第9話 独白

明け方。

月は沈み、星の明りだけが輝く中、俺は目覚めた。

違和感を感じた右手に目をやる。

俺は弽を付けたままだった。

「ん?」

感覚がない。

ただでさえ冷え込んだ夜に、血管を圧迫する弽紐。

手は、氷のように冷たくなっていた。

ゆっくりと背筋を伸ばし、弽を外す。

「んん」

背中の方から、かわいらしい声がした。

同時に背中の重みと温かさを実感する。

俺は、その重さが左右にバランスを崩さないように気を付けながら、ゆっくりと抜け出した。

「体育座りで…寝てたのかよ」

その無防備な寝顔を横に、思わず呟く。

俺という支えを失って不安定になった彼女を、ゆっくりと仰向けに寝かせた。

立ち上がり、すぐそばの窓を眺める。

漆黒のその先には、先刻の光景が想起された。

こっちに向かって走る先生を助けようとした自分。

意図しない結果を招いた選択。

弓具を放り出し、無我夢中で手を伸ばしながら足を前に踏み出した自分。

空気を踏んだ俺の足は屋根に戻ることはなく、重力に引かれた。

運よく庇の上に着地したが、そんなことはどうでもよかった。

罪の重さをようやく実感し始めていた俺は、死ねなかった自分に腹が立った。

そして、蒼に引きずり込まれた。

空っぽな頭に必死に語りかけられる慰めの言葉。

その全てが、今では他人事のように感じられた。

罪の意識?

そんなもの、感じられない。

自制心という、社会を築くにあたって欠かせない人間のストッパーから解き放たれた俺は、何でもできるかのような錯覚に陥っていた。

一人目を殺すのにためらいを覚えていた殺人犯が、二人目以降には何も感じなくなるように。

「まったく、おかしなものだな」

俺の中で、何か大切なものが弾け飛んだ。

その時、体に巻き付く暖かな腕があった。

「だめ。そっちに行っちゃ」

窓枠に掛けられていた足が止まる。

「あ、葵。起きていたのか」

「そっちは、暗くて、怖いから。行かないで」

彼女は泣きながら、必死に俺に主張した。

今まで軽かった足が、途端に動かなくなる。

俺は、目の内側が熱くなるのを感じた。

「俺は、俺は…」

必死に訴える。

しかし、続きの言葉が一向に出てこない。

「大丈夫、大丈夫だから」

「俺は、人を一人、殺したんだぞ? この手で・・・この弓具で・・・弓の楽しさを教えてくれた先生を!」

「あの状況じゃ、そうするしかなかったんだよ」

「もっと別の方法があったかもしれない。いい方法があったかもしれないのに、俺はそれを探すことをしなかったんだ。そんな俺が、みんなと一緒にのうのうと生きていていいわけがない。俺は・・・」

「もうやめて!」

葵が叫んだ。

「もう、やめてよ。こんなの、私の知ってるアキじゃない。昔のアキなら・・・、そう、昔みたいに、私たちを助けてよ!」

目に溢れんばかりの涙を浮かべて、彼女は言葉を並べた。

ぼんやりと浮かぶ、かつての記憶。

あの時は、本当に良かった。

「みんなが納得する結果なんて、そんなのないんだよ。だから、今までみたいに、これが最善なんだって思うしかないんだよ?」

「そっか・・・」

葵に言われて初めて気がついた俺の本質。

「俺、みんなと居て、いいのかな?」

返事は分かりきっているが、それでも聞かずには居られなかった。

「「もちろん(です)!」」

その答えは思わぬところからもやってきた。

葵と俺はその涙で崩れた顔を見合わせ、声のした方向を向く。

「な、なんだよ。起きてたのかよ、お前ら」

慌てて涙を拭いながら、泣いた後の普段とは違った声で問う。

「まあな」

本気の泣きを他人に見られたことはもちろんだが、それを見たのが同級生と後輩であるという現実に、今までにない恥ずかしさを覚えた。

葵は脱力したかのようにペタンと床に座り込む。

「ていうか、いつから?」

「ああ、俺はついさっき起こされたばっかだから、あんまり聞いてないな」

「お、起こされた?」

「うん。悠太に」

俺は慌てて悠太を目で探した。

「う、ご、ごめんなさぁい!」

悠太が柊を盾にするかのように、慌てて後ろに回り込む。

「ふっ、ははっ」

その年齢にそぐわない可愛げな行動に、つい、笑いが込み上げてきた。

「それで、何処から聞いてたの?」

「えーっと、実はあんまり眠れてなくて、なので、結構序盤から?」

柊の背後から、普段からすると小さすぎる声が返ってくる。

「こう言う場面って、映画とかだと邪魔しちゃいけないって言うのがセオリーですから」

「「いや、言ってよ」」

葵と俺の声が重なった。


     ◇◇◇


蒼の上着、暖かいな。

今まで気にしていなかったが、俺は自分のものではない上着を羽織っていた。

あいつら、無事なんだろうか。

先程までとはうって変わって静まり返った道場の隅で横になり、天井の板目を眺めながらぼんやりと想像する。

ここにいることを認めてくれた四人のためにも、先に体育館に向かったみんなのためにも、俺はそいつらのためにこの命を使おうと思う。

先生はおそらく、俺たちを救うためにここまで迎えにきた。

だったら、俺にはその代わりを務める義務があるだろう。

誰であろうと平等に、可能な限り手を差し出そう。

そう心に決めた。

ああ、疲れたな。

ゆっくりと目を閉じ、俺の中での濃密な一日が幕を閉じた。


この夜を境に、俺と葵の距離が広がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る