第4話 許されざる美女

 家庭教師カテキョの先生の前から姉ちゃんを隠せ!

 ――高校二年生のたくみの前に突きつけられたミッションは単純明快だった。

 今日から新しく家に来る大学生アルバイトの先生はもちろん男性である。厳格な両親が、異性に匠の勉強を見させることなど許さないからだ。その新しい先生を家に上げるにあたり、絶対に避けなければならないのは、いつ仕事から帰ってくるか読めない姉のサヤカを先生と鉢合わせさせてしまうことである。

「姉ちゃん、頼むからカテキョの先生が来てるときに不用意に帰ってこないでよ」

 何ヶ月か前、三人目の家庭教師の先生が「この家では仕事にならない」と匠の受験指導の仕事を辞退してしまった直後、匠は姉に必死に訴えたのだったが――。

「なんでよ。出来の悪い弟に勉強教えてくれる先生なんだから、わたしも会ったらご挨拶くらいしなきゃ」

 という具合で、姉は取り付く島なしだった。

 姉自身も自分の殺人的な美しさは十分に理解しているはずなのだが、いくらなんでも顔を合わせただけで家庭教師の先生が逃げてしまうという意味不明な事態にまでは理解が及ばないようだったし、匠としても、仕事で疲れている姉に自宅に帰ってこないでと頼むのも酷な話だった。

 そうなると、匠にできることはただ一つ。仮に新しい先生との勉強中に姉が帰宅してきても、なんとかして両者の鉢合わせを回避することである。


「キミはちょっと、『である』で文章を終わらせすぎだね」

 新顔の先生は匠の勉強机を横から覗き込み、彼が練習していた小論文をばさりと切って捨てた。

「はぁ。なんか頭良く見えるかと思って」

「文章が硬ければ賢く見えるってわけでもない。大事なのはバランスだよ」

 そして先生は赤ペンを手に、匠の文章の良くない部分にあれやこれやと書き込みを入れてくれる。

 黒ブチ眼鏡に紺色のジャケット。一流私大の医学部に通っているという先生は、数学が一番の得意教科だと聞いていたが、小論文の教え方もなかなかどうして、高校の先生よりもよっぽど上手だと匠には思えた。

「センセー、やっぱユーシューなんだ」

「いや、僕なんてまだまだだよ。医学部にはヤバイ奴がたくさんいるからね」

「センセーはヤバイほうじゃないの?」

 全然、と首を横に振る先生の様子を、匠がほうっと見ていると――

「ただいまー」

 がちゃりと玄関の扉を開け閉めする音に続いて、帰宅を告げる姉の脳天気な声が彼の耳に響いた。

「やべっ。もう帰ってきた」

「ご家族の方? ご挨拶しないと」

 チェアから立ち上がろうとする先生を、まあまあまあ、と匠は大振りなジェスチャーで押しとどめる。

「ただの姉ちゃんだから。ゴアイサツとか要らないから」

「そういうわけにはいかないよ」

「いいっていいって! ていうか、死ぬから! ウチの姉ちゃん、見たら死ぬレベルでブスだから!」

「またまたぁ。メデューサじゃあるまいし」

「とにかく、いいからいいから、それよりセンセーは勉強教えてよ」

 匠が先生と押し問答していると、かちゃっ、と部屋の扉が開く音。

「あっ!」

「たくみー、新しい先生いらしてるの?」

 見た者を石にするというメデューサよりもさらに恐るべき姉の素顔を、先生から隠そうとして――匠は咄嗟に先生をかばうようにして姉の前に立ち塞がる。

「……何してるのよ」

 ドアから顔を覗かせた姉のサヤカは、サングラスにマスクの外出スタイルだった。

「お姉さんですか。はじめまして、僕は――」

 匠の背後で先生が立ち上がり、その瞬間、動きを止めるのがわかった。

 ……あーあ。やっちゃった。

「姉ちゃん、ほら、ベンキョーしてるから! あっち行って!」

「何よもう。先生、ウチの弟バカなので、しっかり勉強見てやってくださいね」

 姉は変装越しに先生に向かって挨拶し、匠が押し出すのに渋々応じて自分の部屋へと去っていく。

 ドアを閉め、匠が恐る恐る振り向くと――先生は驚きに目を見開いたままその場に立ち尽くしていた。

「センセー」

「……あ、ああ、匠くん、あれがお姉さんか、なるほど。お姉さんか。あははは」

 あらゆる表情の作り方を忘れてしまったような先生の姿を見て、匠は片手で頭を押さえた。

 先生が凍りついているのは、姉がサングラスにマスクという非常識な格好でゴアイサツを申し上げたからではない。

 そんな変装ごときでは到底遮れない姉の美しさに、先生は目を焼かれてしまったのだ。

「センセー。小論文の続き添削してよ」

「……ああ、うん」

 先程までの温和で余裕に満ちた態度はどこへやら、先生はロボットのようなぎこちない動きになって、匠に促されるがまま再びチェアに収まった。

「……お姉さんって、何してる人? まだ学生さんかな」

 一流私大医学部の秀才様がやっとの思いで喉から絞り出した一言がそれだ。ああ、可哀想に、この先生もダメになってしまったか――。

「毎日、男を蹴り飛ばしてる」

「は?」

 先生のきょとんとした顔に、匠は苦笑いで応えることしかできなかった。

 とても他人には言えない。姉が美人すぎる素顔を隠すためにヒーローの仮面マスクを被り、五色戦団シリーズのスーツアクトレスをやっているなんて……。


「だから、姉ちゃん! カテキョの先生が来てるときに出てこないでって言っただろ!」

 初回の授業が終わり、先生が最後までぎこちない笑みを顔面に貼り付けたまま家を辞したあと、匠は姉の部屋のドアをどんどんと乱暴にノックしてからドア越しに怒鳴りかけた。

「なによ。今日はちゃんと顔隠したままご挨拶したじゃない。恥ずかしいんだからね、あんな格好でヒトサマの前に出るの」

「だから出てこないでいいんだっつうの」

 はぁ、と大きく溜息をついて、匠は姉の部屋の前からきびすを返す。言いたいことを言ってしまったら、あとは姉の顔を見る前にさっさと退散するに限る。

 一日一度でも姉の素顔を目にしてしまったら、次の一日、クラスの女子達が全員ジャガイモに見えてしまうからだ。

「ハアァ……」

 自分の部屋に戻り、先生が赤ペンを入れてくれた小論文を見下ろして、匠はまた一つ大きな溜息をついた。

 せっかくいい先生に当たったと思ったけど、あの人はいつまで持つかなあ――。

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