第5話 三人の夢
どんなに良い日でも悪い日でも、いつも通りの朝がやってくる――というのが前津ミズホの信条だった。しかし、それにしても、今朝は十六年近い彼の人生のなかで最も憂鬱な目覚めだった。
寮の自室でいつものように規則正しい時間に目覚め、身支度を整えて
災害に負けない街を作る。幼少期からの大きな夢を叶えるために入学したこの大学で、まさか自分が最初に携わる学術プロジェクトが
極限まで生気の失せた目で彼が
「おっはようございまーす、ミズホくん!」
黒髪を頭の両横に垂らしたほうのアイドルが、蜂蜜を喉に塗りたくったような声を出して彼を迎える。
「はじめまして。北陸ミリオンの
茶髪を丁寧に編み込んだ長身のアイドルが、精一杯の礼節を取り繕ったようなすました声で頭を下げる。
直後、あざとい子ってなによ、とあざとい子のほうが相方に小突きを入れるあたりから、ミズホは完全に目の前の光景と自分の思考を切り離し始めていた。
「わたしのことは、ひばりんって呼んでね! カタカナじゃなくて平仮名だからね! ツバメちゃんのことはスワローだからスワちゃんって呼んであげて」
「ちょっと、ひばりん、この人にまでそのニックネームで通すの? わたしちょっと恥ずかしいよ」
やかましい聴覚情報を頭の隅に追いやりながら、悪夢なら覚めてくれ、とミズホは思った。せめてこっちが心の
だが、二人のアイドルの後ろにマネージャーらしき妙齢の女性が同道しており、さらにその隣には大恩ある三条教授が控えているとあっては、ミズホが己の年齢に甘えてガキっぽく拒絶の姿勢を示してみるわけにもいかなさそうだった。
「はじめまして。都市防災学部一年の前津ミズホと申します。プロジェクト遂行のため全力を尽くします」
多少棒読みに聴こえるのは承知の上で、ミズホは二人に向かって努めて慇懃無礼に自己紹介をしてみせた。作り笑いをするまでにはさすがに値しない。
二人のアイドルがそれぞれに満面の笑顔を作ってミズホに返礼する中、同行の女性が端正な目をキツネのように細めて大人の会釈をしてくるのが印象的だった。
三条教授はミズホとアイドル達の初顔合わせを見届けると、仲良くしなさいね、とだけ言い残して早々にカフェテリアから出て行った。もとより、教授が関わっているプロジェクトである以上、アイドル達と仲良くしないという選択肢はミズホにはないのだ。
教授を見送った後、ミズホは渋々、といっても渋々さが顔に出ないように取り繕いながら、三人と一緒の席についた。このカフェテリアはAIに何も言わなければ自動的に日替わりの朝食メニューが出てくる仕組みだ。
ミズホらの周囲では、アイドル不在都市の男子学生達が二人の若い女の子の存在に目を奪われ、露骨に視線や携帯端末の
女性の氏名は
「誤解しないでね。プロジェクトの中心はあくまで、あなたと、この二人です」
と、ナナオは優しく落ち着いた口調でミズホに言ってきた。
「わたしの仕事は、アイドルがドミトリー外で男子学生と
堅苦しくも穏やかなナナオの喋り方は、ミズホにはアイドル二人の騒々しい自己紹介よりもよほど好ましいものだった。ミズホは頷き、「邪魔なんてとんでもないですよ」と彼女に述べた。
ちょうどそこでヒューマノイドが四人分の食事を運んできた。今日のメニューは白米に焼鮭のスタンダードな和朝食だった。
「わっ、すごーい! ご飯がつやつやしてるよ。ミズホくん、これってコシヒカリ?」
あざとい子のほう、四十万ヒバリが両目をきらきらさせながらミズホの顔を覗き込んでくるので、彼は仕方なく、そうだよ、と返事をした。
すごいねー、とヒバリは隣に座る糸井ツバメと箸を片手に笑いあっている。
今は全国どこの自律農場でも、魚沼産コシヒカリと遺伝子レベルで同質の米を生産できるのだが、それでも新潟といえば高級米というイメージは数世紀前から変わっていない。
「じゃ、あとは若い三人でご歓談くださいな」
ナナオはまたキツネのように目を細めて微笑し、上品な所作で食事に集中してしまった。すると、一応それまでは発言ペースを抑えていたつもりらしい四十万ヒバリが、水を得た魚のようにミズホに視線を向けて喋り始めた。
「ミズホくんって、飛び級なんでしょ? すごいよねえ。わたし達は今高校一年なんだけど、
「教えないよ」
ヒバリが次に何を言い出すつもりだったかを瞬時に察して、ミズホはぴしりと出鼻をくじいてやった。それでもめげずに彼女は喋り続けてくる。
「ミズホくんみたいな天才少年と一緒にいたら、わたし達もそれだけで頭良くなっちゃいそう」
「ちょっと、ひばりん。いきなり失礼だよ。それよりもっとちゃんと自己紹介しなきゃ」
糸井ツバメは焦ったような顔でヒバリとミズホを交互に見ていた。どうやら彼女のほうが少しは常識があるらしい……というのは偏差値の低い人間が抱くであろう感想であって、ミズホが深読みしたのは、彼女のほうが芸能人としてのキャラクターの押し出しが下手なのだろうな、ということだった。
こうして向き合ってみると、その快活な笑顔にもどこか自然さがない。緊張なのか、やる気が空回りしているのか、「喜」という感情の定義だけを与えられたAIが意味もわからないままそれを振りかざしているかのような笑顔だった。これなら、四十万ヒバリのあざとい作り笑顔の方がよほど人間らしい……というと言いすぎだろうか。
そのツバメが、茶碗と箸を一旦トレイに置いて、ちらりとミズホに目礼してきた。
「あの、改めて、わたし北陸ミリオンの糸井ツバメっていいます。えっと、わたしとひばりんが所属してるのは、金沢ブロックって言って――」
「知ってる。北陸ミリオン金沢ブロック第15チーム所属の糸井ツバメさん。特定芸能人管理番号H-216-199-115。人気投票最高順位は22,152位。特技はダンスパフォーマンス」
ミズホが味噌汁の椀を手にしたまますらすらと述べてやると、ツバメもその隣のヒバリも、そしてナナオまでもが、ぽかんとした目を彼に向けた。
「そちらの四十万ヒバリさんは、特定芸能人管理番号H-216-197-823。人気投票最高順位は4,156位。動画配信でずいぶんファンを掴んでるらしいね」
「な、なになに!? ミズホくんって、ひょっとしてわたし達の大ファン!?」
四十万ヒバリが目を輝かせてそういう台詞を吐いてくることは予測済みだったので、ミズホは直ちに首を横に振り、ビジネスライクな口調を意識して答えた。
「相手のことくらい調べるさ。
ヒバリははーっと憧れのような溜息をついており、ツバメはまだひたすらに目を丸くしていた。そこでナナオが、こらえきれなくなったように吹き出し、「君達、いいトリオになれるわ」とミズホには嬉しくない講評を述べてきた。
「ねえねえ、ミズホくんって円周率とか全部暗記してたりするの?」
と、ヒバリがそれこそ永遠に割り切れなさそうな質問を向けてきたので、ミズホは「遊びで百桁だけね」と軽くあしらってやった。
円周率を計算するプロジェクトは、確か一世紀ほど前、小数点以下一
意味のないことは暗記しないのが頭を有効に使うコツだ、というのがミズホの父の教えだった。今なお人類史で十指に入る科学者といわれる二十世紀のアインシュタイン博士は、電話帳があれば必要ないと言って自宅の電話番号を暗記していなかったという。
ミズホがアイドル二人の管理番号や最高順位を頭に入れておくことにしたのは、それを知っていることで、アイドル組織内における二人の立ち位置の理解や、ひいては今後の人生でもしかしたら関わるかもしれない別のアイドルとの比較が容易になると考えたからだった。
……いや、表立って認めたくはないが、実際はもっと単純な話で、ミズホは自分の頭脳が優れていることを、そうでない相手にもわかりやすい形で示しておきたかったのだ。きっとナナオにはそれを見透かされているのだろうとミズホはわかっていたが、ひとまず、同い年の二人は見事に彼の奸計に嵌まってくれたようなので、成果は上々と思うことにした。
「わたしもミズホくんって呼んでいい?」
と出し抜けに問うてきたのは茶髪のツバメのほうだった。ヒバリからの呼称をなし崩し的に容認している手前、二人の扱いに差を付ける意味もないので、ミズホは黙って頷いた。
「ミズホくんの夢は何なの?」
認可された呼び方を早速使い、ツバメはそう尋ねてきた。彼の箸を持つ手がぴたりと止まった。
ミズホの夢。子供の頃から周りに宣言し続けてきた目標。三条教授との面接の場で堂々と述べた、彼がこの大学に来た目的。
いつもなら誰にでも軽やかに宣言できるはずのそれが、なぜか、彼女らの前で口にするには、途方もなく気恥ずかしいものであるかのようにミズホには思えた。
ミズホにはそんな自分の心理の理由がわからなかった。まさか、あの父の血を受け継ぐ秀才の自分が、こんな同い年のアイドル二人にペースを乱されている……?
「そんなの決まってるじゃん。新潟をもう一度ナイスでグレートな街にすることでしょ? ね、ミズホくん」
ヒバリが顔の両サイドの髪をぴょこっと揺らし、下手な英語でミズホの意思を代弁するような真似をした。ツバメが横から、「わたしはミズホくんに聞いてるんだよ」と律儀に突っ込みを入れている。
そうだ。そんなチープな表現で自分の夢を語られてなるものか。
クールを気取ろうとしていたミズホの心に、この時、初めて微かな火がついた。
「ここを、
母譲りの発音でミズホが述べると、その意味を理解したのかどうかは知らないが、二人はふふっと素直な笑みを向けてきた。
「できるよ。スワちゃんとひばりんとミズホくんの最強トリオなら」
と、あざとい黒髪が無根拠に断言する。
「わたし達の力を合わせて、新潟を素敵な街にしようね」
と、明るい茶髪が朗らかに笑いかける。
不思議と悪い気はしなかった。アイドルと馴れ合うのは本意ではないが、少しこのプロジェクトに本気を出してみてもいいかな、とミズホは本心から思い始めていた。ナナオはそんな若者三人の様子を見て、もともと細い目をさらに細めて笑っていた。
この瞬間、彼らの夢は一つになった――などと、この女性がシナリオライターならそんなト書きをここで書くのかもしれないな、とミズホは思った。
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