第6話 閉塞
「先生」
背後から私を呼ぶ声がした。
職員室から出ようと扉にかけた手をそのままに、体ごと振り返る。
「先生、今から弓道場ですよね?私もそっち側なんです。どうです、ご一緒しませんか」
そう言って声をかけてきたのは見た目のわりに優しい口調が特徴の剣道部の顧問、中川だった。
角刈りに無精ひげを生やしているため、初対面の時は、だれもが気おくれするだろう。
しかし、その性格は真逆。
おおらかで生徒からの信頼も厚い、責任感の強い教師である。
「ほら、弓道場は剣道場の裏手ですし、先ほどの三人組のこともありますから。先生、頼りにしてますよ」
そう言って笑みを浮かべる中川の後ろから、彼とは対照的に暗い雰囲気を纏った教師が顔を見せる。
目が隠れるほど前髪を伸ばした背の高いその教師は、名を広瀬といった。
「わかりました。では、いきましょう」
私はそう答えるとともに、扉を勢いよく開けた。
扉の外は、一言で言うと悲惨だった。
ねちゃ。
一歩目を踏み出した私の足の下には、粘り気のある、今までに体験したことのない感触の液体が広がっていた。
廊下には両生類の動物が通ったかのようなブラウン色の体液と人間の血液が撒き散らされ、今までに嗅いだこともない悪臭を放っている。
二階の窓から下を覗き込むと、ゾンビとそれから逃げる生徒。
時折聞こえる耳に刺さるような甲高い悲鳴。
うっ・・・。
体が反射的に反応し、体内からの逆流物が喉元まで上がってくる。
五感をフルに使った体の反応が、その惨状を物語っていた。
「ほら、それを貸しなさい」
後ろから声が聞こえる。
そこには対不審者用の刺又を手にした中川と、さっきまで何かを持っていたかのような手の形を崩して下す広瀬の姿があった。
「すみませんな。一応持っておこうかと思いまして」
「…はい」
何をやっているんだ、こんな時に。
そう思ったが、口には出さなかった。
その後、我々は何にも遭遇することなく玄関までたどり着いた。
こんな時でも染み付いた習慣を無視することができずに、三人とも律儀に靴へと履き替える。
「本当に門、閉まってますなぁ」
中川のこの言葉に反応して、私と広瀬の視線は二メートルを超える高さの学校の正門へと向けられた。
本来、この門が閉まるのは生徒が下校を終えた後なのだが、今は五時四十五分過ぎ。
いつもより三時間ほど早い閉門である。
男子生徒と女子生徒二名が右手奥の校舎の裏から走って来た。
「おい、お前ら。こっちだ!」
それを見た中川が二人に向かって大声をあげる。
しかし、声が届いていないのか、はたまた聞こえているにも関わらず無視をしているのか、二人はこちらに目もくれず正門へと一直線に駆けて行った。
「おい!」
それを見た中川が、その年齢に似合わず刺又を左手にその後を追い始める。
門は依然、閉ざされたままである。
門の目の前までやってきた二人は、それぞれが左右に門を引き、開けようと試みていた。
『もうまもなく外部から門が閉ざされ、さらなるバリケード等により我々の脱出は困難なものとなるだろう』
私は先の職員会議における校長の発言を思い浮かべつつ、二人とそこに向かう中川を、ただ見ていた。
もしこの門を通れたとして、本当に校外で今まで通りの生活ができるのだろうか。
そんな考えが私の頭をよぎる一方、この環境において校外に逃げると言う選択肢はとても魅力的にも感じられた。
門は今なおびくともしない。
門を引いていた二人もその事実に気がついたようで、今度は登ることを決意したようだ。
男子生徒がしゃがみ込み、女子生徒がその肩に足をかける。
二人の元までたどり着いた中川は、その危な気な行動に反対しつつ、もし体制を崩して落ちそうになった場合のフォローに入っていた。
さすがにこれは危険が伴う。
そう判断した私は、斜め後ろにいた広瀬に視線で合図を送り、少し足を速めた。
女子生徒を肩に乗せた男子生徒がゆっくりと立ち上がる。
実質一・五メートル弱の足場にまたがった状況と同義の女子生徒が、門の外を超えるのは容易であるように思われた。
瞬間、門の上部をつかんでいた女子生徒の重心が後ろへと移動する。
パンッ。
遅れて届いたその音が、空気の振動となってあたり一面に広がった。
完全に安定感を失った二人が、のけぞるように倒れる。
慌てて中川が二人の背後に滑り込んだため、大事には至っていないかのように思われた。
男子生徒が自分の額に手を当て、そこに垂れていた液体をぬぐった手を見つめる。
「血、先生、血が…」
そう言って軽いパニックを起こしていた。
男子生徒はただ後ろに倒れただけだ。
手を地面についていたから打撲や骨折ならわかるが、はたして額から出血などするだろうか。
そう思いつつ、私はさらに足を速めた。
三人を中心に同心円状に赤色が広がり続けている。
「中川先生?」
私は三人の中で一番事態を把握しているであろう人物に声をかける。
「先生、いったい何が…」
そう言いながら距離を詰めると、返事がなくとも見るだけで状況を認識できた。
地面に座り込んだまま、中川と女子生徒を見つめる男子生徒。
女子生徒を受け止めた直後の態勢のまま微動だにしない中川。
中川に受け止められるようにしてぐったりと横たわる女子生徒。
そしてどうやらその女子生徒の額が、その赤色の発生源になっているようであった。
「おい、おいおい!」
思わず口から声が漏れる。
「中川先生!」
どこから手を付けていいのか分からない私は、とりあえず中川の肩を揺さぶった。
放心状態なのだろうか。
まったく反応を返さない彼はいったん後回しにして、次に私は女子生徒を中川の上から抱え上げた。
軽い。
血液の大半が放出されたからだろうか、私はそう解釈した。
もう、おそらく彼女は何も感じ取っていないのだろう。
額にぽっかり空いた直径一センチもない穴を数秒見つめ、そっと地面に降ろした。
次に男子生徒へと視線を向ける。
思った通りだ。
彼に外傷は見られなかった。
「大丈夫、それは君の血じゃないから」
彼の目を見て、そう言葉をかけた。
「立てるか?」
そう言って手を差し出す。
彼もまた放心状態にあるため動ける状況にないだろうという予想に反し、彼はゆっくりと私の手を取った。
彼のテンポを崩さないようにゆっくりとその手を引く。
信じられない出来事を目前で見てしまったからであろう。
まだ喋れる状況にはなさそうだが、自分の足で体を支えることはできるようだ。
「広瀬先生」
私はもう一人の目撃者に彼を預ける。
広瀬は彼に自分のジャケットをかけ、我々が来た道を引き返した。
「中川先生、我々も移動しましょう。このままでは危険だ」
次に、今まで後回しにしてきた中川に声をかける。
はっと我にかえったような素振りを見せた中川はゆっくりと立ち上がった。
「お、置いていくのか?か、彼女…」
「はい。」
「し、しかし…」
中川は不満そうな表情を浮かべる。
「我々の機動力が失われます。このような状況です、自分たちの命を優先しましょう」
そう言いながらも私の手は勝手に自身のジャケットを脱がせ、彼女にかける素振りを見せた。
◇◇◇
「しかし、あそこまでやるとは」
中川は先程の出来事に納得がいっていないようだった。
先程の出来事とは、女子生徒に対して向けられた銃弾を指すのだろう。
「はい、それに関しては私も同意見です。ただ感染のリスクがあるというだけで、全員をこの敷地内に隔離していると言うことでしょうか。そうだとしても、強引すぎます」
「奥に武装した自衛隊が相当な数でこの学校を包囲しているように見えたぞ。自衛隊や銃まで持ち出して、これでは我々の反感を買うだけではないのか?」
「はい。私も奥の自衛隊を確認しました。我々をここから出す気などないのでしょうね」
そう言って私は思考モードに入った。
政府は我々の目の前で銃を構えさせた。
もし、我々を最終的に解放するのであれば、私達にこれを見せてはいけなかった。
もしくは、これを見た私達全員を消して証拠を無くさなければ、後で必ず遺恨が残ってしまう。
自衛隊をこの短期間で出動させられるのはどの機関だろうか。
少なくとも地方の教育委員会にはできない芸当だろう。
そういえばかつて、この学校の敷地は政府の重要施設があったと聞いたことがある。
もっと上の、権力を持った人間のさしがねかもしれない。
少なくともこれだけは言える。
彼らはもう、門の内側の人間を外に出すつもりは無いのだろう。
全員をここで隔離し、門外の人間にはいいように理由をでっち上げ、全てを隠し通す気なのだ。
先の一件だけで、私の妄想はそこまで膨れ上がっていた。
だとしたら、なぜ校長はあんな発言をしたのだろうか。
ふとした発言に引っ掛かりを覚えた私は、中川に向けて言葉を発する。
「中川先生、もしかして―」
–ピンポンパンポン–
私の言葉は電子音によって遮られた。
『ただいま、校内で不審者が確認されています。生徒の皆さんは個人の安全を確保しつつ、早急に体育館への非難をお願いします。繰り返します。ただいま、校内で…』
「よかった。職員室に向かった先生達は無事にたどり着けたみたいですな」
「え、ええ。そうですね」
放送によって一度頭の中がリセットされてしまった私は、何も考えずに返事する。
その直後には生徒会招集のベルが鳴った。
「そういえば不審者が確認された場合の放送内容ってこれでしたかな?これでは不審者にこれからの移動先を知らせてしまうようで、なんか気持ちが悪いですなぁ」
「いえ、そうとも限りませんよ。ゾンビたちに考えが回るとは思えませんし、生徒達にある程度事態を知らせることで危機感をあおることもできるでしょう」
しかし、これではあまりにも言葉足らずであるように思う。
もうすでに遭遇してしまった生徒もいると考えられるこの段階で、わざわざ不審者という必要もないはずだ。
あの資料にはいったい何が書かれていたのだろうか。
一瞬、渡しているときの教頭の何とも言えない表情が頭をよぎる。
ただ、不審者ではない分、本来の『校長先生、〇〇さんがお見えになっております。至急校長室までお戻りください』などといった隠語を使わなかったことは正解だろう。
「そうですな。あとは我々が誘導するだけですなぁ」
「はい。それにベルが鳴ったことを考えると、その後の生徒の管理は生徒会に押し付ける気なのでしょう」
「なんと…」
「はい。これがこの学校のシステムです」
そうこう言っているうちに我々二人は、弓道場と剣道場へと続く道の分岐点に差し掛かった。
「では、私はこの先の弓道場を見てきます。中川先生は剣道場、お願いします」
「ええ。もし何かあった時は叫んでください。すぐに行きますから」
ここからは一人ということもあり、私も中川も表情が硬くなっていた。
「いえ、剣道場の方が体育館に近いですから、先に行っていただいて構いません。弓道場にいる連中を回収したら剣道場を通りますから、その時に合流する形になるでしょうか」
「ははっ、そうですな」
そう言ってお互い別の道を歩き出す。
「あ、そうだ。先生」
振り返ると、少しの距離の先に中川がこちらを向いて立っていた。
「いや、なんでもない。先生、いつか一緒に飲みましょうや」
そう言って背を向けた彼は背中越しに手を挙げて、再び歩き始めた。
こんな時に、酔狂な人だ。
そう思い、私も彼に背を向けて歩き始めた。
これがほんの数分前の私。
そして今、私の視界は狭まりつつある。
体が、特に胸のあたりが熱い。
これも一種の走馬灯だったのだろうか。
先ほどまでのうるさいほどの生徒たちの声が聞こえない。
そういえば音が何も聞こえない。
匂いも無いし、目も見えない。
何も考えが回らないまま、私の意識は闇の中へと消えていった。
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