第16話 伝説のアイドル

 合衆国こちらのスタッフが勝手に手配した高級客室スペシャルスイート光学窓ミラーガラスの向こうには、抜けるような青空の下、見慣れたニューヨークシティの街並みが広がっている。今なお世界で十指に入る国際都市グローバルシティであるこの街の高層広告アッパーサイネージは、全地球の娯楽をくまなく散りばめた極彩色のコマーシャルに満ちており、寝ても覚めてもアイドル一辺倒の東京第一首都ファースト・キャピタル中京第二首都セカンド・キャピタルの景色とは一線を画す鮮やかさを放っていた。

 前津まえづチクサは大窓のそばに立ち、刻一刻と変わりゆく高層街のサイネージをぼんやりと眺めていた。大作映画の撮影が二日前に終わり、久々の休暇オフを与えられた彼女だったが、何度も訪れたこの街で今さら観光をする気分も起こらなかった。

 母国はいま深夜のはずだ。一日一度は愛する夫の声を聴いておきたかったが、こんな時間に通話ラインを掛けて彼を叩き起こすのも忍びない。彼女はひとまず部屋付きのヒューマノイドに紅茶を淹れてもらい、自分では分不相応としか思えないふかふかの高級ソファに身を沈めて、オムニビジョンから流れる昼のニュースに耳を傾けることにした。

 母国の番組もAIに命じれば観ることはできるが、彼女は敢えて、海外に滞在している間はその国のニュースを見て過ごすようにしていた。その国の人々のものの見方、考え方に多く触れることは、必ず何かの役に立つ――かつてそう教えてくれたのは、チクサより一足早く国際女優として巣立っていった元トップアイドルのさかえクリスだった。

 オムニビジョンに映った金髪の女性キャスターは、ちょうどチクサの母国の話を伝えていた。Niigataニイガタ Designatedディザイネイテッド CityシティIdolアイドル Residentalレジデンタル Areaエリアを再建するため、大学と芸能組織「オータム」の共同プロジェクトが動き出している――通訳機インタープリターを介さずともニュースの英語が聴き取れてしまう自分自身を思うにつけ、ずいぶん遠くに来てしまったものだな、という感慨は否めない。「ドミトリー」という言葉が英語圏では通じないことも、チクサは女優業で海外に出るようになって間もない頃に知っていた。

 こうなるとお決まりで、キャスターは男性のコメンテーターとアメリカンな仕草を交わしあいながら、チクサの母国の社会制度をあれやこれやと論評するのだった。『彼らは年頃の女の子を閉じ込めておく牢獄プリズンを作るのさ』『Yamatoヤマト-Nadeshikoナデシコ量産工場マスプロダクションってわけね』などという会話が今は交わされている。こうして外国の人々に好き勝手言われるのもチクサはもう慣れっこだった。我が国のアイドルがうがった見方をされていることは残念だったが、逐一それを不快に思うようでは海外で仕事はできない。

 それにしても、国に帰ったらどうしようか――。

 撮影と長距離移動の疲れが未だ抜けきらない身体をソファに投げ出したまま、チクサは自分と彼の今後のことを思った。

 三十二歳という自分達の年齢を考えると、子供を作るのにこれ以上遅くなっていいということはない。

 十年前、アイドルを卒業してすぐさま彼と結婚したチクサだったが、女優の道を邁進するためには、家庭を築くことはどうしても後回しになっていった。今が大事だから、と彼は優しく言い続けてくれたが、だからこそ、いつまでも彼を待たせるわけにはいかない。

 新婚以来、「いつかは必ず子供が欲しいです」とインタビューのたびに正直に答えてきたため、巷ではいつ彼女が母親になるのかという下世話な話題がいつまでもトレンドであり続けていた。今回の大作映画の撮影が終わったら、いよいよチクサは母国に戻って家庭作りに専念するのではないか――という噂もまことしやかに語られているようだ。

 それは極めて妥当な予測だった。チクサら自身、そうするのがいいかもね、とは何度も話しているのだから。

 でも、本当にそれでいいのだろうか。

 愛する彼との子供が欲しいのは正真正銘の本心だ。時機を遅らせれば遅らせるほど、それが困難になるであろうことも。

 だけど彼女は怖いのだった。一時的にとはいえ芸能活動を休止するのが。

 一度でも歩みを止めてしまったら、夢が覚めてしまうような気がして。


 チクサはふと思い立って、携帯端末を操作し、栄クリスのパーソナルラインが「応答可オンライン」になっているのを確認して、通話を発信してみた。かけがえのない盟友たちの中から最大のライバルを話相手に選んだのは、彼女のパーソナリティもさることながら、彼女がいま同じ国の空の下にいるという事情も大きかった。あらゆる通信が光の速さで地球上を駆けめぐる現代といえど、時差からだけは誰も逃れられない。

「Hi, チクサ。どうしたの、撮影終わったんだっけ」

「うん。今日からオフだよ」

「わたし、週末の夜ならフリーだけど、ご一緒する? 今どこにいるの」

 数ヶ月ぶりに聴くクリスの声は、相も変わらず玉のように弾んでいた。だが、普段通りのスケジュールなら、彼女はいま、ニューヨークから遥か四千キロを隔てたハリウッドの芸能大学の研究室ラボラトリーに居るはずだ。広大な合衆国の端と端では、ちょっと気軽に夕食を一緒するというわけにもいかない。

 現に、チクサがニューヨークのホテルに居ることを伝えると、クリスはあっさり週末の誘いを諦めてきた。

「それじゃ、何か悩みごとかな?」

 二つ歳上のクリスにお姉さん口調で言われると、ついついチクサは素直になって「うん」と言ってしまう。その途端、「もう、チクサったら」と永遠のライバルは僅かに声を張った。

「そういうときは通話ラインじゃなく目を見て言いなよって言ってるじゃない」

 瞬間、端末の表示がビデオ通話に切り替わり、研究室のスマートチェアに足を組んで座っているクリスの姿が映し出された。どうやら携帯端末ではなく卓上端末インターフェースから通話に応答していたらしい。チクサは慌ててソファの上で体勢を整え、端末に向かって微笑を作った。

「なぁに? 女優を続けるか子作りに専念するかって話?」

 言いたいことは全て見透かされている。かなわないな、と思いながら、チクサは「うん……」と静かに頷いた。

「クリスちゃんだったら、どうする?」

「そんなのわからないわよ。わたし、チクサじゃないもの」

 クリスの輝く瞳は画面越しに優しくチクサを見つめてくれていた。「わたしの恋の相手はいつまでもファンの皆さんです」などと宣言し、国際女優を経てハリウッドの客員教授となってからも独身を貫き続けるクリスの姿は、自分とは違った種類の幸せに満ちているように思えて、チクサにとってはいつまでも憧れの対象だった。

 クリス自身に言わせれば、それは「穢れた身体で幸せになる資格はないから」ということらしかったが――。

「チクサはチクサの幸せを追ったらいいじゃない?」

 具体的にどうしろとも言わないクリスの言葉は優しさの表れだと思った。もちろん、チクサもクリスに自分の道を決めてもらいたいわけではない。これは、誰かに話を聞いてほしいという甘えの通話ラインなのであり、クリスもそれを理解してくれているのに違いなかった。

「わたし、きっと怖いの。芸能活動をお休みしちゃったら、もう戻ってこられないような気がして……」

 チクサがそうこぼすと、クリスはそこで初めて目を丸くして、「えぇ!?」と意外そうな声を出した。

「そんなことで不安になってるの? 天下の金山チクサ様ともあろうお方が」

 クリスが敢えてチクサを旧姓で呼ぶのは、アイドル時代の彼女の功績を讃えるときのお決まりだ。

「だって、カスガちゃんも、一度離れたら復帰は難しいよって言ってたし……」

 チクサの脳裏には、何年も前に芸能界を離れ、平凡な経営者夫人に収まった親友の顔がありありと思い出された。最初は二人部屋、後に江坂えさかミクニを加えた三人部屋で青春時代の全てを一緒に過ごした親友は、今や二児の母となり、幸せそうに子育てに励んでいる。

「その子とあなたじゃ、立場が全然違うでしょ」

 クリスはさらりとした口調でカスガのことを切って捨てた。チクサはそんなことをなるべく意識したくはなかったが、しかし彼女の言いたいことは否が応でも理解できてしまう。

 親友をふもとに置き去りにして、チクサは山巓さんてんへ駆け上がってきたのだから。

「心配しなくても、何年女優を休もうと、何人子供を作ろうと、業界もファンもあなたを忘れたりしないわよ」

 そう、きっとクリスの言う通りなのだ、とチクサは思う。夫もことあるごとに同じことを言ってくれていた。

 それなのになぜ、歩みを止めることを自分はこんなに恐れるのだろう。

 身に余るほどの評価を受けながら、自分はまだ物足りないのだろうか。

 チクサがクリスの前で沈んだ顔を見せまいと作り笑いに努めたとき、こんこんという硬質なノックの音が彼女の鼓膜に響いた。それはホテルの部屋のドアではなく、ビデオ通話の画面の中から聴こえた音だった。

 クリスが「Yes?」と自然な英語で答え、スマートチェアごとくるりと振り返る。彼女の組み替えた足元で、真紅のピンヒールがチクサの網膜に鮮やかな残像を残した。

「Professor?」

 研究室ラボラトリーのドアから金髪碧眼の男子学生が顔を覗かせる。その表情はアメリカ人らしくない遠慮に満ちているようにチクサには見えた。

「It would be great if you could come to class sooner...(宜しいでしょうか、もう授業の時間なのですが……)」

「Don't worry about such a trifle thing, OK? I'm getting ready.(細かいことを気にしないの。すぐに行くから)」

 学生はもう何も言い返さず、「Yes, ma'am」とだけ答えて引き下がっていった。クリスと教え子たちの普段の関係が想像されて、チクサは自分のアンニュイな気持ちも忘れて思わず苦笑いしてしまった。

「ごめん、そういうことだから、わたし行くね」

「授業の時間くらい覚えてようよ。困った先生だなぁ」

「覚えてたけど無視してたの。待たされるのを覚えるのも芸能人の修業よ」

 画面の向こうでひらひらと手を振って、あくどい客員教授プロフェッサーはチクサにウインクを飛ばしてくる。

「自分を信じなさいね、チクサ。あなたはもう、『レナちゃん』以上のスターなんだから」

 通話を終える間際、クリスはチクサに向かってそんなことを言ってきた。

「……そんなわけないよ」

 ブラックアウトした端末の画面に向かってチクサが呟いた声は、盟友には届かなかった。


 それからどのくらい経っただろうか。

 柔らかいソファに身を預けたまま、チクサはしばし微睡まどろんでいた。

 なんだか不思議な夢を見ている気がした。

 チクサの前には数世紀前のアイドルが立っていた。緑色のサイリウムに照らされた満員の劇場で、彼女はそっとチクサにマイクを手渡してきた。ふっと微笑んで目の前から消えた彼女にかわり、チクサはそのマイクを握って自身の卒業ソングを歌っていた。曲名は「448年」。それは、伝説のアイドルの卒業と、チクサ自身の卒業までの間に流れた時間を意味していた。

 曲を歌い終えたとき、チクサの前には誰もいなかった。このマイクを託すべき相手が見当たらない。誰かに、未来の誰かに、これを手渡さなければならないのに――。


 りんりんりん、と、鈴の音のような人工音が、彼女をふわふわとした夢の世界から現実へ引き戻した。

 客室の呼出インターコムと同期した携帯端末が彼女を呼んでいる。ぱちぱちと目をしばたき、ちゃんと自分が起きていることを確認して、チクサは端末に向かって応答した。

 ホテルの女性スタッフが、英語でチクサへの来客を告げている。

「……visitorsお客さん? わたしに?」

 自分がこのホテルに居ることを知っている人間は限られているはずだ。芸能関係者か、あるいは……。

 端末の画面に映ったのは、東洋人らしき若い女性が一人と、女の子が二人だった。スタッフによれば、客人たちはチクサに大事なお願いがあって来たと言っているという。

favorお願い?」

 客室に通してよいか、とスタッフが尋ねてくるので、チクサはよく考えない内にSureはいと答えてしまった。


「アポイントもなく突然押しかけて申し訳ありません」

 レディススーツに身を包んだ若い女性は、チクサが部屋のドアを開けるなり、日本語でそう言ってお辞儀をしてきた。その後ろでは、茶髪と黒髪の女の子二人が、緊張を顔に浮かべて同じく頭を下げていた。

「『オータム』北陸ミリオン事業部の和倉ナナオと申します」

「……どうぞ、お入りください」

 チクサは営業スマイルで彼女らをスイートへと招き入れた。和倉ナナオと名乗った「オータム」の女性スタッフは、チクサの見たところ二十代後半のようだった。ということは、彼女は自分と同じ時期に国内のどこかのミリオンに居たことがあるはずだったが、残念ながらチクサの記憶に彼女の顔と名前は思い至らなかった。

「お紅茶でいいですか?」

「あっ、どうぞお構いなく」

 それほど長く母国を離れているわけではないのに、アメリカ人にはない遠慮の一言がチクサにはどこか懐かしく感じられた。

 ヒューマノイドが紅茶の用意を始めている間、チクサは来客たちを応接間へといざない、着席を勧めた。女の子二人はなおも緊張に表情を凍りつかせて立っている。

「あ、あの。わたし、北陸ミリオンの糸井いといツバメといいます」

「同じく、四十万しじまヒバリです。あの、えっと、ゴコーメイは、カネガネ」

 そんな二人の様子を見ていると自然に笑みがこぼれた。ふふっと笑顔を向けて、チクサは自己紹介を返す。

「はじめまして。チクサです。どうぞ座ってね」

 ナナオと二人がおずおずと着席するのを見届け、チクサも腰を下ろしたところで、ヒューマノイドが皆のぶんの紅茶を持ってきてくれた。

 来客者たちの様子を見ていると、どうも自分に用があるのは現役アイドル二人のほうで、ナナオは付き添いであるように思えた。どう声をかけたものか若干逡巡しつつ、チクサは三人の顔を見渡して「お願いっていうのは?」と誰にともなく尋ねた。

「……現地時間の十八日夜、新潟で地震が起こります」

 ナナオがまだどこか遠慮の混ざった声で述べた。どこまで自分が言うべきか迷っているような声色だった。

「わたし達は、新潟でドミトリーの再建プロジェクトを進めていまして……」

「……ええ。その件はちょうど、合衆国こっちのニュースでも見ました」

「あなたにお願いというのは、その、ですね……」

 ナナオは仕事の出来るビジネスパーソンという風情だったが、チクサに向けられた視線は緊張の色に満ち、声は遠慮に震えていた。神格化されすぎることを好まないチクサとしては、自分なんかの前でそんなにかしこまらなくてもいいのに、と思うのだが。

「チクサさん」

 言い淀むナナオの声を遮って、茶髪の女の子、糸井ツバメが声を発した。膝の上で両手をきゅっと握ったまま、ツバメはまっすぐな瞳で自分を見てくる。

 ……あれ?

 チクサはその瞳の輝きにどこかで見覚えがあるような気がした。

「お願いします。北陸ミリオンの一日限定メンバーになってください」

 震える声でそう言いきってから、ツバメは自分の発言が急に恥ずかしくなったようで、顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。まるで、青春恋愛ドラマの愛の告白のように。

「えっ?」

 彼女の発言にチクサは目を丸くして固まってしまった。おっと、女優がそんな顔を見せてはならない、と思い直し、チクサはすぐに控えめの営業スマイルを取り戻す。

「えっと……どういう意味かな?」

「……っ」

 チクサは優しい声でツバメに聞き返したつもりだったが、少女は伏し目がちのまま、続きの言葉を発せないようだった。そこで、隣に座っていた黒髪の女の子、四十万ヒバリが「あのっ」と裏返った声を出してくる。

「チクサさんに歌ってほしいんですっ。新潟のステージで」

「……わたしに?」

 ヒバリが、そして顔を上げたツバメが彼女の顔をじっと見つめてくる。その横でナナオが申し訳なさそうに会釈をした。

 どう答えたものか、とチクサは考える。

 彼女達の願い事が本気なのは表情を見ればわかった。だが……。

 なんだ、結局はそういう話か、と小さく失望している自分にチクサは気付いていた。

 ミリオンを卒業し、「オータム」の管理を離れてからというもの、金山チクサの名前を客寄せに使おうと考えて彼女に接触してくる者は枚挙にいとまがなかった。芸能マネージャーからも、その手の話は受けるべきではないと言われ続けてきたし、チクサ自身も自分がそんな目で見られるのは決して嬉しいことではなかった。

 女の子達の無垢な瞳に向かってあまり厳しいことを言いたくはないが、そういう頼みを全部受けていたら体がいくつあっても足りない。

「ごめんね、ツバメちゃん、ヒバリちゃん。わたし……」

「ダメですか」

 ツバメの声が緊張以外の何かに震えた。チクサの目の前で、彼女の目にみるみる涙が溜まっていく。あっ、とチクサが思ったときには、既にその涙は臨界点を超えてツバメの白い頬を伝っていた。

「待って、ツバメちゃん。泣かないで」

 チクサは思わずソファから身を乗り出してツバメに向かって手を伸ばす。ツバメは片手で涙をぬぐって、迷いのない目をチクサに向けてきた。

「チクサさんは、わたしの希望だったんです」

「希望……?」

 チクサの唇は無意識に彼女の言葉を繰り返していた。まだどこか幼さの残るツバメの瞳と正面から見つめ合ったとき、チクサの脳裏にひとつの光景が稲妻のように蘇った。

 そう、あれは十年前。新潟の被災地で――。

「ツバメちゃん。わたしとあなた、『はじめまして』じゃないよね」

 不思議な確信を抱いてチクサが言うと、ツバメは一瞬はっと目を見張った。

 その両目から、再び大粒の涙がこぼれる。

「……チクサさん。わたし、ずっと……あの時の言葉を……。あなたの言葉だけを頼りに……!」

 ツバメはいまや喋りながら泣きじゃくっていた。ヒバリが彼女の手をとって支え、ナナオが白いハンカチを彼女に差し出している。

 チクサはソファから立ち上がってツバメの前にまわり、自分を見上げてくる彼女の頭に、そっと自分の手を載せた。

 そうだ。ミリオン卒業を間近に控えた頃、新潟の大火災の慰問に降り立ったとき。両親を失って泣いていた少女の小さな頭を、自分はそっと撫でていた。自分の言葉で泣きやんでくれたその女の子は今――、十年の時を経てアイドルとなり、遠く海を越えてここまでやってきて、こうして自分と向き合っている。

「……大きくなったね。ツバメちゃん」

 十五歳になった彼女の頭をあの日と同じように撫でながら、チクサは自分の胸にも彼女と同じものがこみ上げてくるのを感じていた。

「チクサさん、お願い。スワちゃんの……この子の夢を叶えて」

 ツバメの隣でヒバリも懇願の視線を向けてきた。その瞳もまた水晶の涙に濡れていた。

「わたしからもお願いします。伝説のアイドルの輝きを、一夜だけ貸してください」

 ナナオがソファから立ち上がって深々と頭を下げてくる。ツバメが涙でぐしゃぐしゃになった顔でチクサを見据え、もう一度「チクサさん」と名前を呼んできた。

「……わたしなんて、そんなに大した存在じゃないよ。わたしの追い続けてきた人に比べたら、まだまだ全然……」

 三人に向かって述べるチクサの脳裏には、先程の通話でクリスに言われたばかりの一言がリフレインしていた。「レナちゃん以上のスター」……そんなわけがない。チクサはそう思っていた。だが。

 ツバメはチクサに澄んだ瞳を向けて、こう言うのだ。

「チクサさん。……あなたが『レナちゃん』以上の存在になったのかは、わたしにはわかりません。……でも、わたしは、あの日のあなたの瞳に導かれてここまで来ました。……わたしにとってチクサさんは、あなたにとっての『レナちゃん』と同じなんです」

 ――ああ。そうだったんだ。

 わたしが、あのマイクを渡すべき相手は――。

「ツバメちゃん」

 気付けばチクサは、ツバメの華奢な両手をそっと握り、彼女に向かって深く頷いていた。

 滲む視界のなかで、ツバメの表情が少しずつ笑顔に変わっていくのがわかる。

 新潟の街にドミトリーを再建するという大きな目標。あの日、被災地で泣いていた一人の少女が、自分の存在に導かれて立ち上がり、そんな大きなステージに挑もうとしている。

 チクサは胸を打たれていた。自分の光を映したツバメの瞳に、チクサ自身も光を感じていた。

 揺れ動いていた自分の心に、今、ひとつの光明が差したように思えた。


 チクサとて、自分ひとりで高みに上り詰めたと自惚れるつもりはない。

 母が夢を託してくれたから。父が自分を許してくれたから。

 義兄あにが知恵と力を貸してくれたから。義姉あねが体を張ってくれたから。

 そして――最愛の彼が、わたしに勇気をくれたから。

 それだけの支えがあったからこそ、自分は力量を遥かに超えた戦いの舞台に立ち、当時のトップスターと互角に火花を散らすことができた。

 ミリオンに復帰してからもそうだ。

 親友が変わらず自分を支えてくれたから。後輩が熱心にドラマに手を入れてくれたから。

 満員のスタジアムで戦ったライバルが、友として先輩として、自分を薫陶してくれたから。

 そして――古のアイドルが、いつまでも自分の心の中で光を放ち続けていてくれたから。

 多くの人の力が、自分をトップの座まで引き上げてくれた。分を超えた長い夢を見せてくれた。

 ……今度は、わたしの番なんだ。


「じゃあ――、三日後に」

 ツバメ達を笑顔で見送ってから、チクサはひとり客室に戻り、鮮やかなニューヨークシティの街並みを眺めていた。

「……ごめんね、ツルマくん。中京そっちに戻るのは予定より遅くなっちゃう。こっちから戻ったら、寄るところが出来たから」

 眠そうな声で通話ラインに応答してくれた夫は、チクサの言葉を聴いて、いいよいいよと優しく笑ってくれた。

 母国の夜明けと逆に夕焼けに染まっていく景色をぼんやりと見やり、夫とそのまま他愛もない言葉を交わし合うさなか、チクサはずっと抱いていた迷いが晴れたような清々しい気持ちを感じていた。

 人が何者であるのかは、人に何を与えて生きるかによって決まる。

 女優は人々に楽しみを。教師は教え子に未来を。

 妻は永遠の愛を。母親は無限の慈しみを。

 そして、ミリオンの若き天使達が人々に与えるもの――それは、希望。

 希望は絆だ。わたしが古のシンデレラから光を貰ったように、わたしの残光も誰かに引き継がれ、再び輝く。

 その光を次の誰かに手渡すために、今までの日々はあったのだ。

「こんなにチクサが楽しそうに喋るの、久しぶりに聴いた気がする」

「うん。……わたし、思い出したの」

 愛する彼の言葉にチクサは微笑んだ。

「思い出したって……なにを?」

「……ふふっ、ひみつ。だけど、とっても大事なこと」

 心の迷宮からやっと抜け出せたような気がしていた。

 彼女は気付いていた。女優業を休んで家庭に入る前に、ただひとつ、この世界でやり残したことが何だったのか。

 最近の自分はきっとその答えを探してさまよっていたのだろう。彼女の心は問うていたのだ。金山千草おまえは何者なのかと。


 ……その答えなら、ずっと前から決まっている。

 わたしは希望アイドルだ。

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