第3話 悪夢

 目の前には暗闇が広がっていた。


 何も見えない。

 何も考えられない。


 そんな、いうことを聞かない俺の脳に鞭を打って、考えることを始めた。


 確か、俺は道場に飛び込んで…そこで記憶は止まっていた。


 頭はいつも以上に澄んでいるような実感があるにもかかわらず、思考をするたびに、考えたことがこぼれ落ちていくような感覚にあった。


 ここはどこなんだ。


 あたりを見回す。

 心当たりはない。


 そういえば、葵が見当たらない。

 先ほどまで一緒に、いや、背中に抱えていたはずなのに、今はいない。

 もちろん葵を下した覚えもない。

 いや、それどころか葵だけじゃなく、俺の周りに人がいるような気配すらなかった。


 そして、この状況と対峙しても冷静でいる自分に、初めて恐怖を覚えた。


 俺はいつからここにいるのだろうか。

 俺はいつまでここにいなければならないのだろうか。

 みんなに会いたい。


 光が見たい。



 そう思った瞬間、俺の目の前の光景に変化が起こった。


 かすかに聞こえる、六時を知らせる音楽。

 そこには、先ほどまで俺が走り回っていた、道場の前の駐車場と道路が広がっていた。


 俺は、道場を正面に、立っていた。


 どこからか、強い視線のようなものを感じた。

 

 何かが来る。


 同時に、背後からの気配を感じた。

 直感でそう思った。


 ゆっくりと振り返る。


 辺りを見渡し、奥の校舎の裏に視線をやった時、まっ黒な影がのぞいた。

 俺はそれを先ほど見ていた。


 逃げないと。

 そう思った。


 俺の脳は、足に、後ろに一歩踏み出すようにように信号を送る。

 足はびくともしない。


 そこで、やっと俺はやっと状況を理解する。

 

 「それ」と俺との間には、結構な距離がある。

 こんなに距離があるのに、逃げられない。

 

 その時、一つの考えが俺の中をよぎった。


 やられる。と。


 そこからは単純だった。

「それ」が一歩俺に近づくごとに、俺の恐怖は大きく膨れ上がっていく。


 俺は、考えることを放棄した。


 次の瞬間、「それ」は目の前にいた。


 瞬間移動をしたのだろうか。

 いや、この際そんなことはどうでもよかった。

 なぜなら俺は、食べられようとしているのだから。


 反射的に、顔を守るように両手でガードを作る。


「うわあぁ‼」


 恐怖からか、「それ」が大きくなっているような錯覚に陥り、その光景を前に思わず叫ぶ。

 

 「それ」はどんどん膨張し、抵抗もむなしく、俺は「それ」の口の中に吸い込まれていった。

 

 巨大な歯が見える。

 あれは牙だろうか。


 人間の口内でいう八重歯のあたりにひときわ大きな鋭い歯が見えた。


 その歯が俺の体に突き刺さる。


 痛みは感じなかった。

 もっと言うと、感じる暇もなかった。


 目の前には再び暗闇が広がった。


       ◇◇◇


 何も見えない。


 が、この光のない世界に対しては、「またか」としか思わなかった。


 俺は先ほど食べられたのではないのか。


 口に吸い込まれる間隔はあった。

 しかし、噛まれた痕はない。

 いたって正常に、俺の体内器官はサイクルを回していた。


 再び目の前に光が見えた。


 再び聞こえる六時の音色。


 次の瞬間、俺は、屋根の上に座っていた。

 下には駐車場と道路。

 つまり、ここは道場の屋根の上ということだ。


 駐車場の真ん中に、人影が見える。


 あれは誰だろう。


 俺はその人の雰囲気を知っている。

 知っているはずなのに、誰かがわからない。

 そして、その様子は誰かに追われているようだった。


 その人は、自分のいる、道場のほうへ向かって走っていた。


 しかし、その人が道場にたどり着くことはないだろう。


 その人は、道場の方を見た。


 何かを見たのだろうか、はたまた何かを聞いたのだろうか。

 彼は走るスピードを緩め、しまいには立ちつくしてしまった。


 その表情は、驚いたような、目をむいている様子に見て取れる。


 その人は、ゆっくりと後ろを振り返った。


 背後には黒い影が見えた。

 間違いない、「やつ」だ。


 その人の血相が変わる。

 その足はゆっくりと道場の方を向き、再び動き始めた。


 俺は思わず叫んだ。


「走ってください!道場に駆け込めば、間に合います!」


 しかし、その声は届かなかった。

 俺はその言葉を声に出したつもりだが、言葉は俺の周りで四散するかのように消えた。


 なんだ、これは。


 俺はとにかく叫んだ。

 その人に向けて、俺の言葉が一つでも届けばいいと思って、叫び続けた。


 だが、届かなかった。


 その効果もむなしく、その人と「それ」の距離は縮まっていった。


 そもそもあの人に俺は見えているのだろうか。

 それさえ怪しかった。


 近くにいるのに何もできない自分。

 ただ見ているだけで、何もできない自分。


 こんなに自分に嫌気がさしたのは初めてだった。


 俺は考えた。

 何かできることはないか、と。


 たとえそれで助けられる可能性がほんの一握りしかなかったとしても、やらないよりはいい。

 だって、何もしなければ今目の前で起こっているように、やられてしまうのだから。


 そう思って、俺は一歩足を前に出した。


 そこに屋根の続きはなかった。


 突如訪れた浮遊感と、恐怖感にかられ、俺は叫んだ。


「うわぁーー‼」


 文字通り、落ちた。


     ◇◇◇


「うわぁーー‼」


 俺は悲鳴を上げながら上体を起こした。


 ゴツン。


 ちょうど地面と四十五度ほど起こしたとき、俺の額は何かとぶつかった。


「きゃぁ」


 女性の声が聞こえた。


 俺は頭を下げ、再び上体を寝かせた。

 やわらかくて温かい何かに頭を乗せ、打ち付けた額に手を持っていく。


「いったぁい」


 さらに女性の声は続く。


 俺の視界にかかった靄がだんだんとはれ、次第に周りが見えるようになってきた。


「起きるんなら起きるって言ってから起きなさいよ」


 俺と同じように額に手を当てた葵が、反対の手で、俺の額に置かれた手をどかし、俺の打部を抑える。

 はたから見たら、熱を測っているような感じであろうか。


「もう、本当に、本当に、本っ当に心配しだんだがらぁ‼」


 最後の方は、言葉になっていなかった。


 俺の頭は抵抗する暇もなく、葵のやわらかい腕に包まれる。


「く、くるじい」


 葵の手を軽くたたいてギブを伝える。


 解放された俺の頭は、再度、やわらかくて暖かい何かに乗せられた。


 冷静になって、客観視する。

 も、もしかして、これは。


 膝枕だ。


 気づいた途端、俺の頬がうっすら赤みを帯びてくる。

 抜け出そうと試みるも、額を葵の手で押さえられていることに加え、力がうまく入れられないことから脱出できそうにいない。


 俺の中からまともな思考は失われていた。


「暁人」


 上の方から声が聞こえた。

 柊の声だ。


「そうだ、おれは…」


 この声によって我に返る。


「暁人、今の今まで、気を失ってたんだぜ」


 この言葉により数秒前までの俺の状態を、俺は知った。


「葵の膝の上は寝やすかったか?」


 蒼がにやにやという擬音語が似合いそうな表情で声をかける。


「ば、ばか。別に…」


 急いで、今度はぶつからないように上体を起こす。

 今度は葵もすんなりと解放してくれた。


 体を起こして辺りを見回して、状況を把握する。


 一年生、二年生を問わず、部員全員の目が俺を向いていた。


 視線が痛い。

 その視線の一つ一つに目を向けていくと、春と目が合った。


 頬を膨らませて、何か言いたげな様子でこちらを見ていた。


「ち、違う。これは、…違うんだ」


 弁明を試みる。


「ほら、わかるだろ。狙って出来たら苦労しないって」


 言った後で、また思う。

 やってしまった。


 恐る恐る春の方に目をやると、隠しきれない怒りが見え隠れしているような笑顔が浮かんでいた。

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