第22話 感情の名前

 ――今日も、「あの人」には会えなかった。

 撮影所からの帰りに、サヤカが意識して渋谷のレンタルビデオ店に寄るようになってから、今日で三回目。

 アルファイター・エイトが出てくる映像作品を観て勉強しようという目的ももちろんあるのだが、サヤカがサングラスとマスクの下でそわそわと心を弾ませながらこの店の特撮コーナーを訪れるのは、「あの男性」にまた会えるのではないかという微かな期待があるからに他ならない。

 今日の収穫は、全十二話一クールの映像作品「アルファイター列伝・エイト戦記」のDVD第一巻と第二巻。しかし、メインの収穫の方は――なし。

 我ながら何をしているんだろう、と再び電車に揺られながらサヤカは思う。これじゃまるで少女漫画の女の子みたいだ。

 サヤカが己に課したミッションは、レンタルビデオ店で会った男性とスーツアクターの大吾が同一人物かどうかを確かめること、そして「冒険記オデッセイ」の件のお礼を伝えること。……だが、エイト側のアクションシーンとなかなか撮影が一緒にならず、未だ「大吾」のほうに接触できないサヤカにとって、ミッションの達成を早める道は――再びビデオ店で「男性」のほうに接触することしかないのだ。

 ――しかし、会ってどうするんだろう。仮にあの男性が大吾だったとして、自分はその先、何をどうしようというのだろう?

 顔を隠してしか生きられない、このわたしが。


「姉ちゃん、今日は珍しくジャマして来なかったじゃん」

 家庭教師の先生が玄関を出ていく物音がした後、弟のたくみがサヤカの自室の扉をこんこんと叩いて、扉越しのまま話しかけてきた。

「なによ、ジャマって」

 ベッドに寝そべって映画の台本の世界に没頭していたサヤカは、匠のムッとする表現で現実世界に引き戻される。

「わたしは先生にアイサツしてただけでしょ」

「それが今日は来ないもんだから、センセー、がっかりしてたよ」

 匠の声はどこか笑い事のようだったが、サヤカは正直、笑う気分にはなれなかった。

 家庭教師の先生が変装越しの自分に骨抜きにされているのだと匠に言われて以来、サヤカはそれまでのように自然な態度で彼に挨拶できるような気がしなかった。

 あの先生が何か人間として嫌だというのではない。それでも、サヤカが二十年の人生で培ってきた勘のようなものが、本能で告げていたのだ。――彼もまた、わたしの顔だけを見ている人間だ。そういう男性とはお近付きにならない方がお互いのためなのだと。

 それで今日は、そもそも匠が毎回「来るな」と言っているものだから、初めてそれに従ってみたのだが――。

「姉ちゃん、好きな人でもできたの」

「……はあ?」

 匠の扉越しの声がふいにサヤカの意識を揺らす。……いきなり何を言い出すんだ、このお子ちゃまは?

「だからセンセーと話すの避けてんの? あーあ、センセーもカワイソウに、華の大学生活をジャガイモ畑に変えられたと思ったら、今度は告る前から玉砕だよ」

 なおも扉の向こうで勝手なことを並べ立てる愚弟クソガキに向かって――サヤカは音もなくベッドから降り、出し抜けに扉を開けて素顔を覗かせてやった。ぎゃっ、と声を上げて、匠が慌てて自分の目を両手で塞ぐ。

「姉をからかうワルガキはジャガイモ畑の刑だぞ」

 サヤカが匠の手を払って無理やり素顔を見せようとすると、哀れな弟は必死に抵抗して目を堅く閉じ、卑怯ヒキョー卑怯ヒキョーとしきりに繰り返している。

「腕にモノを言わせるのは卑怯ヒキョー!」

「だまれっ、オトコのくせに」

 丁々発止の末、すたこらさっさと階下へ逃げていく弟の背中をふうっと見送り、サヤカは溜息をついた。

 自分こそ、オンナのくせに何をしているんだか――。


 翌日は豊橋レナのアクションシーンの撮影だった。北映ほくえいが撮影用に借り切った学校の構内で、怪人や戦闘員を相手に立ち回る彼女の「変身前」と「変身後」を一日で撮り切ってしまうスケジュールである。

 サヤカは、造形制作会社から仕上がってきたばかりの女バイカーマスクのスーツを全身に纏い、仮面マスクで男性のアクターやスタッフ達から顔を隠して、豊橋レナの素面すめんの撮影を見守っていた。

「レナちゃん、本番五秒前ファイブ・セカンズ!」

「はぁーい」

 酒田監督の号令に、ブレザーにミニスカートの高校制服コスチュームに身を包んだレナが、ほわんとした声色で答える。

 くりくりとした瞳をきょとんと丸ませ、夢に見た特撮の現場に心弾ませているようなアイドルの顔が――次の瞬間、何か違うものの魂をその身に憑依させたかのように、きりりと別の表情に切り替わった。

Actionアクション!」

 サヤカが撮影スタッフの背中越しに見る豊橋レナの姿は、もはや同じ豊橋レナではない。

「――ハッ!」

 襲い掛かってくる戦闘員達をキッと見据え、ひらりと身をかがめて敵の大振りな攻撃をかわす彼女。次の瞬間、ミニスカートの裾をふわりと跳ね上げて放たれる鋭いハイキックが、戦闘員の一人を大きく後方へ押し飛ばす。

 続いて片足を軸に回転ターンし、残る戦闘員達にチョップとキックの応酬を浴びせていくレナ。くるくると彼女が身を翻すたびに、まるで布にも神経が通っているかのように、スカートの裾がで舞い上がっていく。その下には当然、二重三重に「防御」がなされている筈だが――そのことすら勘付かせない絶妙な角度での乱舞は、もはや芸術の域にすら達していた。

 恐れるべきは――そんな神がかりの御業みわざをやってのけながら、アクション自体の質も、表情の演技も全く損なわれないことだ。戦闘員役のアクター達と呼吸を合わせ、事前の打ち合わせ通りのアクションを寸分違わない精度でこなしていく彼女の姿は、とてもアクションの現場に初めて連れ込まれた素人には見えない。

 バイカーマスクの仮面越しに豊橋レナの動きを観察しながら、サヤカは思わず小さな声で呟いていた――スゴイ、と。

 勿論、彼女が演じているのは、サヤカら本職のスーツアクターが普段やっているのとは比べ物にならないほど単純で初歩的なアクションに過ぎないのだが――それにしたって、彼女の出来栄えはサヤカの想像の域を超えていたのだ。

「はいカットォ! レナちゃん、Excellentエクセレント!」

 酒田が最上級の賛辞でレナの激闘を讃える。止まったカメラの前でレナはふうっと一つ荒い息を吐いたが、その額にはほとんど汗も滲んでいなかった。

「さすがは『ダンスの名古屋』のトップメンバーだな! どう、このくらい余裕?」

 酒田に訊かれた瞬間、ふっと真剣ガチの顔からふわりとした女の子の顔に戻って、レナは「はいっ」と声を弾ませている。

「もっと激しいアクションでも行けますよ! ワイヤー、爆発ナパーム、どんと来いです」

「はははっ、さすがにそこまではさせられんけどな! じゃあ次、いよいよお待ちかねの『変身』行こう」

「わあい! 変身!」

 変身ベルトの造形プロップを小道具スタッフから手渡され、レナはこの上なく目をきらきらと輝かせている。その様子を見守りながら、さぞ幸せだろうな、とサヤカも口元を緩ませた。自分専用の変身ベルトをカメラの前で身に着けられる機会など、どんな人気スターでも生涯に一度だってあるものではない。

Actionアクション!」

 再び敵を見据える戦士の顔に戻り、顔の横にかざした変身ベルトのバックルを腹部に押し当てるレナ。そこで一旦カメラを止め、ベルトを腰に装着して、再びカメラが回る。

「――聖杯変身ッ!」

 レナがひらりとスカートを翻し、どこか変身少女アニメを思わせる変身ポーズをびしりと決める。すかさず掛かるカットの声と、続いて飛び出す絶賛の嵐――。

「よし、レナちゃんのシーンはオールクリア! 続けてサヤカちゃん入って!」

 酒田に呼ばれ、サヤカはレナと交代するようにカメラの前へ躍り出る。レナがすれ違いざま、笑顔でハイタッチを求めてきたので、サヤカも快くそれに応じた。

「本職の凄さをレナちゃんに存分見せつけてやれ」

「ハイ!」

 サヤカが仮面マスク越しにちらりとレナの姿を見やると、レナはサヤカがさっきまで陣取っていた撮影スタッフのすぐ後ろの位置に立ち、ワクワクした顔で撮影を見守っていた。

 ――それなら、カッコいいとこ見せてやりますか。

 仮面マスクで狭められた視界で怪人と戦闘員の姿を見切り、サヤカは瞬速の武闘へと身を投じる。トップアイドルがどんなに凄くても、本職の自分がアクションで負けるわけにはいかない――。


「――サヤカさんって、いま誰かに恋してます?」

 撮影半ばの休憩中、学校の教室を借用した二人きりの控室で、ふとレナはサヤカにそう問いかけてきた。

「えっ……何、何ですか?」

 レナの言葉を聞き間違えたのかな、と思ってサヤカは動転してしまった。何と言った? ……恋?

「恋ですよ、こーい」

 やはり聞き間違いではなかった。が……、いきなり何を言い出すんだ、このアイドルは。どこかの愚弟じゃあるまいし。

 レナは人差し指をぴんと立て、にこっと笑ってサヤカの素顔を覗き込んでくる。

「ホラ、わたし達アイドルって恋愛禁止じゃないですか。だからこそって言うのかな、周りのヒトの感情の機微には、結構敏感になっちゃうっていうか。サヤカさん、わたしと初めて会った時と今とで、纏ってるキラキラオーラが違いますもん。この短期間の間に好きな人でも出来ちゃったのかなーって。……ひょっとして、スーツアクターの大吾さんだったりして」

 相変わらず喋りだすと止まらない豊橋レナは、普通だったらもっと勿体ぶったり相槌を待ったりしながらゆっくりと辿り着くであろう結論を、ぱしりとサヤカの耳に叩き込んできた。

「え……?」

 サヤカはレナの前で間抜けな声を出してしまってから、自分が今どんなにきょとんとした顔になっているかに思い至り、慌てて口を閉じる。

 レナの言葉はそれほどに斜め上のものだった。好きも何も……まだスーツアクター大吾の正体を突き止めることすら叶っていないのに。

「ちがいます? サヤカさん」

 レナのまん丸な瞳が楽しそうに問いかけてくる。そこでサヤカは、彼女が大吾の大ファンを名乗っていたことを思い出した。……もしや、このアイドルは、わたしを恋のライバルか何かと認識して牽制をかけてきているのか?

 ――だとしたら、面倒だ。幼少期からの苦い記憶の数々がサヤカの脳裏に蘇る。

「……あの、レナさん、仮にそうだったら……困ります?」

 物心のついた頃から、「誰々ちゃんの好きな男子を取られた」だの何だのと女社会特有の文句を言われ続けてきたサヤカとしては、泥沼の可能性を無意識に疑ってしまうのは無理もないことだった。まさか目の前のレナがそんな陰険な女の子だとも思えないが――。

「やだなぁ、困りませんよー。アイドルは恋愛しませんから」

 サヤカの頭に一瞬浮かびかけた暗雲の可能性を吹き飛ばすように、レナはあっけらかんと言ってのけた。

「わたしはファンとして大吾さんの身体に憧れてるだけです。ご本人はサヤカさんに差し上げます。サヤカさんなら許します」

 続けざまに繰り出されるレナの発言は、何もかもがサヤカの意識を遥かに飛び越えていた。はっきり言って――話が飛躍しすぎていて意味がわからない。差し上げるとか許すとか、大吾は贈呈品か何かか。

「だってー、萌えるじゃないですか! 角屋プロの顔を出さない花形スーツアクターと、北映のやっぱり顔を出さない花形スーツアクトレス、この二人が仕事を通じて出会って結ばれちゃったりしたら……もう、ファンとしては最高に萌える展開っていうか! ね、ね、わたし楽しみにしてますから、恋を叶えちゃってください、サヤカさん!」

「……レナさん、ちょっと落ち着きましょ、ね?」

 アイドルの無邪気なノリに困惑しながら――サヤカは心のどこかで、ひょっとしたら、と思う自分を否定できなかった。

 ひょっとして、ひょっとしたら――豊橋レナは、わたし以上に知っているのかもしれない。わたしの心に生じているこの動きを、世の中の人がなんと呼ぶのか。

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