第27話 ヒーロー
「酒田さん! どういうことっすか、監督降りるって!」
大吾がその背中に追いついたとき、酒田監督はちょうど角屋プロダクションの撮影所の門を出ていこうとするところだった。
大吾の声が思った以上の大声になってしまっていたのだろう、酒田はやや驚いたような風情で彼の方へ振り向く。今にも降り出しそうな曇天の下、酒田の表情はいつものように飄々として見えた。
「どうもこうもない。俺から
「なんでですか」
豊橋レナの負傷の件で、アイドルファンが酒田バッシングに走っているのは大吾も承知していたが、だからといって彼の降板は納得できる話ではなかった。聞いた限りでは事故は不可抗力のもので、酒田が叩かれなければならない理由などないはずだったからだ。
「酒田さんが辞めるようなことじゃないでしょう」
「寄るな寄るな、顔
酒田が両手のひらで大吾を押し返すフリをするので、彼も一歩後ずさる。
名監督はふうと一つ息を吐いてから、大吾のサングラス越しの目を覗き込んで言った。
「……あのな、大吾。俺を引き止めてくれる
「あんなの、何も知らねえ奴らが騒いでるだけじゃないっすか」
大吾はすぐさまそう言い返したが、酒田は小さく笑って首を振った。
「俺がレナちゃんを怪我させちまったのは事実だ。俺がエロ監督なのもな」
人懐っこい笑顔を前に、大吾が二の句を継げずにいると、酒田の力強い片手がそっと彼の肩に載せられた。
「こんなときは誰かが詰め腹を切らされるのが、ジャパニーズ・サムライの責任の取り方ってやつだろう。今回はたまたまそれが俺だった。それだけのことじゃねえか」
「でも、酒田さん」
大吾にはどうしても納得がいかなかった。酒田自身が納得して身を引こうとしているのだとしても……。
アイドルファンが騒いでいるだけで監督が降ろされてしまうなんて、どう考えても間違っている。角屋プロも北映も、ネット上の匿名の声なんかに負けて酒田の首を差し出すというのか。
酒田が撮らずして、誰がこの奇跡の大作を撮るというのだ。
「すまんな、大吾。
大吾の肩に手を載せたまま、酒田が本気で申し訳なさそうに言葉をかぶせてくる。
「……謝らないで下さいよ。謝るくらいなら、最後まで――」
大吾が奥歯を噛みながら言いかけたところへ、後ろから先輩アクターの声が飛び込んできた。
「おい、大吾、そのくらいにしとけ。酒田さんだって
気付けば何人もの先輩達がその場に集まっていた。酒田が大吾の肩から手を離したところで、先輩達は口々に、酒田の降板を惜しむ言葉と、これまでの礼を述べている。
「酒田さん。またアルファイターの現場に戻って来て下さいよ」
「ああ……
そして、最後に皆に向かって手を振り、酒田は撮影所の門を出ていった。最後まで快活な笑いを顔に浮かべて。
「……先輩達は、これでいいんすか」
小さくなっていく酒田の背中を見送りながら、大吾は暗雲立ち込める空を見上げて、誰にともなく呟く。
「まあ、そりゃあ……よくはねえけどな」
アルファイター・タイガーを演じる「角屋プロダクションの虎」が、隣で同じく空を仰ぎながら言った。
「酒田さんを叩いてるネットのネクラ野郎どもはムカつくけどよ。まあ、しょうがねえさ。現場が意地張って映画が流れりゃ、楽しみにしてくれてる子供達が泣くことになる。
自分の何倍も人生の酸い甘いを噛み分けてきた先輩の言葉が、大吾の胸にずんと重く響く。
大吾にだって理屈はわかっているのだ。酒田を監督から降ろさない限り、映画の企画自体が流れてしまう可能性があるということ。今の内に酒田が退いて他の監督にバトンタッチすれば、その最悪の可能性自体は回避できるかもしれないこと……。
「お前が納得できねえのはわかるが、視聴者からすりゃあ、誰が撮ろうと同じヒーローだろうよ。
先輩が本気でそんなことを言っている筈がなかった。誰が撮ろうと同じアルファイターだなんて。
だが、そうしたことを飲み込んでいくのが、大人として仕事をするということなのだろう。
「……そっすね」
大吾が
――
――ジャパニーズ・ヒーローの魅力を世界に発信する大事な仕事に、北映も角屋もあるか。俺はアルファイターから離れねえぞ――。
――心配するな、皆。その映画、メガホンを取るのはこの俺だ――。
「……酒田さん」
勢いを増す雨にも構わず、大吾は撮影所の近くの公園のベンチにひとり腰掛け、柄にもなく物思いに沈んでいた。
脳裏に蘇るのは酒田の人懐っこい笑顔と、自分達を励ましてくれた力強い言葉ばかり。
酒田の手腕と人柄があったからこそ、誰もが彼の撮る映画に夢を託すことができた。酒田の導きがあったからこそ、自分も自信を持ってこの道を歩んで来られたのだ。
――その彼が、こんな些細なアクシデントを切っ掛けに、現場を追われてしまう。そんなことがあっていいのか。
このまま終わるのか。このまま……。
「……隣、いいですか?」
地面と己の身体を激しく打つ雨音の中、正面から女の声が聞こえたような気がした。
「え?」
大吾が気付いて顔を上げた時には、既にその声の主は傘をたたみ、すっと彼の隣に腰を下ろしていた。
大きなつば付きの帽子と、口元を覆うマスク、そして大吾と同様のサングラス。頑なに顔を見せようとしない若い女が――レンタルビデオ店で二度行き合った「彼女」が、いま、彼の隣でベンチに腰掛け、彼と同じように雨に打たれている。
どうして、この女性がここに?
突然の彼女の出現に、大吾が動揺を隠せずにいると、雨音に掻き消されない凛とした声が彼女のマスク越しの口元から響いた。
「よく、会いますね」
「……はあ。そうっすね」
なんだ、いきなり何をしに来たんだ、彼女は――。
大吾には訳がわからなかった。だが、撮影所の近くにいる自分を、ピンポイントで探して来たのであれば……彼女は勘付いているのかもしれない。自分が角屋プロの「顔を出さないスーツアクター」であることを。
だとすれば、彼女の正体はやはり、北映のスーツアクトレスのサヤカなのか――。
「映画……このままだと、ダメになっちゃいそうですね」
女性がさらに言葉を続けた。大吾は少し逡巡してから、酒田や妹の言葉を思い出し、小さく首を振った。
「何の話っすか。人違いでしょ」
自分の正体が野獣であることが世間に知られてはならない。たとえ隣に座っているのが本当に同業者だったとしても、自分がスーツアクターの大吾であることを彼女に明かす訳にはいかない。
だが、彼女は構わず言ってくる。
「いえ。わたしはあなたと話したいんです」
「……」
しばしの沈黙が二人の間に横たわる。絶え間なく振り続ける雨が、公園の遊具に、砂場に、二人の座るベンチに激しく打ち付けている。
「このままでいいんですか?」
ふと、女性の声がそれまでよりも近くに聞こえた。彼女は大吾の前に身を乗り出し、互いのサングラス越しに彼の目を覗き込んでいた。
大吾は反射的に顔を背けてしまった。この自分の顔は、サングラス越しにでも世の女という女を震え上がらせる野獣の顔なのだと知っているから。
――このままで、いいんですか?
女性がもう一度同じ台詞を発したのか、自分の頭が勝手にそれをリフレインさせたのか、大吾にはわからない。
「……俺は別に、誰でもいいっすよ、監督なんて。誰が撮ろうと同じヒーローだろ。大人のファンがガッカリしてようと何だろうと、子供はヒーローが画面に映ってさえいりゃあ喜ぶ。それでいいじゃないすか」
大吾は吐き捨てるようにそう答えていた。先輩アクターに言われたばかりの大人の意見を、自分自身に言い聞かせるように。
「……『あなた』は、そうかもしれませんね」
女性のつらそうな声が大吾の鼓膜を震わせた。
……仕方がない。自分も、先輩達のように大人にならなければならない。たとえ、この言葉が、特撮好きの彼女を傷付けるものであっても――。
「でも……」
女性が大吾の隣からすっと立ち上がり、彼の目の前に回るのが見えた。その帽子のつばから、長い髪の先から、服の袖から、ズボンの裾から、降り続ける雨が滝のように滴っている。
「ヒーローの方の彼は、それで納得するんですか?」
女性の目がまたサングラス越しに大吾の目を見下ろしていた。今度は大吾も顔を背けることができなかった。
「このまま終わっていいんですか? ヒーローって、そんなに弱いものだったんですか!?」
天上から発せられるような美しい彼女の声が、はっと大吾の両眼を見開かせる。
「ヒーローは……ヒーローは逃げちゃいけないって! きっと……きっと、彼なら、そう言うと思います」
「……ヒーロー」
大吾の中で、何かが音を立てて弾けるような気がした。
気付けば大吾は、自分もベンチから立ち上がり、彼女の勇気に満ちた素顔を見下ろしていた。いや、彼女の素顔は変装に隠されて見えない。大吾が見たのはきっと、彼女の心の輝きだった。
「それが、彼女からの伝言っすか」
大吾が言うと、彼女はこくんと小さく頷く。
そして彼女は尋ねてきた。あの時と同じ一言を、恐らくは全く違う想いを込めて。
「好きですか? ヒーロー」
「……ああ。あんたも?」
「わたしも好きですよ。ヒーロー」
そして、再び二人の間の世界が雨音だけに包まれる。
女性と見つめ合う中で、大吾はまだ自分の胸に燃える火が消えていないことを悟った。
そうだ。この火を消すのは――大人になるのは、精一杯もがいた後でも遅くない。
「……あんた、約束してくれ」
大吾の口をついて出た言葉に、女性のサングラス越しの目が「なにを?」と優しく聞き返していた。
「ネットの奴らがどれだけ騒ごうと、お偉いさんが何を言おうと……。絶対、酒田さんを呼び戻すんだ。俺達の現場に」
膝をつく前に、まだやれることがあるかもしれない。
ヒーローは逃げてはならない。ヒーローは屈してはならない。
ヒーローは、どんな時でも負けてはならないのだ。
「……
女性が頷くのを視界の隅にとらえ、大吾はもう走り出していた。
心にヒーローの
通い慣れた街路を駆け抜けて辿り着いた角屋プロの本社前には、見慣れない黒いハイヤーが停まっていた。
まさか――と思いながら、大吾が顔の水滴だけを素手で拭ってエントランスをくぐると、そこには。
「……おいおい。水も滴る野獣かよ」
女性マネージャーを傍らに従え、今まさに上層階へのエレベーターへと乗り込まんとする、戦友の姿があった。
「TAKUYAさん――」
「お前も戦いに来たってわけか?」
大吾の顔に
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