第2話 遭遇
今日の練習も、折り返し地点へと差し掛かった。
冬はローテーション二周を練習メニューとしているため、ローテーションの後半の一周とも言える。
秋と冬のちょうど中間に位置する今の時期は、昼の長さの変化をもっとも感じるように思う。
空には真っ赤に染まった夕日が浮かび、あと一時間もすれば、完全に沈んでしまうだろう。
備品を確認しに来た春はと言うと、今現在、葵に連れられて道場の各所を回っていた。
断っておくが、決して俺が案内の仕事?を放棄したわけではない。
前半は俺が案内し、俺のローテーションに合わせて葵と入れ替わったというところだ。
それにしても葵と春はいつ仲良くなったのだろう。
道場の外の審判用の小さな小屋の辺りからは、今も葵と春の話し声が、かすかに響き渡っていた。
一年生女子の組がスタートする。
まだ入部して一年もたっていない彼女たちの射は安定こそしていないものの、成長を感じる。
俺も一年前は、先輩たちの目にこんな感じで写っていたと思うと、なんかもどかしい。
俺は彼女たちから視線を外し、今日最後のローテーションの準備に行動を移した。
弓を引くのに欠かせない装備を手に取る。
右手用の装備を手にはめ、さらに上から紐を占めていく。
弓と矢を持ち、入場口へと向かった。
「これ終わったら入るけど、いい?」
入場口付近で既に待機していた直人から声がかかる。
おそらく現在射場にいる選手の次の一射に合わせて入場するということだろう。
同じ組のメンバー五人が集合する。
「入ります」
先頭の直人の合図と共に、俺たち五人は入場する。
道場内には前の組の選手の弦音と、次の組の俺達のすり足の音が響き渡っていた。
前の組の選手全員が退場し、俺たち五人が前へ進む。
ドアからは、先ほど退場した一年生女子が退場していくのが見えた。
矢を二本床に置き、残りの二本を持って俺たちは矢を所定の位置にセットする。
一本はすぐに放つことができる状態に、もう 一本は小指と薬指で挟むようにして持つ。
そのまま自分の放つ番を待った。
「きゃあ‼」
その時は突然訪れた。
甲高い女子生徒の悲鳴が響き渡り、その場に一瞬の静寂が流れた。
全員の視線が道場の扉へと集中する。
それは何の前触れもなくやって来て、いっぺんに俺たちの不安と恐怖駆り立てた。
自分の番の到来により、矢を装着した弓に添えた俺は、その手を動かさなかった。
「ねえ蒼、ちょっと見てきてよ」
二年生の女子部員で、会計を務める奏羽が言った。
返事はない。
「蒼!」
「お、おう」
再びかけられた声に対し無意識に反応したような返事をした蒼は、ゆっくりと立ち上がり、ドアのほうへと歩き出した。
その足取りは重々しいような、ゆっくりとしたものだった。
悲鳴が上がったのだから、できるだけ急いで様子を見に行くのが普通だろうと思うかもしれないが、今思えば、この時俺たちはすでに何かがあることを感じ取っていたのかもしれない。
ガラガラ。
ゆっくりと扉を開けた蒼は、ドアを半分も開けていない状態で、目に入った状況に疑問を覚えたかのような声を上げた。
「は?」
そのまま蒼は固まったかのように、しばらく動かなかった。
「どうしたの?」
再び奏羽が、今度は不安そうに声をかけた。
返事を一向に返さない蒼に痺れを切らしたのか、奏羽もドアのほうへ向かう。
みんなの不安そうな視線を集めながら扉の外をのぞいた奏羽は、口元を手で覆い、絶句した。
「そんな…」
小さな声が道場に広がった。
その時、俺はこんなことをしている場合じゃないと思った。
何かが引っ掛かっていた。
外の状況が知りたい。
そう思った俺は、弓矢を持ったまま扉のほうへと向かった。
奏羽の後ろから扉の外をのぞき込むと、そこには抱き合うような、絡み合うような状況の、二体の「何か」がいた。
片方の「それ」の口が、もう片方の「それ」の首筋にあてられている。
人間のような四肢を持っているが、とても人間とは思えない。
見おぼえもなかった。
俺は必死に、「それ」の正体を考えた。
しかし、この場でそれを考える余裕も無く、状況は変化しつつあった。
「まずい‼」
黙って見ていた蒼が、声を上げた。
絡み合っていた「それ」は、徐々にその状態をほどき、噛みつかれた方の「それ」が解放される。
状況を完全に理解することはできないが、何となく危険であることは感じ取れた。
「それ」らは徐々に首を動かし、「それ」を挟んで道場と反対の位置で腰を抜かしている、一年生女子の方を向いた。
このままだと得体のしれない不気味な存在の「それ」が彼女たちの方へ向かってしまうのではないだろうか。
それはこの状況からしてわかるものの、どうすることもできなかった。
アニメや漫画の主人公のように、今すぐここで駆け出せたなら。
そう思う一方で、こわい。
この感情一つによって、俺は体をコントロールすることができなかった。
俺は現実の非常さ、そして体の扱いづらさに腹が立った。
そんなことを考えながらあたりを見回していると、ぞっとするようなことに気が付いてしまった。
さっきのローテーションの組は五人で編成されていたが、今道場の対角の位置にいるのは四人なのである。
さらに、「それ」の数は二。
俺はそこから導き出される動向を、恐る恐る口に出した。
「もしかして、あそこにいる、あいつは、陽奈を…」
最後まで言葉を言うことはなかった。
言わずとも、周りの雰囲気が、そうであることを示していた。
だとすると、「それ」の次の標的は残りの一年生女子ということになる。
状況は最悪であった。
この体が動けば…。
そう思うものの、助ける気持ちと恐怖を左右に乗せた天秤は、ピッタリと釣り合ったまま、一行に傾こうとはしなかった。
助けに行っても助けられるかわからない。
ましてや俺も無事でいられるかわからない。
この状況における正しい選択肢を、数秒で導き出すことは俺には不可能だった。
いや、たいていの人間が無理であろう。
実際にこんな状況に陥ったことのある人はめったにいないだろうから、証明は難しいかもしれないが、この状況で正しい思考ができる人がいるのならばその人と入れ替わりたい。
そう思った。
そうこうしているうちに「それ」は彼女たちの目の前に差し掛かっていた。
俺は、見ていることしかできなかった。
俺の中にあった、引っ掛かりに気づかなければ。
葵がいない。
俺はやっとその違和感に気づいた。
そういえば春も、葵も、外の小屋にいたはずだ。
無事なのか?
そう思った瞬間、釣り合っていた天秤は一気に傾き、俺の脚は一歩目を踏み出していた。
蒼と奏羽、ほかの部員の視線が一瞬俺に集まる。
だが、そんなことを気にしている余裕もなく、俺は叫んでいた。
「全員道場中に入って、弓道場のシャッターを下ろして‼」
道場内にいた全員が、驚きの目を向けた。
この状況において叫ぶという行為は、自殺行為にも等しかった。
しかし、一年生女子を助けるためには、これしかないと思った。
いや、この短時間で、俺はこれしか思いつかなかった。
一年生女子に、今にもかみつきそうな状況であった「それ」は、間一髪で顔をこちら側に向けた。
よし!
心の中で、俺は叫んだ。
いける。
この感じで「それ」をひきつければ、彼女たちを助けられる。
そう判断した。
「早く!」
俺は再び声を上げた。
「それ」は標的を俺に移したようで、立ち上がり、こちら側に一歩踏み出した。
そのすきに蒼と柊が一年生女子の下に駆け付け、手を引いて道場に駆け込んだ。
シャッターも下ろし終わり、当番のために外に出ていた部員達も状況を理解し、移動を開始した。
「あき!」
「先輩!」
葵と春の声がした。
俺は、葵と春、外にいる残りの部員と合流すべく、そちらへ向かおうとした。
しかし、そううまくいくわけでもなかった。
奥の曲がり角からもう二体、「それ」の姿が見えた。
しまった!
どうやら俺の声で呼び寄せてしまったようだ。
俺は走る自分の足に急ブレーキをかけ、そして、的の近くにいた部員達に聞こえるように叫んだ。
「道場に走って!」
俺はそういうことしかできなかった。
外に出ていた部員達のすぐ後ろに迫っていた「それ」を見た俺は、自分が引き連れてきてしまった「それ」と挟み撃ちにならないためにも、それ以上彼らに近づくことをやめた。
そのまま少し大回りで外にいた集団の後ろへと回る。
俺は、俺を追い回していた「それ」を葵たちの後ろへ誘導することに成功し、そこから全力で葵達のもとへと走った。
構図としては、道場に向かって走る葵たち外集団の背後に俺が位置し、その後ろから「それ」が追いかけてくる状況だ。
葵たちの真横まで追いついたところで、誰かがつまずくような音がした。
走りに向かない袴で走っているのだから、無理もない。
しかし、そこで立ち止まる余裕は俺にはなく、ただ走れと叫ぶしかなかった。
「きゃっ」
今度は隣から声がした。
俺は、その声が聞こえると同時に、その声の主の手をつかむ。
今度は誰がつまずいたか、はっきりと分かった。
俺は、右手でつかんだ葵の腕をしっかりとつかみ、転倒を防止する。
葵も俺の腕をつかんで耐えた。
「大丈夫ですか?」
反対側を走っていた春が、立ち止まって心配の声を口にする。
俺はその言葉にかぶせるように言った。
「止まっちゃだめだ。先に行くんだ!」
葵が走れる状態ではないということは、すぐに分かった。
雪駄が脱げ、片足を地面につかないように挙げている葵の顔は、痛みを耐えているようだった。
しかし、春まで危険にさらすわけにはいかない。
俺はそういうほかなかった。
そうはいったものの、再びピンチに陥ったことには変わりはなかった。
俺は考える間も惜しみ、葵の前でかがみこむ。
葵も俺の動作の意味を察したかのように、うなづいて俺に体重を預ける。
その後、俺は葵を背負って再び足を進めた。
全世界の男性諸君からしたら、この状況はうらやましいものなのかもしれない。
だが、そんなことを考えている余裕はなかった。
疲れていたのか、あたりが歪んで見える。
そこから先はあまり覚えていない。
何も考えられず、ただひたすらに、扉を目指した。
俺はまるで、人間ではない何者かとゴールテープを争うように、道場のドアを走り抜けた。
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