヤカは無意識のうちに自分の胸に右手を当てていた。心臓の鼓動がトクトクと高鳴るような心持ちがする。

「初めてでしょ? まず何て声掛けるんですかっ」

「あ、いや、うーん……初めて、って言うか……」

 なぜだろう、これまでに三度行き合ったときの彼とのやりとりが、今思い出すと途方もなく恥ずかしい内容に思えてくる。自分はまともに素性も名乗らない内から一体何度「好き」と言ったのだろう。ヒーローが、だけど。

 だけど――だけど、きっと。

 あのやりとりがあったから。

 互いにスーツアクターとして顔を合わせるのは今日が初めてでも、わたしと彼とはきっと、もう魂が通じ合っているのだ。

「あれー? サヤカさん。ひょっとして、実はもう大吾さんと話しちゃってました?」

「えっ、あの。大吾さんとは、ちゃんと初めてなんですけどね」

「あやしい。何があったか教えなさいっ」

「命令!?」

 レナにぐいぐいと片腕を引かれ、サヤカが笑いながら彼女と押し問答していると――

 ロケバスのドアが開き、TAKUYAを筆頭に、角屋プロ側の出演者とスタッフがぞろぞろとバスから姿を現し始める。

 「彼」が最後の方に降りてくるであろうことは、なぜだか勘でわかった。

「大吾さん」

 彼を小さく指差して、ぽつりと隣で呟いたレナの言葉に、サヤカ自身も同じ言葉を重ねていた。

 バスから現れた「彼」は――初めて会ったときと同じく、黒いシャツの上に黒いパーカーを羽織っていた。

 素顔はサングラスに隠されてよく見えない。だけど、そもそも顔なんてどうだっていい。

 サヤカがじっと彼の姿を追っていると、向こうもちらりと彼女を見て、かすかに、ぺこりと会釈をしてきたように見えた。

 他の人達の手前、大きな動きで邂逅を喜ぶようなマネはできない。それはサヤカにだってわかっている。

 だけど、同じ空間に居られるだけで。

 これから同じ場面を演じられるというだけで、サヤカの心を満たすには十分だった。

「監督、入られます!」

 北映ほくえい側の人員と角屋プロ側の人員がずらりと揃ったところで、ロケバスから降り立った最後の一人、酒田監督が皆と向き合い、「あー……」と遠慮がちな声で咳払いをした。

「結局、戻ってくることになっちまった! 皆、撮影終了まで宜しく頼む」

 必要以上のことは言わないのが彼らしい。一斉に「ハイ!」と答えるスタッフや出演者達の声は、誰も彼もが嬉しさを素直に表に出しているようにサヤカには思えた。――勿論、それはサヤカ自身も。


Readyレディ――Actionアクション!」

 いつでも変わらないキレを放つ酒田の号令のもと、軍服姿のTAKUYAと、ミニスカートのレナが背中合わせに立ち、それぞれの変身アイテムを顔の横に構える。

 本当は、変身の前に二人並んで敵を蹴散らしていく素面すめんアクションが入るはずだったが、レナの足はまだ激しい動きに耐えられるほど回復してはいない。敵を前にした二人は、燃える台詞のやりとりの後ですぐさま変身し、サヤカらスーツアクターにアクションをバトンタッチするのだ。

 生身アクションを得意技の一つとする酒田監督としては不本意な変更かもしれないが、そもそも銅元監督への担当変更すら可能性に入っていたことを考えると、この程度のことは何でもないとサヤカは納得していた。

「聖杯変身ッ!」

 無言の気合を発して変身眼鏡グラスをかざすTAKUYAに対し、レナは凛と澄んだ声で変身の掛け声を叫び、可憐なポーズをびしりと決める。

 そこでカットがかかり、二人の熱演を褒め称える言葉に続いて、いよいよ酒田は大吾とサヤカの二人をカメラの前に呼んだ。

 表舞台を降りるTAKUYAと交代する形で――アルファイター・エイトのスーツと仮面マスクを纏った大吾が歩み出てくる。バイカーマスク・ジャンヌの姿に変わったサヤカもまた、レナと片手でハイタッチを交わし、戦場へと進み出た。

 ここからが、やっと、わたし達の戦いだ。

 そう――酒田監督をこの場に呼び戻してくれたのは、紛れもなくTAKUYAと豊橋レナの力だった。自分と大吾は、それぞれ彼らの動きを見守っていたに過ぎない。あれだけ雨のベンチで格好つけた言葉を投げ合っておきながら、少なくともサヤカにできたことといえば、ただレナの提案を聞いてそれを傍観していただけだ。

 だが。だからこそ。

 ここから先は、自分達が映画を支える番だ。

 生身アクションのパートが削られた分は、きっちり、わたし達が取り戻す。短い年数ながらも今日まで真剣に磨いてきた、本職のアクションで。

「準備はいいな? 大吾、サヤカちゃん」

「うす!」

「ハイ!」

 仮面マスク越しに答える声が大吾と重なる。寒空の下、緊張に張り詰める現場で、集中力を極限に研ぎ澄ませ――サヤカはこれから始まるアクションの流れを再確認する。

 本来は巨大ヒーローであるエイトと、等身大のジャンヌが共に並んで戦うのは、映画の中でもこの一シーンだけだ。時間にして一分足らず、束の間の共闘で並み居る敵を薙ぎ払ったあとは、直ちにエイトは巨大化して怪獣との戦いに向かってしまう。

 そこから先、エイトの巨大戦とジャンヌの等身大戦が一つの画面で並行して描かれるのは、あくまで撮影がオールアップした後の合成作業の賜物。サヤカが本当に大吾と一緒に戦うのは、今この瞬間しかない。

Actionアクション!」

 その一瞬の戦いの火蓋が、遂に切って落とされる。

 大吾エイトと背中合わせに立ち、サヤカは迫りくる敵の怪人達を睥睨する。手筈通りに迫ってくる怪人の着ぐるみスーツ。刹那の間隙かんげきを縫って繰り出す反撃の嵐が、並み居る敵を次から次へと薙ぎ倒していく。

 バックで爆発ナパームが炸裂する中、サヤカは視線の先に立つ大吾と呼吸を合わせて跳び出し、ワイヤーに吊られるがままに空中で互いの身体を交差させる。風を纏ってすれ違ったそれぞれが繰り出すのは、その先に待ち受ける敵への必殺キック。

 地上での前哨戦を終え、巨大化の構えを大吾エイトが取るまでの僅かなアクションの一幕――

 サヤカは高揚する意識のなかで、それを永遠に続く舞踏会のように感じていた。


「よぉーし、OK! 一旦休憩しよう」

 大吾エイトが退いてからの等身大アクションの撮影も終わり、サヤカが仮面マスクを被ったまま酒田や周りの人達と互いに労をねぎらっていると、TAKUYAが豊橋レナと連れ立ってサヤカの前に出てきた。

「やっと会えたな、絶世の美女さん」

「TAKUYAさん。お疲れ様です」

 初めての対面となる大物スターを前に、サヤカが緊張してぺこりと頭を下げると、彼はサヤカの素顔を覆うジャンヌの仮面マスクをこつんと無遠慮に指ではじいてくる。

「梅野さんが約束してくれたんだけどなー。キミの素顔を見せてくれるって」

「……あ、えっと……」

 そう言えば梅野プロデューサーがそんなことを言っていたな、とサヤカは思い返す。でも。

 大物スター相手に、正直に言っていいものか迷った。

 彼より他に、この素顔を真っ先に見せたい相手がいると。

「TAKUYAさん。サヤカさんは――」

 レナが横から口を挟んでくれかけたところで、TAKUYAは全てを見透かしたような顔でふっと笑った。

「わかってる、わかってる。野獣ならあっちにいるぜ」


 大スターが親指で指して教えてくれた先――

 北映だか角屋プロだかが、ロケ地として使う便宜のために水道を確保し続けているという小さな手洗い場に、彼の背中はあった。

 サングラスとタオルを傍らに置き、彼はばしゃばしゃと顔を洗っている。

 サヤカの鼓動はいつになく高鳴っていた。そっと周囲を見渡し、誰も近付いてこないのを確認して、サヤカはそっと自分の顔面を覆う仮面マスクに手をかける。

「大吾さん」

 サヤカが彼の背中に声をかけると――彼は、ゆっくりと振り向いた。タオルで無造作に顔を拭きながら。

 サヤカはそっと自分の仮面マスクを外し、汗に濡れた素顔を冬風に晒す。

 現場の男性には決して見せることのなかった素顔を。

 ひゅう、と二人の間を冷たい風が吹き抜け、極限まで高まる緊張と高揚感のなか、サヤカの視覚は彼が一歩ごとこちらへ歩み寄ってくるのを認める。

 どこか遠慮がちに、だが力強い足取りで。

 サヤカも彼に向かって自分の足を踏み出した。互いにあと一歩のところまで近付いたとき、出し抜けに、ビデオ店や雨のベンチで聴いたのと同じ彼の声が降ってきた。

「あー……何て言うか。思ってた通りだ」

 どこか声帯を強張らせたような。言うべき言葉を慎重に探しているような。

 きっと女性と話すのに不慣れなのか、だが、だからこそ伝わる、真剣な声で。

「あんたは……綺麗だ」

 その言葉は、不思議と――

 これまでに自分の容姿を褒め称えてくれた数多の男性達の言葉とは、全く違った響きを持ってサヤカの心に届いた。

 嫌な気分は、全くしなかった。

 彼の言葉は、自分の顔の作りに対してではなく――その奥の何かを見て言ってくれたものだと、わかっているから。


 サヤカもまた、相手の顔を見上げる。

 見る者を一目で震え上がらせるというその容姿。多くの人が野獣と形容する素顔を。

 確かに、彼の顔は、表面的な事実だけを見れば、豊橋レナが言うようなイケメンではなかった。

 だけど、サヤカは知っている。

 子供の頃に観た、ニズディーのアニメ映画。野獣と呼ばれる男の正体が何だったのか。

 ――それ以上は、考えるのも恥ずかしかった。


「……戻ろうぜ。休憩終わっちまう」

 素顔で見つめ合った時間は、ものの一分もなかっただろう。

 だけど、これから先、彼と語らう時間はいくらでもある。サヤカはなぜかそう確信していた。

 大吾がサングラスをかけて歩き出すので、サヤカも仮面マスクを被り直し、彼の後をついていく。

 彼と自分が再び隠したその素顔は、今までもこれからも、決してカメラの向こうに出ることはない。

 映画が大ヒットしても、それはTAKUYAやレナの手柄。世間の人は自分達の存在になど目もくれない。

 だが、それでいい。それが自分達の誇りなのだ。


 彼と自分は影の住人。二人の仕事は、裏方の誇りを込めた仮面武闘スーツアクト

 今日見せ合った素顔は、今しばらく、お互いだけの秘密として胸に仕舞っておこう。

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