第12話 美醜の帰納法

 部活帰りのたくみがスマホのイヤホンで音楽をシャカシャカ言わせながら電車の吊革につかまっていると、ふと、あってはならない光景が目に入った。

 隣の隣に立っているサラリーマン風の男が、自身のスマホを何やら手持ちカバンの中にねじ込み、そのさらに隣に立つ女子高生の足元にすべり込ませようとしているのである。

 ――これがウワサに聞く、トーサツか!?

 匠の心臓はバクバクと高鳴った。周りの乗客はみな自分の世界に没頭することに夢中で、女子高生当人を含め、誰一人としてその男の不穏な仕草に気付いていない。

 声を上げられるとしたら自分だけだが――男の動きは他の乗客の陰に隠れて匠にもよく見えない。もし、ただの勘違いだったら? それに、本当に男が犯罪者だったとして、取り押さえようにも自分の力でどうにかできるのか?

 数秒の間、匠が何もできず二の足を踏んでいると――。

「おい」

 問題のサラリーマン風の男の後ろから、スーツの肩に手を載せる一人の男性の姿があった。

 びくっと驚いた様子で、男は慌ててカバンを持つ手を引っ込めたようだったが――次の瞬間、男はぎゃあっと大きな声を上げていた。

 匠や他の乗客達、それに女子高生が一斉にその男に注目する。匠の視界に入った男の顔はひどく引きつった表情をしていた。その顔面には、単に悪事の現場を押さえられたからというだけではない、何か途轍もないものへの恐怖が浮かんでいるように見えた。

 ……一体、何をそんなにこの男は恐れているのか?

 匠がどうにも気になって、その男の肩に手をかける男性のほうを見ると――

「ひいっ」

 刹那、理屈を超えた恐怖が匠の意識を串刺しにした。周りの乗客の何人かも「それ」を見て、口々に声を上げ、顔をひきつらせている。

「次の駅で降りてもらおーか」

 死刑宣告のように盗撮犯にそう告げた、その筋骨隆々の男性の顔は……。

 サングラスで目が隠されているにもかかわらず、この世のものとは思えないほどコワかったのである。


「……ってことがあってさ。マジで死ぬかと思った」

 電車での出来事から二時間ほど後、匠は家庭教師の先生の前でエピソードを語り終え、ふうっと息を吐いていた。

 あのサングラスの男性の顔は今でも鮮明に思い出せる。いや、素顔を見ていないのに「顔が思い出せる」とはヘンな話だと匠自身も思うが、この世の全ての「コワさ」を詰め込んだようなあの顔は、一度見てしまったら脳裏に焼き付いて離れなかった。

 盗撮犯の男は次の停車駅でその男性に引っ立てられ、駅員に連れていかれたのだが、被害者の女の子は被害に遭ったことではなくその男性の顔を怖がって泣き出してしまったという落ちがある。

「ははっ、そんなに怖い顔の人なんているんだ」

 大学生アルバイトの先生は快活に笑った。今日も紺のジャケットと黒ブチ眼鏡が決まっている。

「まあ、でも、本当に怖い顔してるかどうかは分からないよね」

 匠が一週間かけて取り組んでいた数学の宿題にサクサクと丸付けをしながら、先生は言う。

「案外、匠君のお姉さんみたいに、サングラスの下は容姿端麗だったりするかもよ」

「って、センセー、姉ちゃんの顔知らないじゃん」

「見なくてもわかるって。お姉さん、神が地上に遣わした美しさの化身とかでしょ」

「……その弟の俺はなんなのさ」

 一度変装越しに対面しただけで、先生が姉のサヤカのことをここまで美化して語れるのは、匠にとって意外でもなんでもなかった。ひとたび姉と同じ空間に存在してしまった男性は、遅かれ早かれ必ずこうなると相場が決まっている。

 むしろ、授業初日で姉の稲妻に撃たれてしまったのに、その後もこうしてウチに通ってくれるこの先生のタフさの方が、逆に驚きに思えるくらいだった。

「はい。バツ付けた問題、見てこうか。匠君は数列問題にまだ苦手意識があるのかな」

「シグマとか出てきたらワケわかんねーもん」

「じゃあ簡単な式からおさらいしようか。基本が身につけば応用問題にも対応できるから」

 そう言いながら、先生は喋るのと同時進行でノートにすらすらと数式を書いていく。

 やっぱりこの人、すごく優秀な先生だ――。匠が感心しながら説明を聞いていると、階下から、がちゃり、と玄関扉の開く音と、「ただいまー」と能天気な姉の声。

「やべっ、帰り早っ」

「……今日こそお姉さんにご挨拶を」

 そっとチェアを引いて、先生がさりげなく立ち上がろうとする。いや、こんな状況でさりげなくも何もないだろう、と頭の中で突っ込みながら、匠は先生を引き留めようと必死になった。

「いいっていいって! アイサツなら、こないだしたじゃん!」

「いやいや、先日は失礼があったので、今日こそちゃんとご挨拶を」

「いーって! てゆーか、姉ちゃん、二回見たら今度こそ死ぬから! 蜂の毒と同じだから!」

「おっ、匠君、アナフィラキシー・ショックを知ってるとは、やるねえ」

 そういえばこの人、医学部だったっけ。

 匠が先生とあれやこれや言い合っていると、階段を上がってくる姉の足音と、こんこんと部屋のドアをノックする音――。

「匠ったら、何をそんなに賑やかに――」

「開けるなって!」

 あえなく扉は開かれ、先生と姉はあっけなく二度目の対面を果たしてしまった。

 ノックしたって返答を待たず開けるのでは意味がない――。匠は硬直する先生の隣で頭を押さえる。姉は今日もサングラスとマスクの外出スタイルだったが、変装それさえあれば人前に出ても構わないと思っているらしいのが彼女の厄介なところだった。

 今日の姉は、何か雑誌らしきものが入った書店のビニール袋と、玄関で脱いだらしい帽子を手にしている。

「あ……えー……オネエサン」

 先生は先程までの饒舌さを失ってロボットに成り果ててしまっている。おいおい、アイサツするんじゃなかったんですか。

「いつもバカな弟ですみません。しっかり教えてやってくださいね。……匠、ちゃんと勉強するのよ」

「いーから出てけよバケモン!」

 姉を無理やり部屋から追い出し、しっかりと扉を閉めてから、匠は先生と向き直った。

「センセー。生きてる?」

「……あ、ああ、大丈夫。ヒスタミンは出てない」

 匠にはよくわからない用語を口にしながら、先生はぎくしゃくとした動きで椅子へと戻る。ハア、と謎の溜息をついてから、先生はペンを手元で弄びながら言った。

「お姉さん、特撮が好きなのかな」

「へ? な、なんで」

 いきなりの言葉に匠はどきりとさせられた。好きというか、姉はそれが仕事なんだけど――。

「特撮の雑誌を持ってた」

「……センセー、よく見てるね」

 先生の視力、というか注意力の凄さに匠は呆れてしまう。姉の電撃で意識を止められていたように見えて、ちゃっかり持ち物にまで目を凝らしていたとは。

「あのさー、センセー、姉ちゃんの素顔にはホント期待しないでよ」

 匠はなんとかして先生に姉を美化させまいと必死だった。これまでの家庭教師の先生達がそうだったように、姉の素顔を知ってしまったらとても授業など務まらなくなるだろう。

「姉ちゃんは、マスクとグラサンで顔を隠したときだけ謎に美人に見える症候群ショーコーグンなの。あれ外したら素顔はバケモノ級のブスなの」

「またまたぁ」

「俺が電車で見た人と同じだって。スーガクテキ・キノーホーだよ、センセー。あの人はグラサンで顔隠してて素顔がコワいから、姉ちゃんもグラサンで顔隠してる以上、素顔はブスなんだよ。証明終了」

「……それは何一つ数学的帰納法ではないね」

 先生に真顔で突っ込まれ、とりあえず、彼が理性を失っていないことに匠は安心したのだった。

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