第2話 都市防災学部

 前津まえづミズホが都市防災学を志したのは、十年前のあの日、いつも自信満々だった父が初めて母と彼の前で弱音を吐いていた姿を見てからだった。

「俺達は馬鹿だ。どんなに技術を極めても、結局、何も救えない!」

 まだ五歳になったばかりのミズホが母の陰に隠れて怯える前で、父は大人気なくデスクを叩いて声を張っていた。オムニビジョンで連日報じられる、炎を上げる都市の光景と、悲愴な顔で現地の人々にマイクを向けるインタビュアーの姿を見ていると、幼い彼の頭でも、今この国に途方もない事態が起きていることだけは理解できた。

 普段から天才を自称していた父が、焼け出された人々の訃報に接するたびに、俺達は馬鹿だ、俺達は馬鹿だと繰り返すのはミズホの胸にも痛々しかった。何が馬鹿なのかと拙い語彙でミズホが尋ねたら、父は彼に伝わるように言葉を選びながら、これはヒューマンエラーなんだ、と説明してくれた。

「ヒューマンエラー? 人間の誤り?」

 幼稚園キンダーガーデンで簡単な英語を習い、また英語教師の母からも手ほどきを受けていたミズホは、その横文字をかろうじて理解することができた。

「『誤り』というより『過ち』さ。地震予知も防潮ウォールも地下シェルターも、技術的には完璧だった。それでも俺達は取りこぼした。忘れてたんだ。人間は必ずミスをするという事実を」

 父がこの頃しきりに使っていた「俺達」という言葉が、自身を含む身近な集まりという一般的な意味ではなく「人類」を表していたことを悟ったのは、ミズホがもう少し大きくなってからだった。

 ミズホの父は、火災に飲まれた街の防災責任者でも何でもなく、そこから遠く離れた中京第二首都セカンド・キャピタルの都庁で通信インフラの開発に携わる技術者に過ぎなかった。北陸の大地で起きた大災害にも、それによって失われた多くの命にも、彼は何の義務も責任も負うべき立場ではなかった。それでも父は、まるで自分が人類の科学技術の番人であるかのように、来る日も来る日も、人間が犯した幾十年か幾百年かに一度の過ちについて深く思い悩んでいる様子だった。

「僕が作るよ」

 小学校に上がりもしない内のある日、ミズホは父の背中に向かってそっとそう囁きかけた。

「火事で燃えない街を、僕が作る」

 都市工学について子供向けに書かれた紙の図鑑を片手に、ミズホが自分の将来について高々と宣言してみせると、父はやっと不敵な笑みを取り戻して彼の小さな身体を抱き上げてくれた。

「さすが、この天才の息子だ」

 その日から、ミズホは都市防災を学べる大学に入るための努力を惜しまなかった。


 しかし、中学高校と飛び級で進み、十五歳の秋に晴れて大学入学資格を得たミズホが、復興著しい新潟拠点都市ディザイネイテッド・シティの国立大学都市防災学部への入学を選んだのには、もうひとつ別の理由があった。

「ミズホって頭いいんだか悪いんだかわからねえよな」

 とは、級友の一人が旅立つ彼に向けた評である。しかしミズホ自身としては、自分は完璧に合理的な行動をとっているつもりしかなかった。たかだかアイドルの居ない街への進学を決めた程度で、秀才以外の何物でもないはずの自分のプロフィールに「頭がいいのか悪いのかわからない」という不名誉な形容を付け加えられてはたまらない。

「ドミトリーが無いってことは、握手会もライブも何も無いんだぜ。お前、貴重な青春の数年間をアイドルと会わずに過ごすつもりかよ」

 にやにやしながら肩に腕を絡めてくる級友に、ミズホはどうせもう会うこともないのだからと、冷たく乾いた視線を向けてやった。

「……アイドルなら、飽きるほど見てきたよ」

 腕を振り払って歩き出すミズホの横顔を、級友はぽかんと間抜けな表情で見返してきただけだった。

 ミズホの叔母、つまり叔父の配偶者は、かつてこの国を揺るがすほどの人気を誇ったトップアイドルだった。もちろん、ミズホはそんなことを中学や高校の級友達に一切話してはいない。会わせろなどと言われるのは論外だし、羨望の視線を向けられるだけでも冗談ではなかった。

 叔母が東海ミリオンのツートップの一角と呼ばれるほどのアイドルだったことで、一種の七光というべきか、ミズホの元にも小さい頃から男子アイドルのプロダクションからの誘いが絶えることがなかった。自分は芸能活動になど興味がないと再三言い返してきたのだが、スカウトマン達はあの手この手で「伝説のアイドルの甥っ子」を芸能界に引っ張り出そうと必死だった。

 アイドルという存在に散々うんざりさせられて育ってきたミズホにとって、この国の主要都市で唯一アイドルが居ない新潟は、まさに理想郷ユートピアと呼べる土地だったのだ。

 そのはずだったのだが――。


教授せんせい。どうして僕の最初のプロジェクトがアイドル劇場の再建なんですか」

 ラボでのんびりと紅茶を啜っていた三条さんじょう教授は、不満を抑えきれず噛み付いてしまったミズホに対し、ゆっくりとした動作で手のひらを突き出して言った。

「ここを世界最新の防災都市にするための第一歩だよ。やはり、なんといっても、この国はアイドルが居ないと始まらん」

「しかし、その……。僕は都市防災を学ぶためにこの学部に来たのであって、アイドルの世話をするために来たわけでは」

「まあ、まあ、若者がそう堅い話し方をするもんじゃないよ」

 教授は紅茶のカップをソーサーの上に戻すと、スマートチェアから立ち上がり、視線誘導で大窓のブラインドを全開にした。

 ガラス越しに広がる青空の下には、無数の高層ビルディングが立ち並ぶ新潟の街が見える。リニア駅の地上出口から高層歩道が市街地のあちこちに伸び、無人自動車が高層道路を縦横無尽に行き交う賑やかな街並みは、外国の人間が見たらとても十年前に激甚災害に見舞われた土地だとは信じられないだろう。

 ただ、ここが普通の都市と違うのは、街区を貫く白亜の巨壁――アイドル居住区であるドミトリーの壁がどこにも見当たらないことだった。それこそが、この国の人間ならば誰もがひと目で理解できる、この街に残る大災害の爪痕だった。国民総アイドル社会といわれるこの国にあって、ただひとつのアイドル不在都市、それが現在の新潟拠点都市ディザイネイテッド・シティだった。

「この街からアイドルが消えてもう十年が経った。『オータム』としては、一刻も早くここにドミトリーを再建し、他と変わらぬ都市に戻したいんだそうだ」

 ミズホが幼い頃から読み漁ってきた何冊もの電網書籍の著者である三条教授は、その学術的功績からは想像もつかなかった悠長な話し方で、穏やかに彼を諭すのだった。

「この大学に私が都市防災学部を立ち上げた時から、『オータム』の北陸ミリオン事業部は我々の最大のスポンサーだった。大家の頼みを店子がつっぱねるわけにもいかんだろう」

 飛び級までして三条教授のラボに入ったミズホとしては、どうして自分が関わらなければならないのか、とはとても言えなかった。ともすれば嘲笑や偏見の目を向けられることもある年少者のミズホに対して、教授は入学諮問の段階から他の学生と同じように接し、彼の能力と熱意を公平に審査してくれたのだ。

「……わかりました。それで僕は何をしたらいいんでしょう」

 うん、と教授は頷いて、デスクの卓上端末インターフェースのモニターを回し、ミズホの前に何かの画面を表示してくれた。そこには二人の若い女の子のプロフィール画像が映し出されていた。

 この国の国籍を持つ若い女の子。つまり、ミズホが苦手とする、そしてこれから否が応でも付き合わなければならない、アイドルという人種だ。

「新潟ドミトリーの再建に向け、北陸ミリオンの金沢ブロックから二人のアイドルが送り込まれてくるそうだ。二人ともアイドル歴四年目に入ったばかりの高校一年生。前津君、きみは学年はともかく年齢は彼女らと同い年だろう」

 父譲りの知能指数の高さを自負するミズホには、そこまで聞いただけで教授の言いたいことがわかってしまった。教授もまた、ミズホがその先を察したということを察したようで、少し意地悪げな笑みを口元に浮かべながら大きく頷いてきた。

「……面倒を見ろってことですか」

「さあ、わからんよ。どちらが面倒を見てもらう立場になるのかは」

 教授はくっくっと小気味よく笑った。

 こんなとき父ならどう切り抜けるのだろう、とミズホは頭を抱えながら、それでも大恩ある教授に面と向かって異を唱えることなどできるはずもなく、渋々ながら教授のインターフェースに映る二人のアイドルのプロフィールを覗き込んだ。

 糸井いといツバメ、十五歳。

 四十万しじまヒバリ、同じく十五歳。

 前者は明るい色のストレートロングと快活な笑顔がマッチした、うるさそうな印象が漂うアイドル。後者は黒髪を頭の両サイドに垂らして上目遣いの笑みを浮かべた、あざとさを前面に出したようなアイドル。

 どちらが好みだなどとミズホに論じられるものではない。強いて言うならどちらの相手もしたくはなかった。アイドルという存在から逃げて辿り着いたこの街で、まさかアイドルと共同作業コラボレーションをしなければならない悪夢が待っているとは思いもしなかった。

 教授に頭を下げてラボを出てから、ミズホは周りに誰もいないのを確認して、大きく大きく溜息をついた。

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