第28話 賭けのチップ

 現場そこで、また会おう――。

 そう言って駆け出していく力強い背中を見送ったあとも、サヤカは冷たい雨に打たれながらじっと公園のベンチのそばに立ち尽くしていた。

 雨の冷たさを打ち消すほどの熱い血の流れが、自分の全身を巡るのを感じる。

「……大吾さん」

 サヤカはぽつりと彼の名を呟いていた。彼は――顔も知らないサヤカのヒーローは、きっと、彼に出来る最大限のことをするために駆け出していったのに違いない。

 このまま終われないという思いはサヤカも同じだった。自分も、自分に出来る限りのことをするだけだ。

 酒田監督を呼び戻すため、自分には何が出来るのか。

 それならば決まっている。豊橋レナに会いに行くことだ。ネットの住人たちが好き勝手なことを言って酒田を叩いているのを鎮めるには、事故の犠牲者であるレナ自身の口から声明を出してもらうしかない。

 ――レナさんなら、きっと。

 梅野に連れられて初めてレナと会ったとき、酒田監督の撮る映画を熱心にベタ褒めしていた彼女の姿がサヤカの脳裏に蘇る。

 レナはきっと、怪我させられたことを恨んでなどいないだろう。彼女もまた、酒田の続投を望む一人のはずだ――そうサヤカは確信していた。

 と、そこで。

 雨に濡れたパーカーのポケットの中で、スマホが震えるのをサヤカは感じた。

 防水のスマホの画面に映し出されているのは、「姉ちゃん大変!」というテキストメッセージと、画像の受信を示すラインの通知だった。

 ――なによ、匠。こんなときに。

 水滴に滑る指先で、サヤカはスマホの画面をタップしてみる。

 次の瞬間、サヤカは心臓の止まるような思いがした。弟からのラインの画面には――

『豊橋レナ緊急入院! アイドルに重傷を負わせた変態エロ監督・酒田浩平の野蛮な素顔』

 と毒々しい色で印字された、電車の中吊り広告が写っていたのだ。

 数多くの下品な見出しが所狭しと並ぶ、「週刊文芸スプリング」の刊行予告。刊行の日付は来週になっている。

「なによ、これ……」

 数秒ほど呆然とその画像を眺めているうち、頬に打ち付ける冷たい雨の感触が、ふと一つのことをサヤカに気付かせた。

 酒田はきっと、「文芸スプリング」にこの記事が出ることを知っていたのだ。だから、自ら映画からの降板を申し出た――北映ほくえいと角屋プロダクションにかかる迷惑を少しでも抑えるために。

「酒田さん……そんな」

 サングラス越しの視界が、雨以外の何かで滲んでいく。熱い液体が自分の頬に伝うのをサヤカが感じたとき、手にしたスマホが電話の着信を示す震動を発し始めた。

 発信者は梅野プロデューサーだった。嗚咽を慌てて飲み込み、サヤカはそのまま電話に出る。

「サヤカちゃん、いいかしら? 今どこにいる?」

 梅野の声は、電話が繋がって良かったという安堵と、何かへの焦りがぜになっているように聴こえた。

「はっ、はい。角屋プロさんの撮影所の近くです」

「悪いけど、北映かいしゃまで急いで来てちょうだい。一緒に豊橋レナちゃんの病院に行きましょう」

 梅野の用件は奇しくも、サヤカが梅野にお願いしなければと考えていた内容と一致していた。


 バッグの中にいつも持っていたタオルで申し訳程度に髪と身体を拭き、傘が風に煽られるのももどかしく、サヤカは梅野が待つ北映本社へと駆けつけた。梅野が待機させていたらしきタクシーに飛び乗り、二人はレナの入院している私立病院を目指す。

「急に呼び出して悪かったわね。レナちゃんが、わたしとサヤカちゃんに大事な話があるって言うの」

「話って?」

「行ってみなきゃわからないわよ」

 横殴りの雨がタクシーの窓に激しく打ち付けている。タクシーの運転手がたまたま女性だったので、サヤカはサングラスを一旦外し、ハンカチで目元を拭くことができた。

「……あの、梅野さん。わたし、酒田監督のことが週刊誌に出るって見たんです。それで――」

「知ってるわ。……きっと、レナちゃんもその話でわたし達を呼んだのよ」

 後部座席で隣に座る梅野もまた、サヤカが見たこともないような緊張を顔に貼り付けているように見えた。病院に着くまでの僅かな時間が、サヤカには一本の映画よりも長く感じられた。


 サヤカが梅野の後について病院最上階の個室に足を踏み入れると、ベッドの上で上体を起こしていた豊橋レナが、「すみません、お呼び立てして」と二人に頭を下げてきた。

 レナに挨拶を返そうとして、サヤカはハッと目を見張る。そこに居た先客に気付いて。

 病室には既に二人の人物がいた。ベッドのそばに立っているのは、サヤカも度々顔を合わせた、レナの芸能マネージャーの女性。そして――窓際の椅子に腰掛けていたのは。

 豚のように肥えた身体を黒スーツに押し込めた、中年の男性。

「や、康元やすもとプロデューサー」

 サヤカの隣の梅野が、慌てた様子で「お邪魔致します」とお辞儀をした。サヤカも咄嗟に頭を下げる。日本でその名を知らぬ者はいない大物作詞家にして、秋葉原エイトミリオンの系列グループを束ねるプロデューサー――康元秋夫あきおに向かって。

「どうも。ウチのレナが面倒を掛けております」

 康元が椅子から立ち上がり、気さくな声を投げかけてきた。

「と、とんでもない。この度は私共の撮影で豊橋さんにお怪我を負わせてしまい……お詫びの言葉もございません」

 梅野の恐縮しきった返礼の間、サヤカは背筋の凍る思いで直立していることしかできなかった。

「まあ、まあ。元はと言えば、北映さんには随分と彼女のワガママを聞いて頂いたようで。こういうことは現場でシノギを削ってれば常に起こりうることですから、どうか気を楽に」

 大物プロデューサーがそんなことを言いながら向かい側の椅子を手で示すので、まず梅野が、続けてサヤカも恐る恐る腰を下ろした。

 ああ、心臓に悪い――。こんな大物が病室で待ち受けているならサヤカだって事前にそれなりの心の準備をしたのに。豊橋レナは一体、何を考えているのだろうか。

「レナ」

 その大物が、ベッドの上のレナをふいに呼んだ。

「これで聴衆オーディエンスは揃ったんだろう。聞かせてみせろ、お前の提案とやらを」

「は、はい」

 サヤカが見た豊橋レナの顔は、いつになく緊張に満ち――それでいて、何かの決意にも溢れているように感じられた。

「梅野さん、サヤカさん、急に来てもらってありがとうございます。……わたしが怪我したせいで、酒田さんがあんな風に言われるようになっちゃって……本当に、ごめんなさい」

 片足をギプスに釣られた姿勢のまま、レナは自由になる上半身で精一杯の平身低頭をしてきた。梅野が、そんな、と恐縮した様子で、頭を上げるように言っている。

「……梅野さん。お伺いしてもいいですか?」

 顔を上げたレナに、ぽつりと絞り出すような口調で問われ、梅野が黙って頷く。

「もし、酒田監督が本当に降りちゃうってなったら……代わりに今回の映画を撮るのって、誰になるんですか」

「それは――」

 梅野が答えに詰まっているのがサヤカにもわかった。唇を噛み、答えづらそうに、梅野は言う。

「多分、銅元どうもと監督になるでしょう。元々、例年の春映画は銅元さんの担当でしたから」

「そうですよね……」

 そこでレナは少し俯き加減になった。レナが銅元の春映画のシナリオを酷いと言っていたのをサヤカは思い出した。その意見は現場にいるサヤカ達も同じだ。

「……わたし、北映さんにお願いがあるんです」

 再び顔を上げたレナは、康元やサヤカの顔も十分に見回した上で、最後に梅野に向き直った。

「今回の映画の前売り券に、投票券を付けて……この映画を酒田監督が撮るか、銅元監督が撮るか、お客さんに決めてもらうようにしてもらえませんか」

「えっ……」

 サヤカの隣で、梅野は虚を突かれたような顔をしていた。

「誰が何人いるかもわからないネットの声や、ウソばっかり書いてる週刊誌の勢いに負けて、酒田さんを降ろしちゃうなんて……わたし、納得いかないんです。それよりも、ちゃんとお金を出してくれたお客さん達に投票で決めてもらうなら、誰も文句言えなくなるじゃないですかっ。仮に、酒田さんをいじめたくて、前売りを買って銅元さんに投票する人が沢山いたとしても……それはそれで売り上げになります。誰にも迷惑は掛けないんです」

「……そう、ですね……」

 梅野は必死にレナの話に頭を追いつかせ、その提案を咀嚼しようとしているようにサヤカには見えた。サヤカにも、はっきり言ってレナの言葉は斜め上すぎて、何を言っているのか理解するのがやっとだった。

 強いて表現するなら、それはまるで別世界の人間の発想。

 サヤカらの生きる世界とはまるで違う原理、違う常識で回っている世界。ファンの応援が票数で可視化され、より多くの金をファンに遣わせた者が正義となる現代の異世界で、日々戦い続けている豊橋レナならではの――。

「よく考えたじゃないか、レナ」

 真っ先に喝采の声を上げたのは、誰あろう康元プロデューサーだった。

「ネットや週刊誌の連中が、まやかしの民意をかさに着て酒田監督を引きずり降ろそうとするのなら……本当の民意がどこにあるのかを確かな数字で見せつけてやればいい。その前売り分の売り上げを確保することが、北映さんと角屋さんへの罪滅ぼしにもなる。……いかがでしょう、梅野さん」

 大物にいきなり同意を求められ、梅野はしばし逡巡の表情を見せたのち――

「至急、会社に戻り検討させて頂きます」

 前向きな希望に満ちた声で、レナと康元に向かってそう答えていた。

 サヤカの頭でもやっと理解が追いついてきた。こんな投票を提案する以上、レナは、自分のファンに酒田への投票を呼びかけるつもりなのだろう。そうすれば、レナを犠牲者に祭り上げて酒田バッシングに沸いている連中も、表立って酒田を悪者扱いすることはできなくなるかもしれない。

 それに――熱心な特撮ファンが投票する限りにおいて、酒田の人気が銅元に劣ることなど有り得ないのだ。

「だがな、レナ」

 と、そこで、レナに顔を向けた康元の口調が、厳しいものに切り替わった。

「本来、映画を誰に監督して欲しいかなんて、出演者おまえが口を挟めるような領域の話じゃない。思い上がった口を利こうものならお前が袋叩きだぞ。その分別ふんべつは出来てるんだろうな」

「……覚悟の上です、先生」

 居住まいを正し、はっきりと康元に答えるレナ。その瞳に本気の炎が燃えているのをサヤカは見た。

「よし。……梅野さん、詳細はウチのスタッフと詰めて頂けますか。諸々の設備、費用は全てウチで負担します」

 それだけ言って康元は立ち上がった。梅野が慌てて「恐れ入ります」と言って立つのを見て、サヤカもがたっと椅子を鳴らしてその場に立ち上がる。

 梅野とサヤカに目礼し、でっぷりと肥えたプロデューサーは病室のスライドドアに手をかける。……部屋を出て行く間際、彼は豊橋レナにふらっと顔を向けて、

「レナ。お前がウチのオーディションに受かってから何日が経ったかな」

 と、明日の天気の話でもするかのような口調でいきなり問いかけた。

「えっ、にち? ねんじゃなくてにちなんですか!?」

 ベッドの上でレナが目を丸くしている。「えっと、今年で六年目だから……」などと指を折り始める彼女に向かって、康元はにやりと唇の端を吊り上げていた。

「ちゃんと覚えておけ。明日でちょうど二千日だ」

「ほ、ほぉ……にせんにち、ですか。わたし」

「正念場だ。ある意味、この投票は総選挙以上の正念場になるぞ。お前がウチで過ごしてきた一日一日の価値が……豊橋レナという人間の真価が、ここで問われると思え」

 レナが「ハイ」と声を張り上げるのを見届け、康元は今度こそ病室を出ていった。「御機嫌よう」と梅野やサヤカらにも一礼して。

「……レナさん」

 サヤカがおずおずと声をかけると、レナは生気に満ちた笑顔を向けてきた。

「梅野さん、ありがとうございます。……サヤカさん、わたし、酒田さんを絶対呼び戻してみせますから」

 レナの言葉は力強かった。

 そして、彼女の「覚悟」が本物であったことを――サヤカはその僅か二日後に知ることになる。


『こんばんは。名古屋エイトミリオンの豊橋レナです。皆さん、北映さんと角屋プロダクションさんからの告知は、もうご覧になって頂けたでしょうか。四月公開の映画、「アルファイターVSたいバイカーマスク」の前売り券には……この映画の担当監督さんを、前売り券をご購入下さった皆様の意思で決めて頂く、投票用のシリアルナンバーが付いてるんです。えーと、前代未聞ですよね。実はこれ……わたしからお願いして、投票で監督さんを選んで頂くようにしてもらったんです』

 サヤカのスマホに流れるWEB配信番組の画面には、いつものような明るく弾ける笑顔ではなく、神妙な面持ちでこちらを見つめる豊橋レナの姿が映っている。自分がまだ怪我の療養中であることを視聴者に知らせるためか、彼女の格好は病院の入院着のままだった。

『皆さんもご存知の通り……ネットで酒田監督が悪く言われてしまっているのは、全部、わたしのせいです。わたしが不注意で怪我しちゃったのがいけないんです。酒田さんは何も悪くありません』

 唇をきゅっとしばって、悔しそうな表情を浮かべるレナ。それがカメラを意識した演技なのか、心の奥底から溢れ出す本当の気持ちなのか、サヤカにももうわからない。

『……そういえばね。康元先生が教えてくれたんですけど……わたし、名古屋エイトミリオンのオーディションに受かってから、昨日でちょうど二千日だったんですよ。信じられますか? 何の取り柄もない、ただのオタクだったわたしが……そんなに長い間、皆さんの前でアイドルをやらせてもらえたんです。……せっかくなら三千日くらい居座りたいな、って、思わないこともないんですけど』

 落ち着いた声で語り続けるレナの言葉に、サヤカはぞわりと冷たい予感が背中に走るのを感じた。まさか。彼女は、まさか――。

『……ねー。わたし、まだ、エイトミリオンでやりたいことが沢山あったんですけど……でも。でもね。責任は取らなきゃいけないですよ。……もし、わたしのすっごく尊敬する酒田監督が、わたしの怪我のせいで降板なんてことになっちゃったら……そのときは、わたしも責任を取って、アイドルを辞めます』

 レナの口からその言葉が発せられた瞬間、全世界が無音になったようにサヤカは感じた。

『今日は、皆さんにそれだけ言いたかったんです。……あ、映画は、監督さんが誰になっても、きっと名作に仕上がりますから……わたしのファンの皆さんも、よかったら観に来てくださいね。……じゃあ、ちょっと早いですけど、今日はこれでお別れです。名古屋エイトミリオンの豊橋レナでした』

 余韻も何もなく番組は終わり、画面がブラックアウトする。

 サヤカはしばらく呆然としたままスマホの黒い画面を見つめていた。そこに映るのはレナではなく、人前に出せない自分の素顔だけだ。

「……反則だよ、レナさん」

 無意識のうちに絞り出した独り言は震えていた。ぽたり、と水滴がスマホの画面に落ちるのを、歪む視界の中でサヤカは見た。

 ずるい。こんなの……完璧すぎる。

 今になってサヤカには恐ろしく思えてきた。豊橋レナの無邪気な笑顔の裏に秘められた、死をも辞さない戦士の魂が。

 もし酒田が降板するなら自分も責任を取る――という言い方をレナはしていたが、これは実質、自分自身を人質にしたファンへの脅しにほかならない。

 酒田を戻さなければ、豊橋レナというアイドルは居なくなるぞ。それでもいいのか、と。

 世間の人はそれを狡猾だと責めるかもしれない。茶番だと嘲笑うかもしれない。

 だが、サヤカはひたすらに身震いしていた。いとも容易く己の首を賭けのチップとして差し出したレナの決意に。何がなんでも酒田を呼び戻すという本気の熱意に。

「レナさん……!」

 楽しそうに特撮の魅力を語るレナの笑顔が。

 変身ベルトを手にして嬉しそうにするレナの笑顔が。

 いたずらっぽくサヤカの恋心をからかうレナの笑顔が、サヤカの脳裏に溢れ出す。

 今すぐ彼女に会いたいとサヤカは思った。すぐにでもまた病室に駆けつけて、会って話して、一緒に泣いて、抱きしめ合いたいと。

 だが、わかっている。その時は今ではない。

 と再び顔を合わせる場所は、酒田の仕切る撮影現場だ。

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