第19話 青春の時計

 十年前、幼き日のツバメの眼前には一つの時計が置かれていた。離散量デジタルの数字の並びではなく、三本の針の動きで時の流れを直感的に表す、千年以上を経ても形の変わらないアナログ時計だ。

「今から、きみの辛い時間を止める」

 医師は優しく微笑んでそう言った。幼いツバメの心は、最新の心理療法の恩恵をすんなりと受け入れた。

 生まれた時代が数百年前なら、ツバメは被災から十年を経た今でも、両親を喪った悲しみに日々苛まれていたかもしれない。だが、幸いなことに、ツバメが生きるこの時代の医学は、肉親の死というイベントを、人生の悲劇から単なる記憶の一幕に塗り替えられるだけの力を持っていた。一つや二つの引き金トリガーがトラウマの再発現象フラッシュバックを引き起こすことはないと断言できるところまで、悲しみを凍て付かせ、感情の氷河の中に封じ込めるすべを持っていた。

 ツバメの悲しみの時計はあの日に動きを止めた。現代医学が保証していた。その針が再び動き始めることはないと――。


 なぜそんなことを思い出すのだろう。大事な本番の最中に。

 全国から集結したトップスター達と入り乱れ、48millionフォーティーエイトミリオンの共通曲を全力でパフォーマンスするさなか、ツバメは自分の脳裏にふと浮かんできた幼き日のカウンセリング・ルームでの光景をそっと意識の隅へと追いやった。

 今は北陸ミリオンの未来を懸けた大舞台の最中だ。感傷になど浸っている余裕はない。一挙手一投足がファンに見られている。頭の上から爪先までが全国のスターと比べられている。

 微塵も気を抜くな。このダンスに全身全霊を込めろ。この歌唱に渾身の想いを乗せろ。この笑顔に青春のすべてを懸けろ。

 ツバメの隣には東京ミリオンの神田かんだアキバがいた。東海ミリオンの鳴海なるみミドリが、関西ミリオンの阿倍野あべのミナミが、九州ミリオンの西新にしじんサワラが、それぞれに至高の輝きを纏って歌い踊っていた。だが、各地で並ぶものなき精鋭達を敵に回しながら、ツバメは今、まったく物怖じなどしていなかった。

 そう、自分は彼女らと互角に戦えている。アップテンポなダンスなら、全国選りすぐりのトップ集団にも負けていない。仲間とともに過ごしてきた時間は……日の当たらない環境で今日まで磨き続けてきた技術は、決して無駄ではなかった。

 すぐ後ろにはヒバリの呼吸を感じる。スズの、ハクイの、北陸ミリオンの仲間達の鼓動を感じる。自分のダンスの腕前以上に心強く感じられるのは彼女達の存在だった。神田アキバ達がどれだけ特級のスターでも、今日この場では遠隔地アウェーに単身乗り込んできた一匹狼の寄せ集めに過ぎない。各支部のトップメンバー同士、様々なイベントで共演する機会は普段から多いのだろうが、それが何だと言うのだ。こちらは、ドミトリー入りから三年以上、ずっと一緒に夢を追ってきた家族なかまだというのに。

 それだけではない。関係者席にはナナオやミズホの姿がある。この舞台をセッティングするために二人がどれほどの苦労を払ってくれたか……。そんな彼らの視線を身に受けながら、無様な結果など決して許されない。

 ステージはいよいよ佳境。次が最後の一曲だ。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 神田アキバの号令で曲が始まる。全国すべてのミリオンの芸能メンバーが最初に覚えることを求められる基本中の基本曲にして、「本店」東京ミリオンの往年の看板曲。48millionの曲には珍しく、英語フレーズの頭サビから始まるその歌を、アキバの澄んだ声が自信満々で紡ぎ始める。

 ――北陸の日陰者にこれが歌いこなせる?

 女王クイーンの黒い瞳がそう言っていた。鳴海ミドリが、阿倍野ミナミが、西新サワラが、北海道の白石しろいしナエホが、沖縄の美栄橋みえばしシュリが、身体を寄せ合って次々と頭サビの歌唱に加わりながら、挑発的な視線をツバメ達に向けてくる。

 ――負けるもんか。新潟ここが誰の庭だと思ってる?

 ツバメは微塵も怯まず、マイクに歌声を吹き込んだ。ヒバリ達とともに、北陸のアイドルの本気を劇場に響かせる。AメロからBメロ、そしてサビへと――身体で覚えた振付は完璧だった。

 それでも、客席の熱気はなかなかツバメ達には向いてこない。皆で渾然一体となって踊っていても、客の声援が誰に向けられているかは演者にはわかるものだ。満員のファンの歓声は明らかに神田アキバ達に浴びせられている。各支部のトップに立つ十二人の女神達に。

 東北の藤崎ふじさきアオバが、関東の成田なりたミハマが、横浜の高島たかしまミライが、ツバメ達と同じ振りをその何倍も手馴れた調子で踊りながら、瞳で語りかけてくる。

 「あなた達は十分に頑張った。だけど、そろそろここが打ち止めだ――」と。

 甲信の小諸こもろアズミも、中国の佐伯さえきアキも、四国の豊浜とよはまカノンも、客席に向かって余裕の笑顔を弾ませながら、ツバメ達へ同情の視線をひそかに送ってくる。

 「無理をするな。無名アイドルが気合で乗り切れる限度はとうに超えている」と……。

 だが、ツバメは諦めなかった。人気投票の順位がなんだ。支部内での序列がなんだ。全国三位のさかえクリスとの戦いを制した時、金山チクサはミリオンの正規メンバーですらなかった。ミリオンでの最初の三年間、チクサの順位は20,000位の壁を越えるのがやっとだった。今のツバメの順位もそれと同じ。ならば、勝てない道理はない。

 「身の程を知れ」――神田アキバが視線で送ってくる心の声を、ツバメの鋼の意思がはじき返した。精神こころが、身体が、屈することを拒絶する。

 ――神田アキバ。あなたにとって、ここはどんなステージ?

 ツバメは瞳で問い返した。鳴海ミドリの、阿倍野ミナミの、西新サワラの煌めく瞳に向かって、メッセージを送った。

 ――あなた達にとって、今この場所は、いくらでもある現場仕事ルーチンワークのひとつ?

 満員の観客の視線を自分に引き寄せながら、ツバメの心が叫ぶ。

 ――わたしには、違うんだよ。

 Cメロが終わり、曲が最後のサビに差し掛かる。ツバメは死ぬ気で歌い踊った。十二柱の神の輝きをも塗り潰し、この場で一番輝くために。

 観客の声と視線が少しずつ自分達にも集まってくるのが肌でわかる。各地のトップスター達を応援する声に混じって、僅かずつ、だが確実に、ツバメ達、北陸ミリオンへの声援は増えつつあった。

 きっと東京のステージでぶつかれば歯が立たないだろう。中京でも、大阪でも、九州でも、ツバメが彼女達に勝てるはずはない。だが――それでも。

 ――余所者あなたたちには、負けない。

 今はまだ、アイドルとしての力は遠く及ばないとしても――今夜、新潟ここでの輝きだけは、誰にも負けない!

 大歓声と渦巻く熱気の中、ツバメ達は最後のワンフレーズを歌い上げた。客席からの拍手と喝采、無数の視線がびりびりとツバメの肌を刺す。神田アキバと二人、ステージの中央に並んで客席に頭を下げ、ツバメは荒い息を弾ませながら観客達の様子に五感を集中させた。

 ツバメは感じ取りたかった。ファンの心の動きを。このパフォーマンスを通じて、どれほどの人達が、北陸ミリオンを見直してくれたのかを。

「……半分」

 隣に立つ神田アキバが、ぽつりと、マイクも拾わないような小さい声で、ツバメにだけ聴こえるように言ってきた。

「えっ?」

 それは奇しくも、ツバメが頭に浮かべていたのと同じ言葉だった。半分……この場にいる観客のせめて半分は、自分達の渾身のパフォーマンスに心を動かされてくれたと信じたかった。

 その言葉の意味をアキバに問い返す余裕はなかった。タイムテーブルの切り替わりは早い。怒涛の連続パフォーマンスの興奮も冷めやらぬ中、ツバメ達はステージの袖に並んで「彼女」の来臨を待たなければならない。

 神田アキバが現世に君臨する現人神あらひとがみであるなら――「彼女」はさしずめ、殿堂に祀られる伝説の女神。

 劇場の全方位モニターが緑に染まり、そこに白の字で「LEGENDARY伝説の IDOLアイドル」のフレーズが走ったとき、満場の観客はおおっと一斉に声を上げた。

 現役アイドルに向けられるのとは少し違う――静謐な緊張感をも湛えた観客の視線が注がれる中、ステージの中央にスポットライトが当たり、ついにその人影が姿を現す。

 上品なレースをあしらった白一色のドレス。一度も染めたことがないという艶やかな黒髪。銀河の煌めきを宿した瞳。

 この世のものとは思えぬ美しい出で立ちを前に、観客もこの時ばかりは大声を上げて騒いだりはしなかった。しんと静まり返った劇場に、一本のマイクを通した伝説のアイドルの声だけが、そっと響く。

「皆さん、こんばんは」

 たった九文字の挨拶のはずなのに、その言葉を聴いただけで嗚咽を漏らす観客もいた。ツバメもステージの袖から、衣装の下で鳥肌が立つのを感じながら、じっと彼女の姿を見ていた。釘付けなんてものではない。ツバメの視界には、五感には、いま、彼女しか存在していなかった。

 その姿は、ツバメが合衆国アメリカのホテルのスイートルームで向き合ったときの幾千倍も神々しかった。アーカイブで見漁った過去のどんなライブやドラマの映像よりも。

 自らも芸能人でありながら、ツバメはいま改めて思い知ったような気がしていた。画面越しとは比べ物にならない劇場ほんものの力を。憧れのスターの「現物」が目の前にいるというのは、これほどまでに違うのか――。

「お恥ずかしながら、この歳でガラスの靴を履きなおしました。今夜限りは『北陸のシンデレラ』――金山チクサです」

 はにかみを交えながら、しかしベテランの風格を漂わせて語るチクサの姿は、一瞬で観客を静謐の世界から熱狂へと引き戻した。「もう声を出してもいいですよ」――女神の瞳がそう告げていたかのようだった。

「わたしがこの地を訪れるのは、生涯で二度目になります」

 チクサに会うためにわざわざ新潟を訪れるような観客なら、誰もが知っているはずだった。彼女が十年前にもこの場所に降り立っていたことを。アイドルがドミトリー外に出ることを許される数少ない例外のひとつ、被災地の慰問を、数多の著名人に先駆けて彼女が即断していたことを。

「十年前、この街を悲劇が襲いました。……多くの命が失われました。多くの人の希望が焼かれました」

 チクサはそこで言葉を区切り、客席の全体を見渡していた。再び静まり返った客席のあちらこちらから、十年前の悲劇を思い出したのか、伝説のアイドルの威光に涙腺を焼かれたのか、小さく啜り上げる声がぽつぽつと上がっていた。

「……それでも、わたし達は、下を向いてはいけません。……諦めずに前を向けば、この世界には、必ず光があるからです」

 まっすぐ正面を見据え、穏やかな声で言い切るチクサの語りは、客席に涙の連鎖をさらに拡散させていった。

 この国に生きる者ならば、彼女の辿った数奇な人生の物語ストーリーは誰もが知っている。絶望を希望に変え、不死鳥の如くスターダムに復活を遂げた、一人のアイドルの物語を。

 そんな彼女が語るからこそ、この言葉には説得力がある。

 ツバメも涙を止められなかった。隣を見れば、ヒバリの頬も同じ輝きに濡れていた。

「どんな絶望の底からでも、わたし達は何度でも立ち上がれる。それをわたしは伝えに来ました。……ここにいる、次の世代を担うアイドル達が、途絶えかけた新潟の希望の炎を再び灯そうとしているように」

 チクサがそっと手で示すと、ツバメやヒバリ達、北陸ミリオンの面々にスポットライトが向けられた。ツバメは慌てて衣装の袖で涙を拭き、客席に控えめな笑みを向ける。

 そして、チクサは慈愛に満ちた表情で、ステージと客席のすべてに目をくれ、すうっと息を吸って吐いた。

「これから歌う曲には、天に召された魂を偲び、勇気をもらって、未来を向いて生きようという決意を込めています。……聴いてください。『REincarNAtionレインカーネーション』」

 大文字と小文字の入り混じったアルファベットの曲名がモニターに映し出され、ぱっと照明効果イルミネーションが切り替わった。暗闇のステージで、薄緑のライトがチクサ一人の姿を照らし出す。

 そして、今夜のためだけのイントロが流れ始める。優しく澄み渡るようなスローテンポの音色。チクサの声が、しっとりと、祈りを込めた譚詩曲バラードを歌い始める。


 ……丘よ……海よ……空よ……いま遥かに


 ……魂を運ぶ風に乗り、輪廻転生レインカーネーション……。


 ツバメはチクサの透き通った歌声を全身で感じ、その祈りを心に受け止めていた。

 許されるなら、このままその歌声の魅力に浸っていたい。……だが、客ではない彼女にはそうもいかない。ツバメは頭の片隅に、開演前に3Dオブジェクトとリハーサルしたこの後の流れを思い返していた。

 マグニチュード9の大地震がこの地下シェルターを揺らす時刻は、緯度と経度、シェルターの深度をもとに秒単位でわかっている。チクサがこの曲を歌い終えるその瞬間、地上震度七の揺れが地下空間を襲うことになる。大深度地下での体感震度は五程度。その揺れを乗り切ったら、ツバメはチクサの前にそっと歩み出て、憧れのスターからマイクを手渡される予定だ。

 その瞬間を思うと、極限を超えた緊張に身体が宙に浮くようだった。わたしが……他の誰でもないわたしが、夢に見続けてきた伝説のアイドルから、マイクを託されるなんて――。


 ……丘に……海に……空に……時は巡り


 ……神の名のもと喜びもて……生まれ変わる生命いのち


 ……花よ……鳥よ……月よ……いま遥かに


 ……生きゆく道を照らしたまえ


 ……輪廻転生レインカーネーション……。


 しめやかな余韻を残して曲が終わり、チクサがそっと目を閉じる。

 今から訪れる災害に備え、安全のために客席の全域が明るく照らされた。

 そして、ツバメ達の立つステージの床面が、ぐわんと波打った。壁も天井も客席も、空間全体がぐらぐらと上下に揺れ、観客達が僅かにどよめきの声を漏らす。

 幾千年の昔からこの国の人々を苦しめてきた天の災いが、いま、新潟の街を襲っている。

 数世紀すこし前までの人類は、地震の到来を事前に察知するすべを持たなかった。天地を揺るがす地球の震動を受け流せるだけの建物も作れなかった。だが、この数百年の間に、人は地震との付き合い方を覚えた。ツバメとて、そんなことはミズホのような秀才に講釈されるまでもなく知っている。単純な地震が建物を、街を、国を脅かす時代は、遥か昔に終わっていると。

 やがて揺れは収まった。十年前と同じ規模の地震を、十年前と同じ場所で体感しながらも、ツバメの心は悲鳴ひとつ上げなかった。

 ――やっぱり、大丈夫だった。

 ツバメは小さく胸をなでおろして、ふと照明に照らされた観客席に目をやった。最前列の端にある関係者席では、ナナオがそっとツバメ達に向かって手を振り、ミズホも手元で小さく親指を上げるサムズアップの動作をしていた。彼らと一緒に作り上げたこの時間が、ツバメにも誇らしかった。

 そのとき、隣のヒバリがくいくいと衣装の袖を引き、ツバメに視線で何かを伝えてくる。ヒバリが嬉しそうに見ている先の客席には、ツバメも見慣れた大柄なスーツ姿があった。柏崎かしわざきだ。彼はツバメと目が合ったことに気付くと、僅かに口元を緩ませ、控えめな頷きを送ってきた。

 と、その時。

 一度目の余震が、地下空間を襲った。

 再び足元を揺るがす衝撃に耐えながら、ツバメは柏崎がここに来てくれた喜びを噛み締めていた。同時に、今までの全力のパフォーマンスを彼に見られていたと思うと、何だか少し恥ずかしくなった。ナナオやミズホに見られても、別段、恥ずかしくはないのに。

 ……どうして?

 ツバメは心の中で小さく首をかしげた。いや、その答えは、おぼろげに分かっているような気もする。金沢ドミトリーでの定例握手会の時にも思ったことだ。

 自分に父親というものが生きていたら、きっと――。


「現代の精神医療では、一つや二つの要因ファクターくらいではフラッシュバックは起こらないよ」

 なぜか、ふいに、幼き日に聴いた医師の言葉が思い出された。


 二度目の余震が去ったことで、イベントのタイムテーブルは予定通りに動き出した。

 ツバメは色々な感傷を振りきって、チクサを照らすスポットライトの下へとそっと歩み出た。チクサがツバメと向き合い、優しい動きでマイクを差し出してくる。

 彼女の姿はどこまでも美しかった。眩いスポットライトを浴びて神々しく微笑むその姿は、あの日と同じ希望の女神。

 そう、あの日と、同じ――。

 刹那、予想していなかった余震の揺れが三たびシェルターを襲った。

 ツバメ達の足元が、ぐわりと上下動し、観客が僅かにざわめく。

 あの日と――

「……っ」

 あの日と、同じ――。

「ツバメちゃん?」

 ツバメはマイクを受け取るための手を伸ばせなかった。予定通りの動きをしないツバメに、チクサが観客にわからない程度の疑問の色を顔に浮かべて声をかけてくる。

 その声の響きも――

 その優しさも、暖かさも、あの日と、全く同じで――。

「あっ……ああぁぁ!」

 天が定めた大地の揺れをもってしても、垣間見た父親という存在の幻をもってしても、溶かすことのできなかった感情の氷河を。

 憧れのアイドルの、永劫の輝きが――最後の一手となって。

 溶かしていく。融解した氷の底から、よみがえる。

 封じられたはずの、あの日の感情が。


 ――繰り返す、シェルター内にて火災発生――

 ――あなた、この子だけでも!――

 ――隔壁作動。隔壁作動。隔壁作動――

 ――何してる! 早くしないと焼け死ぬぞ!――

 ――お願いします、この子を!――

 ――ツバメ、生きて――


「ああぁぁっ!」

 今日まではっきりと記憶にとどめていた、しかし感情の伴わない映像の連鎖に過ぎなかった、あの日の光景が――いま、走馬灯のようにツバメの脳裏を駆け巡った。本来覚えるべき感情を伴って。

 瞬間、ツバメの五感は、意識は、あの日の記憶に塗り潰された。

 炎に飲まれる地下空間。逃げ惑う人々の鬼気迫る表情。

 人々の悲鳴と怒号。鳴り響く警報。獣の如く唸りを上げる炎。

 人間の身体が焦げる臭い。

 口腔を侵掠する煤煙の味。

 母の手が離れる瞬間の、最後の温もり。

「――お母さん。お父さん」

 それが現実に発した声だったのか、幼き日に発した声だったのか、ツバメにはわからない。

 ただひとつ、わかることは。

 両親が目の前で焼け死ぬ姿を見て、辛くない筈がないということ。

 今までどうして知らずにいられたのだろう。人間として当たり前の、その感情を――。


「ツバメちゃん」

 誰かがわたしを呼んでいる。

「スワちゃん。スワちゃん」

 誰かがわたしの身体を揺さぶっている。

 誰かとは……誰?

 わたしは、いま、どこで何をしていたんだっけ――。


「スワちゃん!」

 親友の黄色い声を聴覚の片隅に捉え、ツバメの意識が現実に引き戻される。

 聴覚に次いで視覚が働きを取り戻した。膝を折ってステージに崩れ落ちていた自分の身体を、ヒバリが必死な表情で揺さぶっている。肩に両手をかけて自分の名を呼び続けるヒバリの瞳には、大粒の涙が溢れている。

「ひばりん?」

 目の前にいるのはヒバリ一人ではなかった。憧れの金山チクサがツバメの前に膝をつき、何度も安否を気遣う発言をしてくれていた。周りでは、北陸ミリオンの仲間達が、そして他支部のトップアイドル達が、心配そうな顔でツバメ達を取り巻いている。

 ――そうだ、ここは、新潟の地下シェルターで……。

 わたしは、大事な本番の最中だった。それなのに何をしているんだろう。

 ツバメはヒバリとチクサに頷いて、床に手をついてその場に立ち上が――

 ……あれ?

 立ち上がれ、と脳は身体に指令を出したはずなのに。

 ツバメの膝はがたがたと震え、まともに立てなかった。筋肉に力は伝わっているはずなのに、しっかりと床を踏みしめることができない。もう、地震の揺れも収まっているのに。

 視覚と聴覚だけはやたらとはっきりしていた。ツバメの目にする客席は静まり返っていた。関係者席のナナオやミズホの、輪島わじま総支配人の、客席の柏崎の、そして幾千人、幾万人の観客の目が、ツバメ一人に注がれている。

 そうだ、こんな醜態を晒している場合じゃない。しっかり立たないと。わたしは、北陸ミリオンの――

「独りじゃないよ」

 その時、そっと、ツバメの肩に手を添えてくる者があった。

 ヒバリが、にこっと笑ってツバメに寄り添い、その身体を支えてくれる。

「……ひばりん」

 彼女と頷きあった瞬間、力の入らなかった四肢に、ぴしりと芯が通った気がした。

 そうだ。独りじゃない。

 ここには大好きな相棒がいる。いつでも笑い合えるチームメイト達がいる。

 ――ひとりでは飛べない空でも、皆と一緒なら飛べる!

 ツバメは今度こそ自分の足で立ち上がっていた。しっかりとステージを踏みしめて。

 そして、ヒバリと片手を繋ぎあったまま、ツバメは再びチクサと向かいあう。伝説のアイドルは改めてマイクを差し出し、そっと言葉をかけてくれた。

「負けないで」

 あの日と同じ、暖かい言葉を。

「どんなに辛くても、下を向かないで」

「……前のめりに」

 ツバメはその言葉の続きを引き継いだ。十年の間、ずっと心で抱きしめてきた――色褪せるはずのない一字一句を。

「前のめりに走り抜けた先には、きっと希望があるから」

 ツバメはマイクを受け取り、しっかりと握りしめた。

 もう何も怖くはない。両親がいなくても、自分には仲間という名の希望がある。

 あの日の時計の針を止めたままにしておく必要はもうなかった。アナログの秒針の動く音が、チク、タク、と、胸の奥に響くような気がした。


 彼女の心の中で――

 止まっていた青春の時計が、いま再び動き出したのだ。


 ヒバリと二人、客席を向く。余震が去り、ツバメが自分を取り戻したことで、客席は再び照明が落とされて暗闇に戻っていた。

 満員のファンに惜しまれながら金山チクサがステージを後にし、舞台には再び現役世代だけが残される。

「……ここからは、北陸ミリオンの単独ステージです」

 ツバメは事前の打ち合わせ通りに述べた。次いで、神田アキバが自分の役割を思い出したように、同じくマイクを手にして、客席に向かって筋書き通りに話し始めた。

「わたし達は、今からそれぞれの劇場に戻ります。わたし達の公演への合流を選んでくださる皆様は、この地下シェルターからリニアビークルで各地の鉄道リニア駅へお越しになり、それから劇場まで……」

 アキバの説明はどうにも歯切れがよくなかった。それでもプロの矜持か、各地の劇場に特別席が用意されている旨を最後まで言い切り、彼女はマイクを下ろした。

 客席からざわざわと話し声が溢れる。当然のように席を立つ者、ここに残ることを決め込んでいる者、迷って仲間同士で相談している者……。観客の様子は様々なようだった。

 ここまできたら、ツバメ達にできるのは、信じることだけだ。

「皆さん。わたし達、北陸ミリオンのパフォーマンスはここからが本番です。最後まで見ないと、もったいないですよ?」

 最後のところは少し上目遣いを入れてみた。隣のヒバリがニヤリと笑い、繋いだままの手をぎゅっと握ってくる。

「……せいぜい、半分だと思ったんだけどな」

 ステージを去る間際、神田アキバがツバメの耳元に囁きかけてきた。

「二割もズレちゃった」

 少しだけ悔しそうに、ぺろっと小さく舌を出して、女王クイーンは他のトップアイドルを引き連れてツバメ達の前から歩み去っていく。

 客席に聴こえてもかまわない。ツバメは彼女達の背中に向かって、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「……でも、今度は、ひとりもお客さん取られませんから!」

「4800万年早いわよ」

 ひらひらと手を振って、各々の玉座へと帰ってゆくトップスター達の背中に、ツバメはいつか必ず追い抜いてやると固く誓った。

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