第14話 第一級災害警報

 この世に生を受けて五年が経った頃、糸井いといツバメは母親の腕の中で体感した。

 地震に備えて都市機能を停止させた地上の街の静けさを。大深度地下シェルターへ一斉避難を進める人々の騒々しい話し声と足音を。安全圏で繰り返される地震発生までのカウントダウンを。地上の数分の一の揺れと言われながら、それでも身体と五感を激しく揺さぶる震度七の大地震の衝撃を。

 そして――、人類の叡智が無事に天災をやり過ごし、大人たちが安堵の声を口にするなか、突如としてシェルター内に響き渡った新たな緊急警報を。

『シェルター内にて火災発生。繰り返す、シェルター内にて火災発生――』

『地上は延焼中です! 地上エレベーターは使わないでください!』

 自動音声と人の声の放送が入り乱れて響き渡り、幼いツバメの頭をかき乱す。母に抱えられ、数千人の人熱ひといきれの中でツバメの五感は揺れていた。

『B3ブロックからB9ブロックにいる方は至急、誘導に従って区域外へ避難を! ここは防火ウォールで隔離されます!』

『隔壁作動まで三十秒。二十九、二十八、二十七……』

 ツバメは今でも確かに覚えている。突如、視界が揺れ、床に叩きつけられそうになるところを母が必死に自分の腕で庇ってくれたのを。母が足をもつれさせて転倒したのだとツバメが気付いた時には、振り返った父の声、周囲の人々の怒号、防火隔壁の作動を告げる自動音声が、綯交ないまぜになってツバメの聴覚を覆い尽くしていた。

「壁が降りる! 早くこっちへ!」

「あなた――この子だけでも!」

『隔壁作動。隔壁作動。隔壁作動――』

「あんたら、何してる! 早くしないと焼け死ぬぞ!」

「もう火の手が!」

「お願いします、この子を!」

 ツバメが最後に目にした両親の姿――それは、幼い彼女を必死の形相で他の誰かの手に託し、降りる壁の向こうで迫った炎に飲まれていく最期だった。

「ツバメ――生きて」

 防火ウォールに遮られて姿が見えなくなる瞬間、母親の口がそう動いたようにツバメには見えた。


「今日からここがきみの家だよ」

 養護施設のスタッフの優しい声。暖かな日差しと仲間達の笑顔。

「アイドルにとって、時として天賦の才能よりも武器になるもの。それが確かなダンスの技術よ。みんなの歳から練習すれば、十三歳になる頃には一流になれるわ」

 ダンスの先生の厳しくも愛のある指導。育まれた絆と確かな自信。

「安心していいよ。きみがお父さん、お母さんを忘れるわけじゃない。僕たちが行う心の治療は、きみの辛い気持ちだけを取り除くものなんだ」

 心理療法の専門集団による充実した心のケア。感情を伴わないエピソードの蓄積へと変わった、生まれてから被災時までの記憶。

「ツバメちゃん、嬉しい知らせよ。新潟ドミトリー再建計画のメンバーのうち一人は、あなたに内定したわ」

 十五歳になって与えられた大きな使命。跳び上がるほどの喜びを胸中に抱いて、ナナオの告知に笑顔で応えたあの日――。


 ホテルの食堂カフェテリアへ向かう最中、棟内に突如鳴り響いた災害警報は、ツバメの脳裏に一瞬にしてそれらの記憶を去来させた。

『新潟拠点都市ディザイネイテッド・シティ市民の皆様は、落ち着いて続報をお待ち下さい。繰り返します。防災省より、新潟近海を震源とする大規模地震の発生が――』

 自動音声を鼓膜の片隅に捉えながら、ツバメはホテルの廊下に立ち尽くしてしまっていた。眼前ではナナオとヒバリが彼女に向かって振り返り、地震への恐れとは違った表情を浮かべて声をかけてくれている。

「ツバメちゃん?」

「スワちゃん、どうしたのー?」

 両親を亡くした悲しみは治療で封じられたはずなのに、この感覚は何だろう。まるで……まるで、ここに居てはいけないと誰かが告げているような、この感覚は――。

「大丈夫? ツバメちゃん」

 ナナオの呼ぶ声がツバメを正気へと立ち返らせた。視覚や聴覚が何ら遮断されていたわけではないのに、ツバメにはまるで、暗転していた舞台に突如ライトが灯されたかのように感じられた。

 二人に心配をかけてはいけない。そう思い直し、ツバメは努めて明るく答えた。

「大丈夫ですよ。ひばりんも、そんな顔しないで」

「ほんとにー? 今の警報で勉強の内容抜けちゃったんじゃないの?」

 ヒバリがツバメの腕をとってまとわりついてくるが、彼女の目はもう笑っていた。

「ツバメちゃん。辛かったら部屋で休む?」

 一方のナナオはまだ心配そうな顔をしている。いつのまにか、情報のリピートを終え、警報の放送は止まっていた。ゆったりとした自然音ナチュラルサウンドのBGMが戻った廊下で、ツバメはナナオに向かって小さく首を振った。

「ちょっとびっくりしちゃって。ちゃんと食欲あるから大丈夫ですよ」

 ナナオはまだ納得してくれていない表情だったが、ツバメはかまわず二人を追い抜くようにしてエレベーターに向かい出す。そうすることで自分が大丈夫なのを証明したかった。

 自分の過去を知る二人が心配してくれるのはもっともだが、こんなことに負けるほど自分が弱い子だとツバメ自身は思っていない。子供の頃にちゃんと心理療法も受けているのだし――。

「スワちゃん、ほんとに大丈夫ー? sinサインxエックスのマクローリン展開は?」

 ヒバリがぱたぱたと隣に追いつくやいなや、先程の数学の遠隔授業で覚え込まされたばかりの内容を問うてくる。

「えっと、xエックスマイナス、3の階乗ぶんのxエックス3乗プラス……」

 真面目に考えかけてしまったところで、ツバメはヒバリと顔を見合わせて互いにくすりと笑みを漏らした。

「ひばりんこそ覚えてないでしょ。cosコサインxエックスの4次導関数は?」

「あ、バカにしてるな? 4回微分だから元通りじゃん!」

 中学の内容くらい覚えてるよ、とヒバリが軽くツバメをこづいてくる。そんな二人の様子を見てか、ナナオもやっと安心した表情になってくれた。

 地震が来るのは警報発令から何日も後だ。避難指示が出るまでは、心配していても始まらない。

 エレベーターで上層階のカフェテリアへ上がるさなか、ツバメは携帯端末の画面に表示された災害予測の内容をちらりと見た。

 地震の規模はマグニチュード9ほど。発生は五日後の夜八時台。新潟拠点都市ディザイネイテッド・シティ中心部での震度は七程度になるという。それは奇しくも、十年前の地震と同程度の規模だった。

 もっとも、今の人類の技術なら、その程度の地震は軽く受け流せることをツバメはよく知っている。そう、地震だけならば――。

「わたし達は、一旦金沢に戻ることになるでしょうね」

 ナナオが二人に向かってそう告げてきたところで、エレベーターがカフェテリアに到着し、扉が開いた。

「えー、帰っちゃうの? わたし、新潟こっちに居たいなぁ」

 ヒバリが無邪気な声を出しながら、カフェテリア内に一番乗りで足を踏み入れる。

 災害警報の発令直後でも、カフェテリアは平常通りに営業していた。もっとも、「オータム」が建物ごと借り上げているこのホテルには、ツバメ達以外に利用客はいない。

「こんにちは。本日のランチにはジェノベーゼのパスタをご用意しております」

 ウェイターの男性は、警報のことなどまるで知らないというような体裁で頭を下げた。人件費のかかる人間のウェイターを配置しているのは、それなり以上のグレードのホテルの証だった。

 ナナオ、ヒバリと一緒に窓際のテーブルについてから、ツバメはウェイターの男性に尋ねてみた。

「あの、地震が来たらホテルもお休みになっちゃうんですか?」

「そうでございますね。今回の警報の規模でしたら、おそらくは地下シェルターへの一斉避難が指示されるでしょうから」

 男性はそれから遠慮がちにナナオに視線を向けたように見えた。ナナオは彼に会釈を返し、「こちらはご心配なく」と答えていた。


「あら。ミズホくんから」

 ツバメがヒバリと他愛もない話をしながら美味しいジェノベーゼに舌鼓を打っていたとき、ナナオがふと食事の手を止めて携帯端末の画面を見やった。テキストメッセージを受信したらしい。

「えっ、見せて見せてー」

 ヒバリがお行儀悪くナナオの端末に手を伸ばしている。ナナオはふっと笑って、ヒバリに取られるより先に画面の文字を読み上げてみせた。

「『地震発生時はどうする予定ですか。こちらは地下シェルターへ避難すると思います』――ですって」

「ミズホくん、相変わらず文章がカタいよぉ」

 ヒバリが頬をぷくっとさせている。ツバメはフォークを置いてから「ナナオさん宛だもん」と律儀に突っ込んであげた。

 そこでナナオの端末からもう一度音が鳴った。追加のメッセージが届いたようだ。

「『なお、今回は地下シェルターよりも他地方へ避難する人が多くなると考えられます』――? どういうことかしら」

「まだ直通ロードできてないよねえ?」

 ヒバリが頭の上にクエスチョンマークを浮かべているのは、果たしてボケのつもりなのか本気で言っているのか判断に困るところだ。

「……トラウマ、かも」

 ツバメは瞬間思いついたことをふと口にしてしまっていた。ナナオは、ああ、と納得した顔をしているが、ヒバリはまだきょとんとしたままだ。

「ひばりんだったら、自分の家族が死んじゃったところには避難したくないでしょ」

「……うーん、そうなの? まあ、ミズホくんが言うならそうなのかな」

 わたしの証言では何が不満か、とツバメはヒバリに向かってデコピンの真似をしてみせる。

「ここからだと、金沢に避難する人も結構多いかもしれないわね。わたし達も地震の日は金沢で待機でしょうし、何かイベントでもできたらいいんだけど……」

 ナナオが端末を手に何かを調べ始めてくれている。ミズホのメッセージひとつで、三人ともすっかり食事はお留守になってしまっていた。

「なーんか、『プロジェクト・トキ』の思惑とは真逆になっちゃうなあ」

 昨日決まったばかりのプロジェクト名をさっそく使いながら、ヒバリが口をとがらせている。

「何よ、ひばりん、真逆って?」

「だって、新潟ここに作る地下劇場を、他の街に地震が来たときの避難場所に使ってもらう計画でしょ? でも、反対に、ここの地震で人が他所へ逃げちゃうなんて。わたしなんだか悔しいなー」

 本気で悔しがっているようにも見えなかったが、ヒバリの言葉にツバメは思わず呆れ顔になってしまった。悔しいも何も、まだ新しいドミトリーは建設が始まってすらいないのに。

「今は仕方ないでしょ。まだ地下劇場なんて無いんだから」

「あっ!」

 ヒバリの突然上げた大声にツバメはどきりとした。ナナオも、カフェテリアのスタッフ達も驚いた顔でこちらを見ている。ヒバリはテーブルに両手をついて立ち上がり、頭の両サイドの黒髪をぴょこりと揺らして、心底楽しそうな顔で宣言した。

「それだよ! 地下劇場にしちゃえばいいんだよ!」

「な、なに?」

「ヒバリちゃん?」

 ツバメは何よりもまずナナオと目を見合わせてしまった。ヒバリの叫んだ言葉の意味が本気でわからなかったのだ。

「だからっ、だからねっ」

 動くお人形さんのくりくりとした瞳が、ツバメとナナオの目を交互に覗き込む。

「今回の避難の地下シェルターを、イベント会場にして、わたし達のライブやるの!」

「今回の……って、ヒバリちゃん、五日後の地震のことを言ってるの?」

「うん! だって、他の街へ逃げちゃう人がたくさんいるんでしょ? じゃあシェルターにだいぶ余裕空くじゃん? 逆に他所からイベント聴きに来てくれる人もいるよっ」

「……そんな無茶な」

 ツバメは思わずそう呟いてしまった。ヒバリの発想はあまりに斜め上のもののように思えた。

 一体どこの誰が、これから地震が起こるとわかっている土地に、好き好んでアイドルのライブなど聴きに来てくれるというのか。

 ――いや?

「あっ……そうか」

 数秒後、ツバメは口を開けたまま固まっている自分に気付いた。

 そうか。そうだ。わたし達がやろうとしているのは――

 新潟ドミトリー再興計画「プロジェクト・トキ」は、そもそも、そういうプランではないか。

「……それができる街にするんだものね」

 ナナオも細い目をかすかに見張ったまま、虚を突かれたような顔になって頷いていた。

 他の都市からの避難先として使ってもらうだけではなく、新潟ここで地震が発生した際にも、地下シェルターを劇場に変えて人々に笑顔を届ける。それが彼女らの思い描いた夢だったはずだ。

「ひばりん」

 ツバメがヒバリの名を呼ぶと、相棒は、あざとくない真っ直ぐな笑顔でツバメに笑いかけてくれた。

「ねっ、スワちゃん、やろうよ! 地震の日に直撃ライブ!」

「……ひばりんは、ほんとに……いつも無茶なんだから」

 言いながら、ツバメは鳥肌が立つような感動を隠せなかった。いつだって滅茶苦茶な、しかし前向きなヒバリの発想は、どこまでも自分に勇気を与えてくれる。

「ナナオさん、どうかな。ひばりんのプランは実現できる?」

「どうかしら……色んなところと調整が必要になるでしょ。でも、無理って言ってもやりたいのよね?」

 ナナオが二人の意思をまとめて問いかけてくる。ツバメはヒバリと小さく頷き合い、「うん」と答えた。その声は自然にヒバリと同調シンクロした。

「……あなた達のほうこそ、できるの? 地震までたった五日しかないのよ」

 ナナオの口調はどこか遊び心を交えて聴こえた。ツバメの眼前でヒバリが堂々と胸を張る。

「やるもん。ダンスはスワちゃんに教えてもらうもん」

「えっ。じゃあ、あざとさ……は教えてもらわなくていいや」

 ツバメが言うと、ヒバリはくすくすと笑った。

「さあ、続き食べなきゃ冷めちゃうよー」

 ヒバリが椅子に座り直してフォークを手にする。ツバメもそれにならって笑顔で食事を再開した。

 そんな中で、ナナオの細い目が、ツバメにだけそっと問いかけているように見えた。

「本当にできる?」と。

「両親を亡くした場所でライブなんてできるの?」と。

 でも、心配は要らない。

 ヒバリに勘付かれることすらないままに、ツバメは目線でナナオに「大丈夫」と答え返した。


 心配なんて、要らないはずなのだ。

 金沢にいた時だって何度も地震はあった。それでもこの十年、ツバメはトラウマの再発現象フラッシュバックのひとつも起こすことなく元気に生きている。

 そう、確か昔、自分のケアを担当してくれた専門医の一人は言っていた。

「現代の精神医療では、一つや二つの要因ファクターくらいではフラッシュバックは起こらないよ。この先、地震や火災、それに人の死を目にしたって、きみのトラウマが誘発されることはない。ほら、いま地震、火災、死という言葉を耳にしても、きみは何も感じなかっただろう?」

 幼いツバメが通院を終える間際の頃には、もっと直接的で実践的な心理訓練リハビリテーションも行われた。地震クエイク・体験装置シミュレーターのなかで拡張現実アグメンテッド・リアリティの炎に包まれたり、両親との思い出のアルバムと炎上する地下シェルターの映像を交互に見せられるなどしても、幼き日のツバメの心は悲鳴ひとつ上げなかった。

 大丈夫なはずなのだ。一つや二つの連想要因に負けるほど、自分の心は弱くはない。

 ツバメは確かにそう信じていた。

 ――それに、今のわたしには、心強い仲間がいる。

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