第4話 立場

 私はそのとき、道場の近くの小屋にいた。

 道場の方から悲鳴が聞こえる。


 私、いや、私たちは、その瞬間を見ていなかった。


 側で備品の確認をしていた春ちゃんは、悲鳴と共に飛び跳ね、そして私に抱きつくような体勢をとった。

 私はその手を取って引き寄せ、反対の手を春ちゃんの頭に添えた。


 野次馬の如く様子を見に行った一年生の男の子二人が、何が起きたのかを話してくれる。

 あたふたしながら発せられたその内容は、とても信じられるものではなかった。


 私が動揺しては行けないと思った。


 女子弓道部の部長。

 それを抜きにしても、ここにいる最年長者は私なのだ。


 とにかくこのままでは危険だ。

 心の中で叫びたい気持ちを抑え、私は指示を出した。


「とりあえず皆、中に入って」


 ここにいる全員を「それ」の視界に入れないように計らう。


 私と春ちゃん、審判を務めてくれた一年生の女の子二人、先程様子を伝えてくれた男の子二人を入れた小さな小屋の中は冬であることを忘れたかのように熱気を上げていった。



 どのくらい息を殺していただろう。

 隠れている間は誰も言葉を発さなかった。

 息を潜め、ただ危険が過ぎ去るのを待った。 


 ここに窓はない。

 外はどうなったのだろうか。


 圧倒的に情報が不足していた。


 あきの声が聞こえた。


 何を言っているかまでは聞き取れなかったが、あれは確実にあきの声だった。

 冷静に考えてみると、この状況下でそんなことはありえないはずなのに、この時はそう確信できた。


 あきが来てる。


 私の中では確信に変わった。


 助けに来てくれたんだ。


 それがわかった途端に、うれしさがこみあげてきた。


 冷静に、冷静に。


 何度も自分に言い聞かせて心を落ち着かせ、この気持ちの高まりがみんなにばれないように取り繕う。

 しかし、春ちゃんも同じように考えていたようで、ゆっくりと顔を上げた彼女と私の目が合った。


 少し照れつつも互いに頷き合う。


 他のみんなの様子を確認しようとあたりを見回すと、少しだけソワソワしているように感じられた。


 あきの行動に応えるべく、私は小屋のドアノブに手をかけ、言葉を発した。


「あき!」

「先輩!」


 二人の声が重なる。

 張り詰めた空気が一瞬、緩んだように感じた。


 足に違和感を覚えたのはその時だった。


 ん?


 その時は、その程度の違和感しか覚えなかった。


 けれど、小さなことにかまっている余裕はない。

 私はその違和感を、無理やり無かったことにした。


「道場に走って!」


 あきの叫ぶ声がした。

 私はその言葉を、あきを信じ、春ちゃんの手を引いて駆け出した。


 立場を考えれば、全員の後ろを行くべきだったのかもしれない。


 しかし、早くあきの元に行きたい。

 その気持ちが勝ってしまった。


 こちらに向かって駆けてくるあきの足が止まった。

 若干顔が引きつっているように思う。


 この状況でどうして?


 考えをめぐらす。


 そうか、後ろにもいるんだ。


 この状況において危機を感じるセンサーのようなものが敏感になったのであろうか、そんな気がした。


 今まで私たちの方へと一直線に走ってきていたあきが、その方向を変えた。


 え?どこに行くの?


 私を助けに来てくれたと思っていたあきがまっすぐ自分の方へと来てくれなかったことに対して、何となくさみしさを感じた。


 一瞬、私もあきの方に向かおうかとも考えた。

 しかし、すれ違った時のあきの横顔が、「来るな」と言っているような気がした。


「道場に走って!」


 あきの声が聞こえた。


 あきを信じよう。

 心から思った。


 大周りで一度私たちの後ろまで走ったあきは、ぐるっとUターンをして私の横までやってきた。

 私の右手は春ちゃんとがっちりとつながれており、左側にはあき。

 

 本当は手をつないで、道場まで引っ張ってほしかった。

 でも、さっきまでとは比べ物にならないくらいの安心感が、今の私にはあった。


 私の足元で何かがはじけた。


「きゃっ」


 とっさに手を前に出し、倒れる衝撃に備える。


 しかし、私の手が地面に触れることはなかった。 

 出された手にしがみつき、視線を上げ、手の持ち主の顔を見る。


「大丈夫ですか?」


 逆の手側から声が聞こえた。


 けれど、今の私はどんな表情を浮かべているか、変な顔をしていないか、そんなことを考えていた私に、彼女の言葉は素通りしていった。


 あきが春ちゃんに、先に行くように声をかける。

 春ちゃんは心配そうに私たちのことを見つめながら、道場の方へ駆けていった。


 あきの手が私の手を、あきの肩へと誘導する。

 そのままゆっくりとかがんだあきを見て、私の次の動作を実行する。


 私は全体重をあきに預けた。


 人におんぶされるのはいつぶりだろう。

 小さい頃はお父さんによくおんぶをねだったりしていたものだが、小学校高学年ごろから人に抱えてもらった記憶がなかった。


 思ったより揺れるな。


 落とされないようにあきにしがみついている私は、安定した体勢を求めて下半身に力を込めた。


 そのまま道場のドアをくぐる。

 最後尾であった私たちが中に入った瞬間、ドアのそばにスタンバイしていた柊と蒼によって勢いよく閉められた。


 あきは今までの勢いを殺すことができずに下駄箱を越え、その先の廊下まで土足で侵入。

 そのまま倒れこむかのようにうつぶせで倒れこんだ。


 私はその拍子に膝から着地。

 一瞬体に電気が走るような痛みが走ったものの、うつぶせで私に馬乗りにされているあきが心配で、その痛みを感じている暇はなかった。


「あき、あき!」


 何度も呼び掛ける。

 しかしあきはぜーぜー言うばかりで返事をしなかった。


 ドアの前に机やパイプ椅子でバリケードを作っていた柊と蒼、直人が私の声に反応して集まってきた。

 入れ替わるようにして一年生が、バリケード作りのカバーに入る。


 こんな時にも統制がとれている弓道部の縦のつながりには改めてすごさを感じた。


 柊と直人があきを抱えて奥まで運ぶ。


 私は片方、履きっぱなしであった雪駄を脱いで、その後を追った。


「あき、死んでないよね?」


 私は何度も問いかけた。


「大丈夫、息はある」


 蒼に諭され、だんだん私も落ち着きを取り戻していく。


「暁人も心配なんだけどさ、この後どうする?」


 蒼のこの言葉で、ようやく現状が見れるようになってきた。


「皆は、無事?」


 あきの横に座り、目和そちらに向けたまま蒼に問う。


「三人、いない」


 この言葉を聞いたとき、道場内の空気が一気に重くなったのを感じた。


「え?」


 思わず声が漏れた。


「陽奈と、葵の後ろを走っていて躓いてしまった一人、そしてその子を助けに行った一人がこの場にいない」


 驚くほど冷静な言葉で発せられたその言葉は、私に現実を突きつけた。


 私は女子弓道部の部長なのに、あの時後ろを走ってあげられなかった。

 その後悔が、今の私には大きく、そして重く感じられた。


「それで、この先どうしようか?」


 再び蒼が私に問う。


 なんでそんなの冷静でいられるの?


 そう問い返してやりたかった。

 いや、本気でそう言うつもりで、私は蒼の方へと体を向きなおした。


 その時、冷静そうな言葉を発していた彼の表情を見てしまった。

 悔しそうにかみしめられたこの口元、震える体、そのすべてから彼の悔しさ、怒りを感じた。


 それでも、彼はそのことを声には出さなかった。


 それが部をまとめる立場にある私たちがやらなければならないことなんだ。

 そう感じた。


「そうね。まずみんなを集めて話し合うのは?」


「うん。話し合いも必要だ。だが、その前に何を話し合うのかを大まかにここで決めておきたい。特に、男子の部長がいない現在、ここの実質トップは葵なんだから、重荷を押し付けるみたいで申し訳ないんだけど、君にはいつも通りふるまってもらいたいんだ」


 なんてことを言ってくれるんだ。

 私がいまどんなに苦しいかも知らないくせに。


 つい感情的な面が、私の心で見え隠れする。


 でも、彼の言っていることは正しい。

 ここからはどんなことがあっても感情的にならずに、いつもの私を演じよう。

 そう決めた。


「とりあえず、もうすぐ日が沈む。だから灯が必要になってくるし、見張りも必要なんじゃないか?あとは、あのドアの耐久性、シャッターと窓をどうするか。とか、話すことはたくさんだ。ほかに何かある?」


 再び蒼が問い、それに私が返す。


「皆とは言わないけど、スマホを持ってきている人はいるんじゃない?」


「確かに。俺のは部室だけど、何人か道場に持ち込んでいる人がいるかもしれない。聞いてみよう」


「窓は今すぐにふさいで補強するべきなんじゃないかな?中が見える状態だと私たちも不安だし、窓硝子一枚じゃすぐに割られちゃいそうよね。あとはご飯に洋服…それと…トイレ?」


 この空間でトイレをどうするか、それを想像しようとした私の顔が若干赤らむ。


「そうだ!その辺を考えていなかった」


 蒼もそこまで考えが回っていなかったようで、うんうんと頷く。


「でも、どうするの?」


 私には解決する方法が思いつかなかった。


 しかし、生理現象であるため、いずれ必ずそのような状況は発生してしまう。

 早期に解決が必要な議題であった。


「ちょっと待ってな、今できることだけみんなに指示してくる。そのあとでもう少し話そう」


 そう言って蒼は、いったん部屋から出ていった。


 あきと二人きりの時間が訪れる。

 あきが気が付きそうな気配はないものの、上がっていた息もやっと整い、今はすーすーと寝息のようなものを立てていた。


 ズキン。


 右足に痛みが走る。

 今急にその痛みがやってきたというよりは、今までその痛みを感じることができないほど別のことでいっぱいいっぱいだったという方が正しいかもしれない。


 だが、痛みを感じたところで何かをしようとは思わなかった。

 むしろ、その痛みが心地いいとさえ思えた。


「誰もいないし、いいよね」


 そう小さくつぶやいて、前方に両手をつき、体を滑らせるようにしてあきの横に体を滑らせる。

 正座を崩したような座り方をしている私の足の先にあきの頭部が来るように移動した私は、あきの頭を持ち上げ、ゆっくりと膝に乗せた。


「ありがとね、あき」


 そう呟きながら髪をなでる。

 そのままゆっくり視線を、彼の脚の方へと動かしていく。


「そっか、さっきまで練習してたんだよね、私たち」


 あきの手には、弓道の練習に使う弽 が装着されたままだった。


「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」


 ついさっきまでの日常にあまりにも慣れすぎていた私たちには、今のこの現状はあまりにも異質なものだった。

 

       ◇◇◇ 


 ガラガラ。


 あきの弽を外そうと手を伸ばした瞬間、部屋の引き戸が開く。

 音がした方に顔を向けると、先ほど出ていった蒼と柊が入ってくるのが見えた。


「「あ」」。


 私の声と蒼、柊の声が重なる。

 私とあきの状態をみられたことに対する「しまった」の意味の「あ」と、見てしまったことに対する驚きの意味の「あ」が、偶然のハモリを見せた。


 ハッと我に返り、あきを膝から降ろそうとする。

 しかし、実行する前に否定された。


「いいよ、そのままで」


「ふぁ?」


 思ってもみなかった言葉に理解が追い付かず、まぬけな返事をしてしまった。

 みるみる自分の頬が赤く染まっていくのが、自分でも分かった。


「いや、いいよ、そのままで。暁人を床にそのまま寝かせるのはなんか申し訳ないと思ってたんだ。それに本人も…」


 最後の方はあまり聞き取れなかった。


 でも、このままでいいというのなら、私としても願ったり叶ったりだ。

 もう少しあきと密着してられる。


 そう考えたら、言葉の続きなんてどうでもよかった。


「一応、窓を外から見えないようにすること、窓と扉の補強、あとシャッターの強度を確認するように指示してきた」


「うん」


「それから、みんなスマホは部室で、道場に持ってきている人はいなかった。部の暗黙の了解として道場に余計なものは持ち込まないっていう雰囲気が、今回はあだになったみたいだ」


「そっか」


「それで、この先の動きなんだけど、俺の考えとしては、ここに立てこもる手段と別の場所に移動するっていう手段があると思う」


「うん」


「それでここに立てこもった場合、食べ物、飲み物の心配とトイレの問題が出てくるんだよね」


 やはりこれが、この先一番の問題になりそうだ。


「だから、俺的には多少危険を冒してでも移動するのがいいのかなって思ったんだけど、どう?」


「……」


「例えば校舎に行ければほかのみんなもいるだろうし、購買部や食堂とかの食べ物をもらえるかもしれない。それに中にはトイレもあるし。校舎じゃなくても、ここから一番近い外周に向かって走って、校外に出るのも手だと思う」


 確かにその通りだ。


「うん。で、いけるの?」


 だが、私のこの一言で、この部屋の空気が凍り付いた。

 三人とも視線を下げる。


「じゃあやっぱり、立てこもるしかないんじゃねえの?」


 ここまで黙って聞いていた柊が意見を出す。


「さっきも言ったが、食べ物飲み物の問題と、トイレの問題が解決できない」


 それに対して蒼が答える。


「でもさ、ここにいる限り安全なんだろ?確かに飲み物は早く何とかしなくちゃいけないけど、食べ物は人間、何日か食べなくても生きていられるし、トイレもみんなが妥協すれば何とかなる。それに、のどが渇いて本気でやばくなるまでも一、二日くらいはあるだろうから、その時間を使って考えて、移動するなら準備とかすればいいんじゃないの?」


 柊にしては結構筋の通った考えだと感じた。


「ここにいる限り安全ということは決してない。ここもいつ突破されてもおかしくはないんだ。だから、結局移動するなら早いに越したことはないと思うんだけど。まず、数日後にみんなと合流したとしてもそのころには食べ物が底ついているかもしれない。加えて、「それ」 は陽奈を人ならざる風貌に変えたじゃないか。遅くなればなるほど「それ」は数を増やしていって、数日後には手遅れになっているかもしれない」


 対する蒼は、この状況、それに対する意見を冷静に考察できていると感じられた。


「とにかく、ここに留まるならば、ここが使えなくなった際、次に逃げる場所を確保しておくことが最低条件だと思う」


「例えば?」


「例えば…そうだな。ここから比較的安全に移動できて破られにくそうな場所…体育館とか武道場とかじゃないか?」


 蒼と柊の議論はどんどん加速していく。


 ここに私が入る余地はあるのだろうか。

 そう思いながら、私の手はあきの髪の上で左右に動いていた。


「屋根は?あいつらに梯子を昇れるとは思えないし」


 柊が別角度の意見を述べた。


「確かに。それは思いつかなかった。というか、少なくともここよりは安全だろうし、それは今すぐに移動するべきかもしれない。第二の移動先はそこで考えよう。ただ、移動するかしないかの判断は急ぐべきだ。日が落ちる前に実行時なければならないからね。でも、屋根の上か…」


 私は柊の案に賛成だったが、蒼はあまり乗り気ではなさそうだった。


「屋根じゃなくても、この道場、実は屋根裏部屋があるんだぜ」


 柊が若干どや顔で言った。


「ここの道場、射場の方は天井が高いけど、更衣室とかこの部屋とかはそんなに天井高くないじゃん。だから何かあんのかなーって思って天井見渡してたら、一か所天井に四角い枠で囲まれた部分があって、そこをつついてみたら、その先にも空間があったっていうわけ」


「それだ。そこなら屋根の上とは違って落ちる心配はないし、「それ」も登ってこられないと思う。とりあえずそこに移動するって方向でいいかな?」


「う、うん。いいと思う」


 突然話を振られて驚いたが、なんとか返事を返す。

 ほとんど私が口出しする余地はなかったな。


 けれど、これでしばらくは何とかなりそうである。


「とりあえず移動した後で、皆に移動するかについて聞いてみよう。じゃあ、いったんこの話し合いはお開きで」


 蒼のまとめで話し合いはいったん終了。


 二人は立ち上がり引き戸の方へ、私はあきの様子を見ようと、彼の顔をのぞき込む。

 その瞬間、大きなわめき声とともに、額にとてつもない衝撃を受けた。


 ゴツン。


「きゃあ」


 たまらず声を上げてしまう。


 ぶつかったものを把握しようと目を開けると、そこには同じように手で額を抑えるあきの姿があった。


 嬉しさがこみあげてくる。


「起きるんなら起きるって言ってから起きなさいよ」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 しかし、あきが気が付いたという事実に、まともな思考をする余裕は、私にはなかった。


「もう、本当に、本当に、本っ当に心配しだんだがらぁ‼」


 あきを力いっぱい抱きしめる。


 よかった。


 私を助けたことで死ぬ、そんなかっこいい真似は絶対にさせない。

 守るのなら最後まで私を守って欲しい。

 あきが死ぬのなら、その時は私も連れて行って欲しい。


 そこまで思考したところで改めて自分のあきに対する思いを認識する。


 そっか。

 やっぱり私、あきの事〝好き〝なんだ。


 ポンポン。


 手を軽くたたかれた。

 目をやると、あきが苦しそうに私の手をたたいていた。


 この動作の意味を瞬時に理解して解放 する。


 心の中で「締めつけてごめん」と何度もつぶやいた。


「暁人」


 背後から声がした。


「暁人、今の今まで、気を失ってたんだぜ」


 柊があきに向けて言う。


「葵の膝の上は寝やすかったか?」


 今度は蒼が、あきをからかうように言った。


「ば、ばか。別に…」


 照れるのを隠すように急いで起き上がるあきを名残惜しくも解放し、その様子を見てなんだか私までうれしくなった。


 あきが、なんだか居心地が悪そうにあたりを見回している。


 扉越しにのぞき込むほかの部員に弁解するあきの姿は貴重で、この先もずっと忘れることはないだろう。

 そう思った。

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