第13話 群衆避難シミュレーション

 季節はもう冬が近いが、大学構内のオープンテラスカフェは採光暖房と開放空調オープンヒーティングのおかげで今も快適な暖かさを保っている。

 三条はこのカフェの雰囲気を気に入っていた。彼が十年前まで身を置いていた東京第一首都ファースト・キャピタルの国立大学にさえ、これほど過ごしやすいカフェはなかった。

 学者たるもの、研究室に籠もっているばかりではなく、陽の光と外の空気を浴びて思索を巡らせる時間は必要だ。学生達にもそう奨励しているのだが、どうも最近の若者は一人でカフェを楽しむ時間を持ちたがらないというのが彼の小さな悩みの種だった。

 もっとも、三条はいま一人ではなかった。テーブルの向かいでは、和倉ナナオが湯気を上げる紅茶のカップを手元に置いて、ややかしこまった口調で述べている。

「……まず、48millionフォーティーエイトミリオンの国内十三支部の中でも、圧倒的な集客力を誇っているのは東京ミリオンです。東京第一首都ファースト・キャピタルの人口もさることながら、東京のファンは他の地方のグループにまで興味を示さないという人が多いので……」

 三条はテーブルの上に立てかけたノート型端末にちらりと目を落としつつ、彼女の説明に納得して頷きを返した。

 午前中のこの時間、教え子の前津ミズホは一般教養リベラルアーツの授業に出ている。ナナオの方も、アイドル二人が高校の遠隔授業を受けている時間だというので、それならば互いに子守りの必要がない時間を使って大人の話を進めてしまおうと三条は考えたのだった。

 彼女を自分の研究室に招かずオープンテラスに誘ったのは、単純にその方が会話の環境として快適だからというのもあるが、数年すこし前までアイドルだった女性を一対一で自室に招き入れるのは気が咎めるからという、ごく当たり前の感覚によるところも大きかった。

「ふむ……。逆に、東京以外に在住するファンは、その地域のグループを差し置いて東京ミリオンを『推す』ということが考えられるのですか」

 三条の問いに、ナナオは若干苦い表情を浮かべながら答えた。

「それは……大いにあると思います。東京ミリオンは何と言っても、各支部の上位メンバーの栄転先となる『本店』ですから」

 彼女の述べた「本店」という言葉には、現場にいる者ならではの複雑な感情が込められているように思えた。アイドル組織も決して一枚岩というわけではないのだろう。

 ナナオが三条の頷きを待って紅茶のカップを手に取ったので、三条も合わせて自分の喉を潤した。

 実を言うと、この程度の情報なら三条が自力で調べることも容易なのだが、専門外の話はネットワークで半端な知識をかじるよりも、有識者の口から直接聞いた方が良いというのが彼のポリシーだった。その世界に身を置いている者からじかに聞いてこそ、単なるデータの裏に秘められた様々な思惑や感情も見えてこようというものだ。

「和倉さん。東京ミリオン以外から全国ランキング一位が出たのは、二四五九ごじゅうく年のさかえクリス、六一年から六三年にかけての金山チクサ……それで現状最後なのでしたね」

「そうですね。それ以降の一位は、江戸川えどがわオトハ、神谷かみやカスミ、赤城あかぎカグラ、そして現女王クイーン神田かんだアキバ……全員が東京ミリオンのメンバーで占められています。『本店一強』の状況を覆せるほどのポテンシャルを持つ地方メンバーが出てきたとしても、多くは本店に移籍で引き抜かれてしまいますし」

「なるほど」

 中央集権とはよく言ったものだ、と三条は思う。地方支部が有力アイドルを育てたとしても、その手柄は結局東京に取られてしまうというわけだ。

「東京の次に集客力が強いのは、やはり中京ですか」

「はい。東京から大きく差を付けられてはいますが、数世紀にわたって不動の第二聖地であり続けているのが東海ミリオンです。次いで関西ミリオン、九州ミリオン、横浜ミリオン、北海ミリオンの順でしょうか」

「上位四グループまでは、我が国の首都の序列と一致しているわけですね」

 我が国の地方自治が都道府県制から都道州制に移行し、四大都市が正式に首都機能を与えられたのは二十三世紀半ばのことだ。おそらく、アイドルグループの序列と首都の序列は偶然の一致ではなく、当時の為政者はアイドル経済の強い順から首都を割り振ったのだろう。

 ともあれ、国内各グループ間でファンの集客力に大きな差があることは、改めて現場関係者の口から明らかになった。それが一人や二人の若手アイドルの努力で覆せるようなレベルのものではないことも。

「やはり、避難シミュレーションにはグループ間の人気格差を組み込むべきか……」

 三条が独り言のように呟いた一言に、ナナオは律儀に「ええ」と肯定の返事を返してきた。

 彼はナナオにも見えるようにノート型端末をテーブルの中心に置き、AIに指示してシミュレーションの画面を表示してみせた。ミズホが提出してきた新生・新潟ドミトリーと各都市直通ロードの青写真をもとに、最新のマルチエージェントモデルを組み込んだ群衆避難シミュレーションだ。もちろん、この端末上で動作させているのではなく、研究室の卓上端末インターフェースから画面を共有しているのだが。

「これは、ミズホ君のプランですね」

「彼ら三人のプランですよ」

 三条が口元に微かな笑みを浮かべてみせると、ナナオも明るい表情でそれに応じた。

「まず、仮にアイドルグループ間の集客力が全て同程度だとした場合……」

 ノートからの遠隔操作にインターフェースの高性能AIが応え、大規模演算が稼働する。中京第二首都セカンド・キャピタルに直下型地震が予測されたという想定で、避難行動を取る四百万人以上の市民一人ひとりの行動シミュレーションを示す無数の光点が画面上で動き始める。

 群衆避難行動の分析にも複数の手法があるが、アイドルの集客力などという従来の都市防災学にとって未知の領域の事象をパラメータに入れるのならば、マルチエージェントモデルによるシミュレーションがこの場合は妥当であると考えられた。単なる流体マクロモデルや粒子ミクロモデルと異なり、このモデルでは避難者一人ひとりの個別特性を考慮に入れたシミュレーションを描くことが可能だ。

「新潟ドミトリーが『防災娯楽都市』として十分に人口に膾炙かいしゃしているならば、中京第二首都セカンド・キャピタルの大地震に際して新潟への避難を選択する人々の流れはこうなります」

 三条の声に応じて、シミュレーションが新潟を中心とした画面に切り替わる。都市間直通ロードを通じ、超電導自動車リニアビークルを示す光点が新潟地下の巨大劇場シェルターへ次々と流入してくる。

「……結構、多くの人が新潟に避難してくるんですね」

 ナナオが顔を上げて素朴な感想を述べてきた。地震発生の瞬間までのシミュレーションが完了したとき、劇場の満席率は四十パーセント程度だった。

「そう思うでしょう。しかし、グループ間の集客力格差を組み込むと、果たしてどうなるか……」

 次の操作にはやや時間がかかった。三条がAIに指示したのは、国内十三グループのライブや握手会の動員客数、メンバーの人気投票順位、配信動画の再生件数、楽曲の売上高などの情報をネットワークから拾い、グループ単位での集客力を算出して、そこから弾き出した乱数をマルチエージェントのパラメータに反映するという作業だった。情報収集だけならコンマ数秒とかからないが、四百万人を超える中京第二首都セカンド・キャピタルの市民一人ひとりがどのアイドルグループにどの程度の熱意を寄せているかの仮想パラメータを設計し割り振るのは、研究機関レベルのAIをもってしてもそれなりの時間を要する。

「出ましたね」

 数秒待ってから動き出したシミュレーションは、先程のものとは大きく異なる結果を表示していた。

「……少ないですね。ここまで減るなんて……」

 ナナオが口元を片手で押さえている。無理もない。今度のシミュレーションでは、中京から新潟のアイドルの歌声を聴きに来てくれる人の数は、先程の十分の一にも満たなかったのだ。

 少なくとも、東海ミリオンのアイドル達の華々しい姿を日々目の当たりにしている人々は、ほとんど誰も北陸ミリオンの活動になど興味を示してくれないということだ。そして、地理的に新潟と比較的近い中京ですらこうなのだから、他地域でのシミュレーションなど回してみるまでもなさそうだった。

「結果は一目瞭然です、和倉さん。ここで、先日お尋ねしたことが生きてくるのです」

 やや表情を暗くしていたナナオに向かって、三条はなるべく優しい視線を作って告げた。

「『オータム』が、新潟ドミトリーの打上げローンチにソフトウェア面でどこまで協力してくれるのか。それにこのプロジェクトの成否が掛かっていると言ってよいでしょう」

「……その件の返答は、まだ上層部から来ていないんです」

 ナナオは申し訳なさそうな口調で答えた。三条が先日彼女に尋ねていたのは、ドミトリーの再建が現実に動き出すのに先駆けて、全国のアイドルファンに対する告知イベントを行うとした場合、「オータム」から人材アイドルの供出はどの程度得られるのかということだった。

 糸井いといツバメと四十万しじまヒバリの前で話せる内容ではないが、どこかのタイミングで人気アイドルの増援が得られない限り、どれほど立派なドミトリーを建造したところでこのプロジェクトは企画倒れに終わってしまう。

「THNグループとの連携の取り付けも含め、大学われわれの方でも出来る限りの手は尽くしますが……。最後に運命を握るのは、アイドルあなたがたですよ」

「ええ……。わたしも、ツバメちゃん達を傷付けない限りで、上に掛け合ってみます」

 ナナオの言葉は現場責任者の矜持に満ちていた。三条もまた、教え子とアイドル達が思い描いた絵空事を実現に持っていくため、力を尽くすつもりでいた。

 無名若手アイドルの奮闘劇という「オータム」の描いたシナリオの上で、子供達は全力で走り続けている。大人は大人の仕事をするだけだ。

 ナナオがアイドル達の待つホテルに戻らなければならない刻限が近づいていた。三条は最後にひとつ、彼女に質問を投げかけてみた。

「ちなみに、和倉さんは、前津君の身内のことはご存知なのですか」

「ええ……もちろん。ただ、彼自身がそれを伏せたがっているようなので、ツバメちゃん、ヒバリちゃんには一言も言っていません」

 それが正解だろうと三条も思った。彼は二人分の会計を済ませ、ナナオをエスコートしてカフェを出た。


 ナナオを見送って一旦研究室に戻り、午後の講義の準備をしながら、三条は前津ミズホの入学諮問を担当した時のことを思い返していた。

 ミズホの都市防災にかける思いは本物だったし、彼がこれまでに独学で習得してきたという基礎知識のレベルは、当時十四歳という若さながら平均的な学部生の水準を遥かに超えていた。それだけでも彼を自らのラボに招き入れる理由は十分だったのだが、合否と関係ない部分で三条が気に留めたのは、国民識別情報レジデント・レジスターネットが教えてくれた彼の近親関係だった。

 ミズホの叔父の配偶者は、芸能人にさほど興味のなかった三条ですら一時期その名を聞かない日は無かったほどのトップアイドルであったのだ。

 この時、既に北陸ミリオンから共同作業コラボレーションの打診を受けていた三条の頭の中で、ミズホのバックボーンがどこかで何かの役に立つのではないかという計算が働いた。もちろん、それを切り札カードとして使うか否かを決めるのは、指導教員の自分ではなく彼自身にほかならないのだが。

 それにしても――。

 午後の防災史の授業で用いるスライドをAIに用意させつつ、三条はここ数日のミズホの生き生きとした様子を思った。最初はアイドルの相手なんて嫌だと露骨に顔に書いてあったのに、最近の彼はなんだかんだで糸井ツバメや四十万ヒバリとの交流を楽しみ、彼女らの夢を叶えようと自らも目を輝かせている。

 それでいい、と三条は得心していた。飛び級でここまで来た彼にとって、同年代の若者と等身大の友情を通わせることは今後の人生の糧になるだろう。

「あの前津君が『防災娯楽都市』、とはね」

 教え子の提出してきたプランの題名を無意識に呟いて、三条は思わず楽しさに笑みがこぼれるのを抑えられなかった。

 我が国の都市防災学の歴史は実に二十一世紀にまで遡ることができる。三条が先程ナナオに見せたような、マルチエージェントモデルを用いた避難シミュレーションは、旧式コンピュータの時代には既にその概念の原型が提唱されていたという。

 そしてまた、文化要素ハイカルチャーとの融合を前面に出した都市設計アーバンデザインの手法も、二十一世紀の半ばから二十二世紀にかけて一定の完成を見た。

 テムズ川の河川眺望リバー・プロスペクトを中心に歴史的都市景観を生まれ変わらせたロンドン。文化隆盛と雇用安定化を狙った欧州地中海ユーロ・メディテラネ覇権都市構想で斜陽から立ち直ったマルセイユ。都心臨海部インナーハーバーの産業空間を環状インフラで囲み、文化芸術創造都市クリエイティブ・シティとして新生を果たした横浜。既成の市街地内の未利用空間を都市アーバン・再生前線リジェネレーション・基地ステーションとし、街そのものを歴史保全ツールに生まれ変わらせた台北タイペイ

 ミズホらが立ち上げようとしている「防災娯楽都市」のプロジェクトは、方向性としてはそれら無数の先例の最先端に位置するものになると思われた。

 もちろん、現時点ではまだ学部生と素人が描いた絵空事に過ぎず、実現に向けては多方面の見地からの修正が必要になるだろう。だが、アイドルの芸能を防災避難の要に結びつけるという着想は、まさしく国民総アイドル社会たる我が国でしか実現し得ないコンセプトであり、この共同作業コラボレーションの正鵠を得た立案内容であるといえた。教え子とアイドル達が、自分の助けを借りることなくその答えに辿り着いたことが、三条には無性に嬉しかったのだ。

 授業の準備を終えた三条が、昼食に向かおうとスマートチェアから立ち上がった、その時。

 彼の目の前のインターフェースが、突如、甲高い警報音を発した。

 天災はいつだって人間の都合を無視してやって来る。インターフェースが叫び出した数秒後には、大学構内に耳をつんざく緊急放送が流れ始めた。

『災害警報。災害警報。防災省より新潟近海を震源とする大規模地震の発生が予告されています。新潟拠点都市ディザイネイテッド・シティ市民の皆様は、落ち着いて続報をお待ち下さい。繰り返します――』

 それはシミュレーションではない。現実の世界で本当に発せられている警報だった。人類がこの数世紀で培ってきた知識と技術の粋を尽くした災害予測システムが、新潟近海の震源の活性化をいま確かに捉えたのだ。

「第一級災害警報……」

 三条が見下ろすインターフェースの画面には、放送に乗らない災害予測の内容が既に事細かに表示されていた。

 この街に十年ぶりの巨大地震が来る。五日と八時間と二十一分の後に――。

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