最終話 初日

 ツルマが初めて降り立つ北海道の大地は、まだ十二月に入ってもいないのに、高層都市のあちらこちらに夜通しの積雪の痕跡を残していた。大深度地下高速鉄道リニアエクスプレスの駅からは天候に左右されず移動できる地下リニアが縦横無尽に整備されていたが、矯正特区への最後の百キロほどは、レンタクシーで地上の道を走らなければならなかった。

「このへんは、大昔から刑務所のメッカなんだよな」

 兄が前部座席でのんびりと言った。刑務所という存在と、世界最大の宗教の聖地であるメッカという言葉の取り合わせがどこかおかしくて、ツルマは後部座席に並んで座るチクサとくすりと笑みを交わしあった。


「チクサ……。私は君の人生にとんでもないことを……」

 強化ガラスを隔てた向こうに座る黒笹ミヨシは、三人と向き合うやいなや、大泣きに涙をこぼしていた。彼は囚人服の袖で涙を拭いながら、何度も何度も、チクサに向かって「すまない」と繰り返した。

「……いいんですよ、黒笹さん。ほら、わたし、ミリオンに戻れることになりましたから」

 チクサは空元気のように華奢な両腕を広げてみせ、ガラスの向こうの黒笹に笑いかけていた。そんな彼女の様子を見て、黒笹はさらに声をあげて泣いた。

「あんたが出てくる頃にはまだ彼女はミリオンにいるぜ。念願の幹部様になって迎えてやるんだな」

 ツルマの隣で兄が腕組みをして言った。だが、黒笹はふるふると首を振っていた。

「アイドルの人生を壊すのに加担した私が、どうして『オータム』に戻れましょうか。……出所後は、別の仕事をして生きていきます」

「……そっか。まあ、好きにしたらいいさ」

 兄はふうっと息を吐いていた。ツルマは大人の会話に口を差し挟むことができず、ただいたたまれない気持ちを抱えたまま面会室の椅子に座り続けていた。

「黒笹さん。わたし、これから、劇場公演にもコンサートにもたくさん出ますから。どんな人気アイドルになっても、握手会にも休まず出ますから」

 最後に涙の滲む目でじっとマネージャーの目を見つめて、チクサは言った。

「黒笹さんも、会いに来てくださいね」


 北海道からの帰りのリニアは、半端な時間帯であることもあってか、客席に空きが目立っていた。中京第二首都セカンド・キャピタルまでの所要時間はおよそ二時間ほどだ。

「昔のアイドルって、移動が大変だったんだろうね」

 ツルマが個室席コンパートメントで向き合うチクサにそう言うと、彼女はふふっと笑って、「レナちゃんもきっとね」と答えた。

 人気アイドルが全国のあちこちに駆り出されるのは今も昔も同じだ。だが、チクサの憧れのアイドルが活躍していた時代には、まだ地下を貫く大鉄道はこの国になかった。正確な地震予測すら満足にできなかった時代、いつ起きるともしれない大地震に日々怯えながらも、この国の人々は、脆弱な地上の鉄道網に輸送の大部分を頼るしかなかったらしい。

旧鉄道しんかんせんでは、東京から中京まででも二時間はかかったらしいぜ」

 兄が言うのを聞いてツルマは目を丸くした。チクサもさすがにびっくりした顔になっていた。それだけの時間があれば、今はその何倍も離れた北の大地まで安全に行くことができるのに。

「……でも、レナちゃんはきっと楽しかったと思う」

 チクサはうっとりした目で言った。彼女の口からその名が語られるときは、ツルマにとっては不思議と、兄が科学技術について語るときと変わらない説得力があった。

「わたしも、色んなところに行ってみたいな。この国で一番リニアに乗ってるアイドル、なんて呼ばれたりして」

「さすが、将来のトップアイドル様は気が早い」

 夢物語を兄に茶化され、むっと頬を赤らめるチクサの姿は、すさまじく可愛かった。


 それから数日と経たない内に、チクサがドミトリーに戻る日が来た。

「ツルマくん、これ」

 ブロック詰めの荷物を引越業者のヒューマノイドが無人タクシーに積み込んでいく傍らで、チクサはポニーテールをふわりと冬の風に揺らして、一枚のチケットをそっとツルマに差し出してきた。

 兄がツルマの後ろから目ざとくその券面を覗き込み、「研修生お披露目ライブ」と書かれた文字を読み上げる。

「うん、ほんとは家族枠なんだけど、お父さんは絶対来ないって言ったから」

 十三歳を迎えた娘をアイドルとして送り出した家族は、本来ならば高倍率の抽選を経なければ手に入らない研修生初回公演のチケットを、ただの一度だけ特別枠で貰い受けることができるという。三年前に既に同じことを経験しているはずのチクサに、今回の復帰に際してもまた律儀にその制度が適用されたのは、良くも悪くもこの四角四面な管理社会のあり方を象徴しているようにツルマには思えた。

「でも、家族の権利なのに俺が貰っちゃっていいの?」

「だから」

 兄がツルマを肘で小突いてくるのと、チクサが頬を赤らめて言うのは同時だった。

「わたしがツルマくんに見に来てほしいの」

 どきん、と心臓を射抜かれる思いがした。チケットを大事に握り込み、ツルマは言った。

「行くよ。絶対行く。このライブだけじゃなくて、何度だって会いに行く」

 お金があるだろうか、親が許してくれるだろうか、といったことは、今のツルマの頭にはなかった。

 チクサは最高の笑顔でツルマに向かって微笑んでから、いよいよ無人タクシーの座席に乗り込んだ。

 アイドルはドミトリーから出られない。未成年男子はドミトリーに入れない。これから二人が会えるのは、ドミトリーの外壁部に設けられた握手会の会場や劇場ホール、そしてチクサがいずれまた辿り着くであろう大規模スタジアムなど、「オータム」が逢瀬を認めた場所においてだけだ。

「ツルマくん。ありがとう」

 最後の別れを前にして、チクサは寂しさや切なさではなく明るい笑顔を浮かべていた。

 車のスライドドアはまだ閉まらない。ツルマは座席に座ったチクサと見つめ合い、「会いに行くよ」と繰り返した。

「俺達は何度でも会える。握手会でも、公演でも、コンサートでも」

「うん」

 チクサが嬉し涙で頷く。

「ツルマくん、大事なこと忘れてる」

「え?」

「……二十二歳をすぎたら、毎日会えるよ」

 そこでスライドドアが二人の間を隔てた。チクサがはにかみながら手を振り、最後までツルマに視線を向けたまま、近くて遠い世界へと旅立っていく。

 ツルマが呆然と口を開けたまま無人タクシーを見送っていると、隣で兄が昔の映画のようにひゅうと口笛を吹いた。


 東海ミリオンの研修生お披露目ライブには、あの金山チクサの復帰第一回とあって、凄まじい人数のチクサファンが押し寄せていた。抽選でチケットを得られなかった者はもちろん劇場には入れないのだが、それでも彼らは劇場の外に集まり、チクサが今や人気アイドルの一人であることを誇示するように緑色のサイリウムを振り続けていた。

 ツルマは名も知らぬ無数の同志に揉まれながら、ステージを正面から見上げる特等の位置に立っていた。こんな良い場所でチクサの姿を見られるのは、きっとこれが最初で最後だろう。

 ついに定刻が来た。眩いスポットライトに照らされた劇場のステージに、今年の秋にドミトリー入りを果たしたばかりの初々しい十三歳アイドル達が揃いの衣装で躍り出てくる。けたたましいイントロが流れ始める中、観衆は割れんばかりの声援で天使の卵達を迎えた。

 全アイドルの義務である動画配信と定例握手会を除き、こうした芸能活動に進んで名乗りを上げる者は全体の一パーセントほどにすぎないというが、それでも今夜のお披露目ライブには何十人もの新人が出演していた。この時期に連日行われるライブのすべての回を合わせると、東海ミリオンだけで千人を下らない芸能アイドルが今年も誕生しているはずだった。

 そんな光り輝くステージの隅に、チクサの姿があった。この中でただ一人の十六歳。この国でただ一人、社会の決まりではなく自らの意思でアイドルを目指した少女。

 彼女に課せられた使命は重い。普通のアイドルが十年という時間を与えられている中、十六歳にして研修生から出直しとなる彼女は、七年の内に結果を残さなければならない。

 きっとたくさんの苦難が待ち受けているだろう。特別扱いとのバッシングは避けられないだろう。この先どんな功績を上げても、インディーズ活動のチートと栄クリスの口利きで成り上がった依怙贔屓アイドルだとの批判は常にチクサに付いてまわるだろう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。彼女のひたむきな努力の前には、どんな障壁も恐れるに足らないとツルマは信じていた。ここは彼女の望んだ戦場。心から望んだ夢のステージなのだ。

「チクサァァァ!」

 周りの観衆が彼女を呼ぶ声援コールが劇場に響き渡る。ツルマも誰にも負けないように声を大きく張り上げた。いよいよ曲が始まる。天使達の歌声が満員の劇場を色とりどりの夢に染める。

 ツルマはチクサの笑顔から目を離さなかった。彼の振るサイリウムは無数の観客のなかに溶け合って、一面の光のただ一部になっていた。彼一人が叫ぶ声も、彼一人が掲げる光も、決してステージの上のチクサに気付かれることはない。そんな切なささえも、今のツルマにはなぜか誇らしかった。

 幾重もの壁を乗り越えて辿り着いた今日という日。チクサの笑顔はこれまでで一番輝いていた。大歓声と熱気が劇場を揺らす中、ツルマはただ無心で緑色の灯りを振っていた。

 夢に見た色に照らされて、今、彼女の初日が始まる。


(完)

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