chapter 5. 歴史と未来

第25話 怒りの沸点

 豊橋レナ入院の報せを南川みながわが受け取ったのは、玩具会社スポンサーの担当者と角屋プロダクションの広告担当を交え、春の映画に合わせた玩具展開について大詰めの話し合いをしている最中だった。

 アルファイター・エイトの新しい変身眼鏡グラスをバイカーマスク側の変身ベルトとのワン・パッケージで出すかどうかも大事な話だが、撮影中の負傷事故はそれにもまさる緊急の事案だ。南川は会議の列席者達に断りを入れ、取るものも取りあえず会社を飛び出した。

 携帯電話で上層部に連絡を取りつつ、タクシーを都内の私立病院へと急がせる。豊橋レナは北映ほくえい側がキャスティングしてきた出演者であるが、だからといって南川が知らぬ存ぜぬを通すわけにはいかない。自分もこの映画の共同責任者なのだ。


 病院最上階の個室の前では、酒田監督が南川の到着を待っていた。「この度は申し訳ありません」と折り目正しく謝罪してくる酒田に恐縮しながら、南川は彼について病室に入る。

 室内には、北映の梅野プロデューサーと、共演者のTAKUYAが既に顔を揃えていた。芸能マネージャーの女性に寄り添われ、豊橋レナがベッドの上から申し訳なさそうな顔で南川に頭を下げてくる。南川はレナとは制作発表記者会見のときに顔を合わせたきりだったが、入院服に身を包み、ギプスで足を固められたアイドルの姿はなんとも痛々しかった。

「ごめんなさい……。わたしのことで、角屋プロさん側の方にまでご足労を」

「とんでもない。こちらこそ申し訳ありません。お見舞い申し上げます」

 南川は豊橋レナと彼女のマネージャーに向かって深々と頭を下げた。こんなことに角屋側も北映側もない。皆で一つの映画を作っているのだ。

 ちょうどそこで、看護師を伴って医師が入室してきた。一同を見渡し、関係者が全員揃っていることを見て取ったのか、医師は手元のカルテにちらりと目を落としてから語り始めた。

「幸い、軽度の靭帯損傷ですから、半月もすれば自力で歩けるようにはなります。ただ、アクション映画の撮影となると、相当期間のリハビリを経てからでなければ認められません」

「……リハビリって、どのくらいですか?」

 豊橋レナ自身が悲壮な表情で医師に尋ねた。

「豊橋さんはお若いですし、元々ダンスで鍛えられていたこともあるので、比較的短期間での治癒は見込めますが……それでも最短一ヶ月は見なければ」

「一ヶ月……」

 医師の言葉で病室は重苦しい空気に包まれた。一ヶ月も撮影に穴を開けてしまっては、とても映画の封切りには間に合わない。……いや、それ以前の問題かもしれなかった。

「後ほどまた伺いますので」

 有名人の扱いなど手慣れたものといった風情で、医師が看護師とともに退室していく。

 南川が、北映側の責任者である梅野の顔をちらりと見やると、向こうも口元をきゅっとしばった苦渋の表情で彼を見返してきた。

「梅野さん。御社サイドでは、どのようなご判断ですか」

「わたしも上席の判断を仰いでいるところですが……。最悪の場合は、制作中止ということも有り得るかもしれません」

 やはりか、と南川は嘆息した。角屋プロの重役も同じことを言うかもしれない。

 南川の感覚からいっても、それはやむを得ないことだった。脇役や裏方スタッフならまだしも、メイン出演者、それも現役の女子アイドルを撮影中に負傷させてしまったとなれば、もはや映画の撮影を続行するどころではない。

 こうなった以上、名古屋エイトミリオンの事務所プロダクションに対しては、角屋と北映が連帯して損害賠償の責任を負うということも……。

 南川が頭を抱えていると、当の豊橋レナ本人は、腕を組んで押し黙っている酒田監督に目を向け、「撮影、止まっちゃうんですか?」と尋ねていた。

「……It's regrettableざんねんだが, butしかし...」

「そんなのダメですっ。わたしのことで撮影を止めちゃうなんて」

「ダメと言われてもな。こっちには、君を負傷させてしまった責任がある」

「酒田さんは悪くないです、全部わたしのせいですから。……わたし、頑張って早く復帰しますから! 撮影続けましょうよっ」

 酒田に訴え続けるレナの目は、何がなんでも撮影を止めてほしくないという本気の熱意に満ちているように南川にも見えた。

 ……だが、気のせいだろうか。南川の隣で、ポケットに手を突っ込んで立っていたTAKUYAが、チッと舌打ちのような音を小さく漏らしたのは。

「酒田さん、お願いします!」

「レナ!」

 レナの必死の勢いに割って入ったのは、彼女のマネージャーの女性だった。

「あなたが頑張りたいのはわかるけど、無理したら本業に影響が出るかもしれないのよ。来期の総選挙では五位以上を目指すんでしょ?」

「だけど、ここで引き下がれませんっ。総選挙だって……ここで逃げちゃうより、わたしがちゃんと映画に出れた方が順位に繋がる筈です」

「逃げるとか逃げないとかじゃないの。無理を押して撮影を続けて、公演や握手会に支障が出たらどうするの? 来年は名古屋エイトミリオンの全国ツアーだって始まるのよ。どっちが大事かよく考えなさい」

「そんな……わたし、どうしてもこの映画には出たいんです。特撮に出るのは夢だったんです」

「聞きなさい、レナ。ここで不遇ポイントを稼いでおいた方が却って有利かもしれないのよ」

 女性の発言に関係者一同の空気が変わるのがわかった。他の者達を置いてけぼりにしたようなマネージャーとアイドルの言葉の応酬に、梅野も酒田も口を挟めずにいる。隣でTAKUYAが「不遇ポイント?」と小さな声でオウム返しをしたのは、恐らく南川以外の者の耳には届いていないだろう。

 「不遇ポイント」なる言葉は南川の知識の範疇外だったが、文脈から察するに――楽しみにしていた映画の仕事がポシャるという可哀想な目に遭えば、ファンからの同情票が集まって総選挙で有利になるはずだ、というようなことをマネージャーは言っているらしい。

「……同情票なんかで順位が上がっても、わたし、何も嬉しくない」

 レナは小さく首を振り、再び酒田の方を見た。

「酒田さん、お願いします。撮影続けてください。わたし、どんな状況でも映画出ます。なんだったら別の役でも出ますっ。敵に捕まって泣いてるだけの役とか、それか声役だけとか……それならわたしがこんな状態でも撮影できますよね!?」

「レナちゃん、それは――」

 酒田が困ったような顔で何かを言いかけたとき、

「ふざけんなっ!」

 南川の隣で、大スターの怒りが爆発した。

「映画に出たら選挙とやらの順位が上がって、ポシャれば不遇ポイントだぁ? この映画はお前らのお遊びのオモチャかよ。舐めてんじゃねえよ!」

 びくり、と顔を引きつらせたアイドルに向かって、TAKUYAの叩きつけるような言葉が続く。

「お嬢さん、あんた、わかってんのか。あんたが居るから梅野さんもこの企画を立ち上げられたんだぞ。あんたの女バイカー役があったからこそ、アルファイターとの共演も動き出せたんじゃねえか」

 彼の怒りに口を挟める者など誰もいなかった。酒田も梅野も、もちろん南川も。豊橋レナのマネージャーさえも、今はばつの悪そうな表情で遠慮がちにTAKUYAの顔を見返しているだけだった。

「怪我しちまったモンはしょうがねえけどよ、今になって『捕まって泣いてるだけの役でもいい』だと!? あんたの変身する女バイカーが中心に居なきゃ、この企画自体が成り立たねえんだよ。いつまでお客様気分で居やがるんだ。真剣に仕事と向き合えねぇなら芸能人なんか辞めちまえ!」

 レナを指差してびしりと言い放ち、TAKUYAはきびすを返して病室のドアに手をかける。

 そこで、涙声になったレナの言葉が彼の背中を呼び止めた。

「……わたしだって。わたしだって遊びじゃないんですよ。あなたにわかるんですか!? 激しいポジション争いの中で、やっとダブルセンターまで上がってきて……それでも戦い続けなきゃいけないわたしの気持ちが! 秋葉原ほんてんの先輩達を相手に順位を維持するのだって、どれだけ大変か知らないでしょう!?」

「レナ、やめなさい!」

「だって……だって」

 レナはマネージャーに宥められ、尚も嗚咽を漏らし続けている。対するTAKUYAは、彼女の反論をフンと鼻で笑い、「付き合いきれるか」と吐き捨てるだけだった。

「勝手に狭い庭の中で勝った負けたやってろ。この怪我をダシにファンの同情誘ってCDを箱買いさせて、一位にでも何にでもなりゃいいじゃねえか、シンデレラガールさんよぉ!」

 スライドドアを乱雑に開け放ち、TAKUYAは全身から怒りの炎を迸らせたまま病室から出て行ってしまう。南川は残った関係者達に軽く頭を下げ、急いで彼の後を追った。

「TAKUYAさん。TAKUYAさん!」

 他に訪れる者もいないプライベートフロアの廊下で、大スターが振り向く。

「南川さん。あんたには悪いが、あちらさんがあんなふざけた調子なら俺は降りるぜ。……事故はしょうがねえさ。誰のせいでもねえ。だが、この期に及んで『他の役でもいいから映画に出させろ』なんて言い出すお子ちゃまとは、良い作品なんか作れる気がしねえ」

 南川は彼を引き止める言葉を返すことができなかった。彼の怒りはもっともだと感じたからだ。レナもレナでアイドルの道に本気なのは理解できるが……だからといって、TAKUYAに咎められて先程のような逆ギレしか出てこないのなら、豊橋レナという人間はまだまだ子供であると言わざるを得ない。

 そこで、豊橋レナのマネージャーが慌てた様子で病室を飛び出してきて、「先程は失礼を申し上げました」とTAKUYAに平身低頭したが、大スターの方は時既に遅しといった風情だった。

「ジャリ番で油売ってねえでオタクとの握手に励んでろ、って言っといて下さいよ」

 そのままエレベーターホールへと向かっていくTAKUYAの背中を南川は追えなかった。誰も話しかけるな、とその周りの空気が語っていたから。

「申し訳ありません」

 おまけのように自分にも頭を下げてくる女性マネージャーに、南川は小さく首を振った。

「……芸能人ってのは、色々難しいですからね」

 女性と気まずい苦笑いを向け合いながら、南川はこれからのことを思い暗鬱な気分になった。

 だが――この程度のことは、この後に始まる本当の崩壊の序章に過ぎなかったのだ。

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