第8話 風評被害

 火曜日、ミズホが学生寮の自室で目を覚ますと、枕元の携帯端末は彼のために二つの知らせを表示してくれていた。一つは三条教授からのボイスメッセージ。一つは新潟にやってきたアイドル二人に関する最新のニュース記事。

 どちらを先に確認すべきか特に迷う必要はない。彼はベッドに寝そべったまま、耳で教授のメッセージを、目でニュースの内容を確認することにした。その程度のことはミズホにとって造作もない。そして奇しくも、二つの知らせが彼に伝えんとしているのは同じ事件にまつわる内容だった。

 曰く、「糸井いといツバメと四十万しじまヒバリのアイドルコンビが自動車メーカーの機密情報を動画配信で漏らして一大事に。新潟再興プロジェクトの関係者として、三条教授とミズホも至急、遠隔会議への出席を求められている」――という。

 知らせを見聞きしてミズホはベッドから飛び起き、大急ぎで身だしなみを整える羽目になった。何しろ、自動車メーカー・THNグループとの緊急会議まではあと一時間もないのだ。

「前津君、起きてるかい」

 部屋の外から教授の呼ぶ声が聞こえた。それなりに見栄えのする白シャツと黒スーツの揃いに着替えていたミズホは、「今出ます」と答え、携帯端末だけを持って部屋から飛び出した。

「お早うございます。ニュースは見ましたが、どういうことなんですか」

「お早う。君の場合は自分で目を通した方が早かろう。優先順位プライオリティはTHNの国際株価、昨夜の『オータム』公式チューブ、その他の順だ」

 教授はいつになくきびきびと物を言い、ミズホを先導して構内を歩き出した。いつもの悠然とした姿勢はポーズで、こっちの方が教授の本当の姿なのかもしれないな、とミズホは思った。

 教授の後をついて歩きながら、彼は言われた通りの順序で端末のAIに検索を命じた。まずは株式市場ストックマーケット。THNグループの株価は、二十四時間取引が行われる国際自律取引所は言わずもがな、生身の人間が道楽半分で株式を売買している国内の手動取引所においてさえ、前日の八十パーセントを切る取引価格にまで一夜で大暴落していた。AIの取引と人間の取引で同じ傾向が出たというのは、余程わかりやすい下げ材料があったことを意味する。そして、THNほどの大企業の株価が一気に下がったとなれば、影響を受ける銘柄の数は計り知れないだろう。

 自分がのんびりと長期保有している銘柄も打撃を受けているかもしれないな、とミズホは思ったが、今はそれを気にしている時ではない。

 次に「オータム」の公式動画だ。敢えて検索するまでもなく、四十万ヒバリのチャンネルで配信された昨夜の動画は国内上位の再生数に躍り出ていた。AIに解析させ、最も反響を呼んでいるらしい部分だけをピンポイントシークで再生してみる。

『わたし達、今日のお昼に、THNの新潟支社のおじさんと会ったんですよ』

 ヒバリのあざとい上目遣いと、その隣ですましたスマイルを浮かべるツバメの姿が画面に映し出された。

『なんていうか、責任を感じちゃいますよね。新潟からアイドルが居なくなったことで、あれだけ大きな会社さんでも撤退を迫られちゃうなんて。でも、大丈夫ですよ! この国の皆さん、安心してください。わたし達が頑張って、新潟をもう一度アイドルの街にします。そしたら撤退した会社だってこの街に戻ってきて――』

 ヒバリの語りをそこまで聴いたところで、気が滅入るような思いでミズホは再生を止めた。

 その他のニュースなど今さら見る必要もなかった。この配信を受けて世間がどのように騒ぎ、何がどうなって株価の暴落に繋がったのかは自分が天才でなくてもわかる。THNグループがどのタイミングで何を決めたのか、その情報をTHNがどのように扱おうとしたのか、そしてヒバリがどんな意図と理解に基づいてそれを全世界に拡散してしまったのかも……。

「どこまでバカなんだ、あの子達は」

 ミズホは教授の背中を追って歩きながら片手で頭を抱えていた。四十万ヒバリにも糸井ツバメにも悪気がないのはわかる。わかるからこそ吐き気がする。無能な味方は時として有能な敵よりも恐ろしい、とは誰が残した格言だったか。

 配信の時間帯を考えると、二人は和倉ナナオの目を離れたプライベートの時間に、ホテルの自室からでもこの動画を配信したのだろう。本来、アイドルの動画配信など、大人が逐一内容を見張るような性質のものではない。

 教授は何も言わないまま、ミズホを大学構内の会議室へといざなった。遠隔会議設備を備えたその部屋には、既にナナオに引率されてヒバリとツバメが顔を揃えていた。

「ミズホくん」

 顔を上げたヒバリの目は何度も泣き腫らしたように真っ赤になっていた。ツバメもその隣で沈んだ表情を浮かべている。ナナオは礼儀正しく教授とミズホに挨拶をしてきたが、さすがに彼女の顔にも憔悴の色が滲んでいた。

「まあ、皆さん、お掛けになって」

 教授が彼女らに席を示しながら、自身も着座する。ミズホも教授にならって隣の席に腰を下ろした。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。わたしの監督不行届です」

 ナナオは席につかないまま、教授に向かって深々と頭を下げていた。教授は、まあまあ、と手で彼女の勢いをとどめている。

 再度着席を促されてようやくナナオは椅子に腰を下ろし、アイドル二人もおずおずとした様子でそれに続いた。

 室内には重い空気が漂っている。まあ当然だろう、とミズホは思う。なぜ自分がこんな尻拭いの場に出なければならないのか、という不満もないわけではなかったが、教授の手前、それを顔に出すわけにもいかない。

 ヒバリが耐えきれない様子でまた涙をこぼしていた。ツバメが横から彼女の肩を抱いて慰めている。なるほど、この件における真の被害者は自分よりも糸井ツバメの方かもしれないな、とミズホは感じた。


 重々しい雰囲気を引きずったまま、定刻の十分前になった。THNグループの重役達が、機械のように正確にその時間を狙い済まして、ずらりと並んだ画面の向こうに現れた。一つの画面に一人の背広姿。当然、こちらの姿も一人一つのカメラを通じて向こうに遠隔中継されている。

「THNグループ総裁の豊田とよだです」

 中心の画面の中にいる人物が名乗り、それに続けて他の重役達が順に名を告げた。それぞれが自身の序列を完璧に心得たような、淀みない名乗りの連鎖は、まるで軍隊の点呼のように見えた。

「都市防災学部長の三条と申します」

 教授に続けてミズホが名乗り、ナナオが名乗り、ツバメが名乗って、最後にヒバリが涙声を必死に抑えながら名乗った。

「泣きたいほどの打撃を受けているのはこちらだとわかってるのか」

 端の方の画面に映った重役の一人が、眉間にこれでもかというほど皺を寄せてヒバリを睨みつけた。ビジネスパーソンにあるまじき子供じみたパフォーマンスだ、とミズホは思ったが、その威力はヒバリやツバメを縮み上がらせるには十分なようだった。

 中心の豊田という人物は何も喋らず泰然と構えている。その両横で、居並ぶ重役達が口々にアイドルに対する文句を飛ばしてきた。

「君達の軽率な配信で我々がどれほど迷惑していると思うんだ」

「不人気アイドルが話題を取るために企業の情報をリークするなど、前代未聞だ。言語道断だ」

「この責任をどう取るつもりかね? そこのスタッフ、何か言ったらどうなんだ!」

 重役の一人が突然ナナオを指名した。彼女にも「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と通り一遍の謝罪の言葉を即答することしかできない。これでは会議というより近代法以前の裁判ではないか、とミズホは感じた。

「大学のセンセイも無能なアイドルと組まされて災難ですな」

「そこの君はさっきから黙ってるが、事態の重大さがわかってるのかね」

 今度はミズホに重役の一人の矛先が向けられた。馬鹿の相手をするのは骨が折れそうだが、やむを得ない。

「理解しています。彼女らと共同作業コラボレーションする者として、僕も申し訳なく……」

 ミズホが如才なく並べようとしていた言葉は、別の重役の野次によって遮られた。

「まるで子供じゃないか。本当に大学生か?」

 これにはミズホもむっとしたが、まあ、何度も受けてきた類の侮りではある。彼が気にせず言葉を続けようとすると、そこでヒバリががたっと音を立てて椅子から立ち上がっていた。

「何よ。ミズホくんは、あなた達の何倍も頭いいんだからね!」

 瞳を涙で濡らしたままヒバリが叫ぶ。彼女が知り合ってほんの数日の自分をそんな風に弁護してくれることは感動的な展開だったが、この場では完全に逆効果だ。案の定、重役達は余計に顔をしかめただけだった。

「ふん。小娘風情が対等に口答えなど十年早いわ」

 自動車メーカーの重役になるには上品さを捨てる必要があるのだろうか。ミズホは無表情を保ったまま重役達の様子を品定めしていたが、曲がりなりにもエグゼクティブらしい気品を備えているのは総裁の豊田だけで、残りの連中はスーツを着ていなければ場末の下品な親爺のようにしか見えなかった。

「あの。ひばりんが……彼女が配信で言ったことは本気です」

 今度はツバメが声を張っていた。彼女の目には涙は光っておらず、かわりにムキになった怒りの炎が宿っているように見えた。

「新潟は必ずもう一度、アイドルの街になります。この街から撤退しなきゃよかったって皆さんにも後悔させてみせますから」

 ツバメの啖呵もまた本気の決意から出た言葉だとミズホには理解できたが、この状況でそんなことを宣言して何になるというのか。何なのだ、このアイドル二人の後先考えない傍若無人ぶりは――。

「はっ。クチバシの黄色い学生が一人と、無名アイドル二人で何ができる。栄クリスや金山チクサでも連れてこられるならともかく」

 重役の一人がツバメの宣言を一笑に付した。ミズホはそれを黙って聴いていた。

 金山チクサでも連れてこられるなら……か。やはり、東海地方を地盤とする自動車メーカーの人間にとって、アイドルと言えば今も昔も東海ミリオンが一番らしい。それならばミズホには、彼らに泡を吹かせる切り札カードがあるのだが、中学高校と隠しおおせてきた自分の近親関係をこんな下らない場で露わにする気は毛頭なかった。

 それにしても、どいつもこいつも腹が立つ発言ばかり並べてくれる。ミズホが教授の横顔をちらりと見やると、教授は「好きにしろ」と目で答えてきたように見えた。――それなら、もういいか。今度は自分が声を張る番だろう。

「アイドルは順位が全てじゃありません。彼女達の本気を舐めない方がいい」

 ミズホはアイドル二人を無名と見下した重役の顔をキッと見据え、鋭い口調で言い放ってやった。ツバメとヒバリが揃って目を見張り、驚きの表情を浮かべている。なんというか、後先考えない行動というのは案外気持ちのいいものだった。

「……なんとまあ、血気盛んな若者達だ」

 初めて豊田総裁が口を開いた。その口調は周りの有象無象どもとは違い、厳格な気品に満ちていた。

「元気のぶつけ合いはこのくらいにして、ビジネスの話をいたしましょう」

 重役達が途端に神妙な面持ちになり、豊田の話に傾聴する姿勢を一斉に取った。さすがに統率の取れた飼い犬どもだ。豊田の話し口調にはただならぬオーラがあり、こちらもしんと静まり返らざるを得ない。

「問題は、お二人の動画配信が当社の機密を漏洩し、当社が風評被害を被ったということ。重要なのはその一点のみであり、あなた方のプロジェクトの成否は我々の関知するところではありません」

 穏やかな語り口に多大な威圧感を込めて、豊田はそう述べた。数秒の間、誰も何も言い返すことができなかった。豊田は敵味方のすべてを黙らせるだけのオーラを放ち、会議室を支配していた。

「――ならば、その損失を補填すれば宜しいかな」

 突如、そこで会議室に新たな音声が響いた。アイドル達の隣の画面に新たに一人の男性が現れたのだ。でっぷりと肥えた身体を黒スーツに押し込めた男が、画面の中でどこか不敵な笑みをたたえている。

「先生!」

 ナナオが彼の顔を見て驚きの声を挙げた。アイドル二人も息を呑んでいる。ミズホはその男性の顔を知らなかったが、彼女らの反応を見ただけで、この豚のような体型の男がアイドル界において途方もない重要人物であることは理解できた。

「これはこれは、『オータム』のトップがわざわざお出ましとは」

 豊田の隣の画面に映る重役の一人が、突然の乱入者に対し、敬いとも侮りとも判断しがたい口調と表情を向けた。

 THNの重役達の顔色を全く意にも介さぬように、男性は野太い声で語り始める。

「市場に公開されている貴社株式の三十五パーセントは既に『オータム』が取得させて頂いた。我々が大量の買いを入れたことで、株価は昨日終値の1.5倍近くに上昇しているので後ほど確認されるが宜しい。ただし、我々はこんな紙屑を保有し続けるつもりはない。そちらの望む価格で自社株買いの対象にするがいい。さて、それとは別に、情報リークに関する賠償の件だが」

 息継ぎもまばらに喋り続ける男性は、既にその場の空気を完全に掌握していた。豊田総裁の存在感などまるで問題にもならない。他の重役達はもちろん、豊田も動揺を隠せない表情で、黙って彼の話を聞き続けることしかできなくなっていた。

「貴社北陸支社の年間運営予算のきっかり十年分、つまり我々が新潟ドミトリーの閉鎖を決めてから今までに貴社がこの街につぎ込んだ金の全てを耳を揃えて補填しよう。我々にとっては被災地の募金箱に小銭を放り込む程度の出費でしかない。それで不満はおありかな」

 しいん、と会議室が静まり返った。誰も何も言えない空気の中、男性は画面越しに豊田の目をじっと見て、再度「不満がおありかな」と繰り返した。

「……ございません。ご采配に感謝致します」

 国内最大級の営利企業のトップに君臨する総裁は、アイドル立国たるこの国の王に向かって、静かにこうべを垂れることしかできなかった。

「さすが、豊田総裁は話のわかるお方だ。では、この会議はこれにてお開きで宜しいですかな。現役アイドルの貴重な青春を一企業の戯言でこれ以上拘束されてはたまらない」

 元々迷惑をかけたのはアイドルの方ではないか、などと言い返せる者がこの場に居るはずもなかった。画面越しにTHN重役達の顔をぐるりと睥睨し、睨みをきかせる太った男性の目は、この国を支配しているものが何なのかを臣下の者どもに念押ししているかのようだった。

「『小娘風情が対等に口答えなど十年早い』……か」

 男性がぼそりと呟くと、先程その言葉を発した重役の一人がびくりと肩を震え上がらせた。

「私も決して聖人君子ではないのでな。敢えて同じ土俵でひとこと言い返しておくが」

 がたがたと震える当の重役から、他の重役達へ、そして豊田へと順に視線を送り、男性は最後ににやりと背筋の凍るような笑みを浮かべて言い放った。

「車屋風情が48millionフォーティーエイトミリオンに噛み付くなど、4800万年早い」

 男性が通信から消えたあと、車屋達はばつの悪い顔を浮かべ、豊田が「プロジェクトの健闘を祈ります」と歯切れ悪く言うのを合図に次々と画面から失せていった。

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