第5話 目撃
この部屋にある全ての電話が、電子音を発していた。
もう五分以上この音を聞いているだろうか。
しかし、一向に鳴り止む気配はない。
この部屋にいる人達が総出で対応しているものの、その全てに対応することができていなかった。
「一体何が起こっているのでしょうか」
「我が子は無事なんでしょうか」
聞き飽きるほど聞いたこの言葉。
我々が知りたいくらいだ。
これらの電話が鳴り始める数分前、今いる職員室の外で何かが起こった。
◇◇◇
―数分前―
息を切らして職員室に入ってきた一人の女性教師はこう言った。
「助けてください!」
は?
この言葉に対する第一印象はこれだった。
実際、この言葉を信じていた私の同僚は一人もいなかったように思う。
だが、その教師、田代の様子はただならぬ何かを感じさせた。
普段の彼女からは考えられないくらい鋭い目つき、形相、そして粗い息づかい。
その普段から見慣れないほど白く透き通った肌は紅潮し、職員室中の視線を集めた。
ピロロロロロ。
手元の内線電話が振動する。
静寂した空間とタイミングの良すぎるこの電話に、私は思わず生唾を飲んだ。
左手で受話器を取る。
普段、右手でメモをとりながら会話をするため、自然と身についた癖だ。
受話器を耳に当て、第一声を発する。
「もしもし」
ガチャ。
ツー、ツー、ツー。
言葉を聞き取ることはできなかった。
なんなんだ。
私の心には暗雲がぼんやりと立ち込める。
「・・・先生?」
「とにかく見ればわかります! 皆さん、廊下にお願いします‼」。
私の問いには答えず、彼女は自分の言いたい言葉を上から重ねた。
言葉を遮られたことにさらなる怒りを抱きつつ廊下に向かう。
大人として、社会人としての最低限の振る舞いを心がけた。
ぞろぞろと一同が彼女の後に続く。
「ほら、あそこ」
廊下に出た彼女は先へと進み、窓の外を指さす。
その細い彼女の人指し指を目線でたどり、私は視線を移動させた。
しかし、私の焦点が彼女の指さすものにたどり着くことはなかった。
「う、うううあぁ、あぁぁ」
しんとした廊下に反響する呻き声。
それは目の前の田代から発せられた。
視線が彼女に集まる。
その白い肌の色はみるみる赤黒く変色し、目はどこを向いているか分からず、まるで薬物に手を染めたかのような顔つきに変化していた。
その変体に対する周囲の反応は、沈黙だった。
体も動かず呆気に取られ、ただ静かな時間が流れた。
いつのまにか彼女の周りには少しばかり空間が生まれている。
皆、彼女との間に距離を取ったのだろう。
「あ・・・あぁぁぁ」
彼女は言葉とも言えない呻き声を再び発し、顔をこちらに向ける。
その時だった。
ガシャン。
大きな音とともに彼女の身は宙を舞った。
さかのぼること約二秒、彼女を中心として円形に囲んでいた職員の間をぬって一人の男が入ってきた。
そいつは大学時代からの付き合いで、この学校では同僚の生物の教師、名前を藤見という。
先程まで職員室にはいないと思っていたのだが、どこから現
れたのか。
藤見は人垣をかき分けて入ってきたかと思うと、右手を大きく広げて肩の高さまで持ち上げ、足を肩幅より少し大きく開く。
そのまま左足で一歩踏み込み、彼女の顔にその手を当て、握り潰すかのように手に力を入れるのであった。
この現実離れした行動に対して何も言葉が出ない外野を置いていくかのように、そのまま右手を前に押し出した藤見は、彼女の頭を窓ガラスに押し当てる。
藤見の力の入った右手は窓ガラス程度で止まることはなく、そのまま奥へと押し込まれる彼女の後頭部は、窓ガラスを割り、そのまま窓の奥へと続く空中へと投げ出された。
遅れて届いたガラスの割れる音と共に、割れた窓ガラスが辺りに散らばる。
我々も一瞬の時を経てやっと何が起こったかを認識した。
「「きゃぁぁ」」
女性の教師たちは盛大な悲鳴をあげた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
逆に藤見は体を上下に動かし、肩で息をしている。
そしてゆっくりと振り返り、藤見の視線と私の眼球が一直線上に並ぶ。
「見ろ、ゾンビだ」
低い声で短く告げられたその言葉を理解するのに、私は普段以上の時間を要した。
ゾンビ、そうか。
まだ実感のない私には、その程度にしか感じられなかった。
「な、何を言ってるんですか、藤見先生。それに先生は今何をやったのかわかってるんですか」
私から数秒遅れて状況を飲み込んだ一人の女性の教師が藤見に対する非難の声を口にする。
「先生は先生を、田代先生を…」
女性教師は藤見につかみかかるかのような剣幕で言い放つ。
しかし、言葉とは裏腹にその女性教師は藤見ではなく窓の方へと足を進めた。
窓の下を覗き込む。
このフロア、二階から落下した田代の身体は四散こそしていないものの、関節が逆に曲がり、所々赤い鮮血が見て取れた。
女性教師につられて窓の下を見下ろしたその全員が言葉を失う。
そして、その沈黙を破ったのはここにいるだれでもなかった。
ピクッ。
体内出血でもおこしたかのように赤黒く変色した田代の指先が動く。
そのまま体全体に何かが行き渡るかのような波打ちを見せた後、彼女は立ち上がった。
そして行く方向も定まらない様子でその千鳥足を進める。
二階という高さを考えると死ぬほどの高さではない。
しかし、少しでも打ちどころが悪ければ、骨折していてもおかしくはないはずである。
ここでようやく、先程藤見が言った言葉を実感する。
あれは人間ではない、ゾンビなのだ、と。
この話は職員室を通して瞬く間に教師間で広がっていった。
混乱を避けるためか生徒に対しての伝達は行われていなかったが、このような事態、隠せるはずもない。
目撃した生徒を発信源として、この件は瞬く間に広まっていった。
ここからはスピードが勝負。
校長、教頭、管理職をはじめとする学校の権力者はすぐに召集をかけられ、会議室へと姿を消していく。
残った我々はというと、保護者やマスコミの電話対応で追われているというわけだ。
私はあの後藤見に話を聞こうとその姿を探したのだが、会議室へ呼ばれたのか、はたまたどこかへと姿を隠したのか、見つけることはできなかった。
◇◇◇
ガラガラ。
職員室の引き戸が開く。
そこには校長をはじめとする、先ほど、会議へと姿を消したメンバーの姿があった。
しかし、そこに藤見の姿はなかった。
「諸君、まずは迅速な対応、感謝する」
その口から第一声を放つとともに、校長は職員室での定位置へと移動する。
我々は電話対応という行為をやめ、視線はその声のする方向へと集中した。
「まずは今回の件について、急を要する。今から伝えることを
早急に実行するように」
口調は穏やかに、佇まいは落ち着いた様子で、その言葉は告げられた。
「先ほども言ったように、今回の件については早急な対応を求められる。また、一歩でも対応を間違えると、この地域一体が壊滅する恐れがあるとの結論に至った。そして、我々はこの、最悪の事態を何としても避けなければならない」
ゴクリ。
誰も対応しないため延々と電話の呼び出しが鳴り響くこの職員室に、かつてないほどの緊張感が走る。
私はその言葉に耳を傾けつつ、周囲に目を向けた。
こみ上げる感情を無理やり抑えて校長の話に耳を傾ける教員、張り詰めた空気感、校長の後ろでただおどおどするだけの教頭と管理職、未だ空席の藤見の席。
そんな中、一箇所、異質な点を見つけた。
校長だ。
こんなに重大な話をしているにも関わらず、冷静で淡々と進められる話。
誰も違和感を感じてはいないようだったが、私には、何か恐ろしいものを感じさせた。
校長を見れば見るほど、その表情は不気味に笑っているように見えてくる。
いけないと思い、冷静になってもう一度見ると、その表情は張り詰めた緊張感を感じさせる。
気のせいだ。
自分に何度もそう言い聞かせた。
そう思いたかった。
「まず、先程までの会議において、我々教員とその上位機関で協議を重ねた結果を皆に伝えなければならない。結論から言おう。この学校は一時的に校外との接点である全ての門を封鎖し、外界との接触を断つこととなった。これについては異論も多々あるだろうが、まずは皆も気になるであろうその理由について、これから説明する」
私の心配はよそに、話は淡々と進められた。
そして、この言葉を聞いて、すぐにその意味を理解できた人はいないのではなかろうか。
それほど大きな決定が下された。
「今回の一件、我々とその上層部は、原因を未知のウイルスと判断し、行動を取ることを決めた。感染源の不明、感染経路の不明、加えて感染の条件が不明であることから、我々全員が既に感染していることも考え、校外の人間への感染リスクを少しでも減らすために、この学校内で一定期間待機という決定が下された。ここまでで質問は?」
数秒間の静寂。
その後、ようやく理解した数人の教師から質問が飛び交う。
「質問です。つまり我々は、現時点から校外へ出ることができないということでしょうか」
「どうして未知のウイルスと判断できたのですか」
まだ理解が追いついていないのか、先程校長が述べた言葉のおうむ返しをするかのような、中身のない質問が飛び出した。
そんなこんなで最初は校長の発言に対する表面的な質問が飛び交っていたのだが、次第に外野の発言はその核心へと迫っていく。
「外部との接触が絶たれた中、我々の生活はどうなるのでしょうか」
そして、今まで誰も口にしてはいなかった、いや、誰もが目を背けていた質問が、ついに発現した。
「我々にウイルスに感染しているかもしれないというだけの理由で、校外の人間の安全のために死ねと仰るのですか」
場の空気が凍りつく。
誰がこの言葉を聞きたかったであろう。
しかし、校長の発言はこれと同義のものであり、それが現実であった。
「その通りだ。非常に申し訳ないが、私を含め、この学校の内部にいる人間全員に対しての謝罪と、今後の対応について、先程の会議で上層部からの通達があった。反対は許されない。ここからは私も一教員の立場として発言するが、教員がここまでしなければならないという道理など無い。しかし、もうまもなく外部から門が閉ざされ、さらなるバリケード等により我々の脱出は困難なものとなるだろう。そこでなのだが、どうか私に協力していただけないだろうか」
あの校長が、頭を下げた。
我々は、少なくとも私は、その信じられない光景に衝撃を受け、その他の言葉は私の中を素通りしていった。
「上層部の人間によると、一週間の経過観察だそうだ。まあ、一週間たったからと言って必ず門が開かれるとは限らないが、な。つまり、だ。私はこのようなところで命など捨てるつもりは毛頭ない。そしてこれは諸君も同意見だろう。一人でも多くの人間がこの学校から出られるように、どうか協力してほしい」
その言葉には、普段の校長の、その感情のない言葉とは裏腹に、とても重い何かを感じた。
この言葉に感銘を受けた教師は多いだろう。
その証拠に、周りからは拍手が起こっていた。
それも当然かもしれない。
なにせ、一度見殺しにされた我々が生き残るための道を示されたのだから。
言葉はさらに続く。
「そこで、だ。まず、感染していないと思われる生徒、教師、学校関係者を体育館に集めたいと思う。この意見について、今大掛かりな移動をするのは危険だと思うものもいるだろう。しかし、感染者が増えてからでは遅い。動けるうちに全員を一箇所に集め、集団として管理した方が確実だと考える。何か異議のあるものはいるか」
挙手するものは誰もいなかった。
この状況下での大規模な移動は、たしかにハイリスクである。
しかし、感染者が増えれば増えるほど移動が困難になるのも事実であり、全員を一箇所にまとめることで生徒の管理もしやすくなるという点から、表面上、反論する余地はなかった。
「その後の指示は教頭に任せてある。では各自、行動を開始してくれ」
この言葉を最後に、校長は今まで立っていた定位置から移動を開始する。
入室から一度も、気にすら留めていない、未だ鳴り響く保護者からの電話に目もくれず、そのまま校長は職員室を後にした。
扉が閉まったその奥で校長が誰かと言葉を交わしていたようだが、それはまた別の話。
◇◇◇
扉がしまったのを確認するとともに、今度は教頭が口を開いた。
「まず、教員のこれからの活動は原則三人を一組として行ってもらいます。まずそこの御三方。放送室に向かい、直ちに体育館へ集合する旨を放送してください。生徒を不安にさせるような言葉は避けつつ、こちらの資料に従って必要な情報のみ公開するようお願いします。もし放送室に行く過程で遭遇することがあったとしても、三人いるのです。適切な判断、対処を行い、確実に放送を完遂してください」
校長がいる時とは打って変わった口調で、ここの最高権力者は私だと言わんばかりの態度で言い放った。
その後ろからひょっこりと顔を出して現れた、会議において書記を務めたと思われる教師が、いくつかの資料を三人に手渡す。
「わかりました」
だが、この態度に対して誰も文句を言う気配がない。
適切な判断、対処を別の言葉に言い換えると、もし仲間が感染したとしても見捨てろという意味に聞こえなくもないが、皆、優先順位をちゃんと理解しているのだろうか、誰も文句を言うものはいなかった。
そのままバタバタと三人が職員室を後にする。
それを見送った教頭は、次の指示を送った。
「次に担当部活動のある顧問の皆さん。各生徒はそれぞれの活動場所に点在していると考えられます。したがって、生徒の安全確認、体育館への誘導をお願いします。加えて、現時点から五分経っても、先ほどの放送室の組による放送がなされない場合、速やかに放送室に向かい、代わりに放送をお願いします」
一グループ目の時と同様、異議を唱える人はいなかった。
「あくまで放送の完遂を最優先とします。優先順位の把握をお願いします」
私はこの言葉を聞き終えて、移動を開始した。
「それから残っている皆さん、これ以降の電話対応は必要ありません。既に上層部により報道機関に必要な情報統制が行われています。したがって、体育館に先行して移動し、大人数の受け入れ準備に入ってください」
どうやら、生徒の保護者や報道各社には必要事項の伝達がすでに行われているようだ。
職員室内のほぼ全員があわただしく足を動かし、職員会議は自然と終わりを迎えた。
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