『女神のウェディングベル』

第1話 バースデー・ウェディング

 アイドルを卒業した幼馴染がこの街に帰ってくる。

 その報せをずっと前から知っていた俺は、秋からの職場の入社前研修に無理を言って一日休みをもらい、彼女の実家の前で朝からずっとトップアイドルの凱旋を待っていた。

 俺の服装は下ろしたてのスーツ。手には今どき珍しい天然花の花束。生花店の接客AIはしきりにバラを勧めてきたが、俺はあえて控えめなナデシコの花を選んだ。数世紀前の人が決めた花言葉は「純愛」「貞節」そして「大胆」。夢への道を一途に駆け抜けた彼女には、きっとこの花の彩りこそが相応しい。

 俺の二十二年間の人生のなかで、こんなに緊張したことは一度もなかった。アイドルになる前の彼女と行動をともにしていたときも、一人のファンとして握手会やライブに赴いたときも、俺の手のひらにここまで汗が滲むことはなかった。

 どんな顔で迎えたらいいのだろう。どんな言葉をかけたらいいのだろう。

 俺が今日ここに立っていることは彼女には伝えていない。伝えたくても伝えられなかった。アイドルが一ファンとパーソナルなやりとりを交わすことなど許されない。でも、今日からは違う。彼女はアイドル卒業後も芸能人を続けるとは言っていたが、彼女の青春時代を縛っていた多くの決まりや監視の目からは、ひとまず今日でお別れのはずだ。

 今日を境にアイドルとファンの関係ではなくなる彼女に、俺はどんな態度で接するべきなのだろう。親には言えないそんな課題を俺は今日まで何度も何度も自問自答してきた。長男を幼稚園キンダーガーデンに上げたばかりの兄にも通話をかけて、今日のこの日について相談した。さあな、お前の人生はお前が切り拓け。兄はいつもの調子でさらりとそう言っていた。

 朝から何台もの車が彼女の実家の前を通り過ぎた。どれが彼女の車かなどわかるはずもない。いつ訪れるともしれない運命の瞬間に俺の心臓が高鳴っていたそのとき、ついに、ついに、一台の車がその家の前でぴたりと静止した。

 俺の時間までもが静止した。頭は真っ白、鼓動は早鐘。ドアの前に回って迎えの言葉を。焦りと緊張に塗りつぶされた頭が無意識に俺の身体を動かす。

 瞬間、稲妻が俺の意識を撃ち抜いた。ドアが開いて現れた彼女は、まさしく目もくらむ光の女神。艶やかな黒髪を顔の横に上品に流し、落ち着いた私服姿で車から降り立ったその姿は、満員のスタジアムのスポットライトなど浴びなくとも、世界の誰より輝いていた。

 彼女が涙に震える声で俺の名を呼んだ。俺も彼女の名を呼び返した。

 初めて握手券なしで触れ合ったその手は、初めて握ったあの日の何倍も暖かかった。

「結婚してください」

 事前に考えていた祝いやねぎらいの言葉がすべて頭から吹き飛び、俺の口から勝手に飛び出したのはその一言だった。自分でも何を言っているのかわからなかった。脳内の全回路がショートして火花を上げる中、彼女は花束を持った俺の手を自分の両手で握ったまま、ぼろぼろと涙をこぼして、うん、と頷いた。

「する。絶対する。今すぐする」

 固まり尽くしたままの俺の手を引っ張って、彼女がもう一度新しい車を呼び止める。手を引かれるがまま座席に乗り込むと、彼女が運転AIに指示した行き先は中央役場だった。

 おとなしく見える笑顔の裏に秘めた鋼の意思。こうと決めたら前のめりに突っ走る行動力。この地上で最も長く彼女のファンをやっている俺は、自分が彼女のなにを好きだったのかなど知り尽くしている。

「式はわたしの誕生日に挙げようね」

 涙でメイクの崩れまくった顔で彼女は微笑んだ。彼女の誕生日までにはもう一ヶ月もない。

「間に合うかな」

「大丈夫。あの時だって間に合ったもん」

 大学を出たばかりの社会人ゼロ年生と、国じゅうの喝采を浴びた人気投票一位のスーパースター。釣り合うはずがない、なんて不安は俺の頭にはない。

 二人一緒ならどんな壁も乗り越えられる。彼女がとうの昔に証明してみせたその事実を、俺は幸せに溺れそうな心の中で何度も噛み締めていた。


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