第2話 百億分の一の君へ
わたしがその言葉を口にすることは禁じられていた。心に想うことも、日記にしたためることも、彼以外の誰かにそれを伝えることも。
アイドルに課せられた恋愛禁止の鉄の掟。それをわたしは今日まで守って生きてきた。彼が連れてきてくれた夢のステージで、眩いスポットライトとお客さんの歓声を浴びながら、わたしは一生に一度の青春を懸命に走り抜けてきた。
辛いこともあった。夢を見失いそうになることもあった。そんなときも、忙しい受験勉強や就職活動の合間を縫ってわたしに会いに来てくれる彼の笑顔が、いつだって支えだった。
握手券で解禁されるたった数秒の逢瀬の時間。特定のファンひとりだけに特別な感情を向けるなんて絶対にダメだとわかってはいるけど、それでもわたしは、握手会の会場に立つたび、今日は彼は来てくれるだろうか、明日は来てくれるだろうかと、心のなかで期待する気持ちを抑えられなかった。
そんなわたしの青春時代がついに終わりを迎える時が来た。二十二歳の秋、わたしは大勢のファンの方に見送られて、満員のスタジアムで最後のコンサートを終えた。
もちろん、アイドルを卒業したからといって、わたしのスターダムへの挑戦が終わるわけではない。ドラマに映画に演劇に……わたしはこれからも手の届くすべてのチャンスに挑んでいきたい。憧れのシンデレラストーリーの主人公、アイドルから名女優になる夢を叶えた数百年前のスーパースターに少しでも近付くために。
だから、わたしが禁じられた言葉を彼に伝えるのは、もっとずっと先になる。彼はいつまで待っていてくれるだろうか。わたしは彼に想いを伝えるのを待ちきれるだろうか。
そんなことを思いながら、わたしが住み慣れたアイドルの街を後にして実家に帰ってくると、開いた車のドアの向こうに彼が立っていた。今日のために仕立てたようなスーツに袖を通し、控えめな色彩の花束を携え、そして凍るような緊張の表情を柔和な顔面に貼り付けて。
「結婚してください」
互いに手を取り合ってすぐに彼が発したその言葉で、わたしの迷いはすべて吹き飛んだ。
想いをいつ伝えるかなんて、最初から悩む必要もない問題だった。パズルのピースが嵌まるようにわたしは直感していた。わたしの心は、ずっとこの時を待っていたんだ。
「する。絶対する。今すぐする」
気付けばわたしは彼の手を引き、車を拾って中央役場へと向かっていた。社会のルールも、夢へのロードも、もう何物も二人の想いを止められない。
たとえこれからの芸能活動に支障が出たってかまうものか。どんな批判も吹き飛ばしてわたしは駆け上がってやる。彼と二人で、ずっと手を繋いで。
「式はわたしの誕生日に挙げようね」
わたしの無茶振りに彼は当惑しながら、それでも最後は隣で強く頷いて笑ってくれた。
彼の手をぎゅっと握る。彼がわたしの手を握り返す。わたしは心から感謝して言葉を紡ぐ。百億の人がひしめくこの地上で、たったひとり、彼と出逢わせてくれた神様の奇跡に。
「大好き」
十年ぶんの想いを込めてわたしはその言葉を伝える。解禁された愛の言葉を、百億人にひとりの君へ。
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