第19話 見たかった景色

 夜七時に開幕した東海ミリオンの臨時コンサートは、前座の前座を終え、いよいよ今夜のプログラムの佳境に差し掛かろうとしていた。

 いまステージでスポットライトを浴びているのは、東海ミリオンのメンバーの中でも粒揃いの実力者で構成される超選抜ユニットの面々だ。だが、人気投票の全国ランキング1,000位以内を連日キープし続ける超人気アイドルの彼女達でさえ、この後に控えたメインイベントの前では場繋ぎの前座でしかない。

 大音響のミュージックと天使達の弾ける歌声、そして幾万人の観客の大声援が夜闇のスタジアムを震わせるなか、小牧カスガは後輩の江坂ミクニとともに、アリーナを遠く見下ろす天空席バルコニーに着座していた。カスガらが含まれる「前座の前座」のメンバー達は、既に自分達に割り当てられたささやかな出番を終え、汗の滲むステージ衣装のまま関係者席からこの後の展開を見守ることを課せられていた。

「なんだか不思議。カスガさんのお友達、本当にクリスさんと戦うんですね」

 ミクニが汗を含んだブロンドを無造作にかきあげながら、隣に座るカスガに言った。

「……うん。まさかチクサがこんなことになるなんて……」

 二度と会うことは叶わないと思われた自分の親友が、配信チャンネルを通じて数百万人のファンを集め、東海ミリオン復帰を懸けてトップアイドルとの直接対決に臨もうとしている。その現実はカスガにとっても夢か幻のように思えた。金山チクサが涙ながらにマンションから連れて行かれたあの日には、まさかこんな未来が待っているなどとは予想もつかなかった。

 対決の結果次第でチクサがまた自分と同じステージに戻ってこられるというのは、もちろんカスガにとっても最高に嬉しいニュースだった。だが、いま眼下に広がる光景を見ると、チクサがその望みを叶えるのは残念ながら途方もない無理難題のように思えた。

 チクサに下された異性交遊の判決センテンスは今日に至るまで覆されていない。ネットワーク上の会議場フォーラムもチクサに対するバッシングと、クリスの勝利を疑わないコメントで溢れている。この場に現実に集まっている観客も同じだ。四面楚歌、という古い熟語をカスガはふと思い出していた。

 カスガらの眼下に広がるスタジアムは今、噴き上げるような熱気のなかで、観客席のほぼすべての領域を眩いオレンジ色に染めていた。それは観客が入場の際に渡される簡易ELの手持ち照明サイリウムの灯りだった。もちろん、自前でサイリウムを持ち込んでいる客も大勢いるだろう。

 トップアイドルはどんな色を纏っても輝くものだが、今宵に関していえば、そのオレンジは栄クリスの勝利を願う旗印だった。クリスへの応援の証にその色が当てられているのは、さしずめ彼女がこの国をあまねく照らす太陽であることを象徴しているかのようだった。

 対する金山チクサの旗印は緑だとカスガは聞いていた。運営が割り当てたのか、チクサが自ら望んだのかはわからない。だが、暖色の代表格であるオレンジと比べると、その色はあまりに寒々しいように感じられた。太陽と草木。一方が一方を天から見下ろし、一方が一方を地上から見上げるだけの関係。その二つの色を比べただけで、カスガには、「オータム」にはチクサの復帰を許す意思など皆無であるかのように思われた。

「……勝てるわけないよ」

 人知れず声に出して呟いてから、ふと、カスガは遠い記憶の中でチクサが語っていた一つのエピソードを思い出した。小学校を卒業してドミトリーに入り、ルームメイトとして初めて顔を合わせたばかりの頃、チクサは憧れのアイドルとして大昔の誰かの名を挙げていた。リナだったかマナだったか、すごく古い響きの名前だったということはカスガも覚えている。そのアイドルをファンが応援するときの旗印が、緑のサイリウムだったとチクサは言っていたのだ。

 ……まさか、だからチクサは今夜の対決にその色を?

「ミクニちゃん、昔のアイドルでイメージカラーが緑色だった子って知らない?」

「昔ってどのくらい昔ですか。そんなのたくさんいるんじゃないですか?」

「……そうだよね」

 端末で検索しましょうか、とミクニは言ってくれたが、カスガはそっと首を横に振った。あの日のチクサの口ぶりからすると、そのアイドルが緑色の光に囲まれて歌い踊っていたのは、「オータム」のアイドルデータベースが稼働を始めるよりも遥か遠い昔の話だろう。

「チクサ……」

 カスガの脳裏にはチクサのあどけない笑顔が蘇っていた。あれほど全力でアイドルを楽しんでいた親友のことだ。この後の公開対決にも、自身の魅力を引き出すための最高のセットリストを組み、考えうる限り最大限のパフォーマンスで臨むに違いない。だが、それでも栄クリスとの差は歴然なはずだった。負けたらアイドル活動を永遠に放棄する誓約を強いられるという条件を思うと、カスガはまたチクサが絶望の淵に落とされる瞬間を目にしなければならないのかと心が痛んだ。

 そんな時、隣のミクニがふと、「あれ?」と細い首をかしげているのがわかった。

「どうしたの?」

「なんだか……お客さんの光が減ってませんか」

 ミクニは眼下の観客席をどこともなく指差していた。確かに、夜闇を照らすオレンジ色の光は先程までより少しだけ勢いを失っているように見えた。この距離からファンの一人一人の姿など見えるはずもないが、まだ前座のパフォーマンスは続いているのに、何割かのファンは明らかにサイリウムを消してしまったり、別の色に切り替えてしまったりしているようだった。

 なぜだろう。まだチクサもクリスも舞台に出てこない内から、エースオブエース優位の趨勢が変わることなどありえないだろうに。

「カスガさん、これ見てください!」

 突然、ミクニが慌てた声でぐいぐいとカスガの衣装の袖を引っ張ってきた。彼女が見せてきた携帯端末の画面には、何かの配信動画が映っていた。そのウインドウのデザインは、カスガがこの数日何度も覗いていた金山チクサの配信チャンネルのものだった。

 幾百万のファンをネットワーク越しに虜にした「チクサ推し」なるチャンネルの画面には、どういうわけか、憎悪に歪んだ髭の男の顔が映し出されている。

『ざまあ見ろ、チクサァ! 私の誘いを断ったりするからこういうことになるのだ!』

 汚い言葉で画面の向こうの誰かを罵り、男は楽しそうに高笑いを上げていた。カスガはその男の顔をドミトリー入りの際に一度だけ見たことがあった。それは紛れもなく、東海ミリオンの人事権を握る実力者、総支配人のにしき……!

『お前のせいでこのガキは死ぬ! 一生後悔するがいい!』

 悪魔の如き哄笑を上げる錦の姿を映した配信は、「チクサ推し」にアップロードされたどのライブ動画よりも桁外れに多い再生数を獲得していた。配信日時はわずか数時間前。それは今日、このコンサートが始まる少し前に起きたばかりの出来事のようだった。

「ミクニちゃん……これって……?」

 動画には泣き叫ぶチクサの声や、錦の姿が世界に配信されていることを告げる少年らしき声、そして怒りに狂った錦を警察が取り押さえるまでの一部始終が収められていた。それだけではカスガには何が何だかわからなかった。だが、幾万人の観客の間にじわじわと伝わるオレンジ以外の色の光の波を見ている内に、カスガははっきりと悟った。

 誰かがチクサの無実を証明してくれたのだ。そしてそれはこの会場のファンにも広まりつつある。

「カスガさん、ごめんなさい。チクサさんのことバカな人って言ったの、撤回します」

 ミクニが端末を仕舞いながらおずおずとカスガの顔を上目遣いで見てくる。カスガはそんな後輩の頭をそっと撫でてから、そこで初めて、自分の頬に温かい涙が伝っていることに気付いた。

 世紀の対決を間近にして、今、この世界の風向きは確かに変わり始めていた。


「会場にお集まりの皆様! いよいよ本日のメインイベント、金山チクサと栄クリスの公開対決が始まります!」

 前座メンバー達がファンの大声援コールに送られてステージを後にすると、すぐさま男声のアナウンスが朗々とスタジアムに響き渡った。カスガはミクニと一緒にはらはらした気持ちで眼下のステージを見下ろしている。客席を埋め尽くすサイリウムはまだ半分以上がオレンジ色の輝きを放っていたが、もはやカスガの親友を取り巻く状況は四面楚歌とは思えなかった。

 もちろん、チクサが潔白であろうとなかろうと、クリスのほうが圧倒的に多くのファンを従えているのは事実だ。だが、もはやチクサの前から、努力と実力で突破できない壁は取り払われた。彼女の嫌疑が濡れ衣であったことは全世界の知るところとなった。ここから先は純粋にパフォーマンスの戦いだ。金山チクサと栄クリスのどちらが真のアイドルか、幾万の観客の前で公明正大に雌雄を決するのみだ。

 先にソロパフォーマンスをするのは、挑戦者チャレンジャーであるチクサだった。

 カスガは自分でも気付かない内に、隣に座る憎々しくも可愛い後輩の片手をきゅっと握っていた。ミクニは黙ってその手を握り返してきた。

「ここまで来たら、必ず勝ってよ……!」

 声に出して呟いたのか、心のなかで祈ったのかはカスガ自身にもわからない。彼女がその切なる願いを胸に抱いて、無人のステージを見守っていると――

 突如、ステージを照らすすべての照明が消え失せ、満員のスタジアムを一瞬の静寂が包んだ。

 そして。

 夜闇に包まれたステージに、一条、照明効果イルミネーションの星が降る。

 光が眩い尾を引いてステージに吸い込まれたかと思うと、瞬間、水面に星が落ちたように、広いステージの一面に水の波紋を思わせるライトアップが広がった。

 たゆたう光の水面の中心に立つのは、白を基調とした清楚な衣装に、今夜のイメージカラーである鮮やかな緑をあしらった翼なき天使。

 人工の夜空から続けて幾条もの星が降りそそぐ中、瞼を閉じた彼女が静かにマイクを手にする。幾万人の観客に見えるように、巨大な全方位モニターが彼女の姿をアップで映し出す。

 スタジアムを揺るがす大音響のイントロを合図に、そのつぶらな瞳が見開かれた。満員のファンの喝采を浴びて歌い始めるその姿は、まさしく純真可憐にして神聖不可侵なアイドル。

 銀河の輝きを纏い、青春の飛沫を上げて――

 金山チクサは高らかに進軍を開始した。

「……あれが」

 カスガには己の目が信じられなかった。目のくらむようなイルミネーションを浴び、全身全霊のパフォーマンスで十万の瞳を釘付けにするチクサの姿は、カスガが寝食をともにする中で見てきたどんな彼女の姿とも違っていた。

「本当にあれが、チクサなの……?」

 歌い踊るチクサの姿には、いわれなき疑いをかけられて夢のステージを追われた悲しみや後ろめたさは、どこにも感じられなかった。

 彼女は歌い続ける。ただポジティブな微笑みだけを、満員のファンの前で振りまいて。

 長い悪夢から目覚めたように。心の迷宮から抜け出したように。

 一度は消されかけたその歌声を、かすれんばかりに張り上げて。

 流した涙を誰のせいにもしない。駆け抜けた道を振り返りもしない。

 己のすべてを解き放つようにチクサは進む。アイドルの名に恥じない青春のロードを、どこまでも前のめりに。

「……すごいですね」

 カスガの隣でミクニが目を見張っていた。その瞳はカスガと同じもので濡れていた。

「わたしも……あんなアイドルになりたい」

 この後輩がそんな言葉を漏らすのはカスガには意外だった。だが、奇しくも彼女もまったく同じことを思っていた。

 割れんばかりの声援コールがこだまする中、チクサはソロパフォーマンスを終えた。カスガには、その間に自分が一度もまばたきをしていなかったような錯覚がした。

「次はいよいよ、クリスさんですよ」

 ミクニがカスガの手を握ったまま言う。カスガは興奮と緊張を押さえきれぬまま静かに頷いた。

 チクサを照らしていた照明がすべて落とされ、暗闇に戻ったスタジアムに神の来迎を待ち望むファンの声が溢れかえる。

 十三歳の頃から「セブン・シスターズ」の高みに君臨してきた栄クリスは、カスガはおろか、エリート候補のミクニからしても雲の上のそのまた遥か上。人気投票の年間通算でただの一度も七位以下に陥落したことのない、この国を代表する絶対的スター。そのクリスが今から、金山チクサという無名アイドル一人を倒すためだけに、この満員の劇場に降臨するのだ。

 カスガとミクニだけではない、関係者席のメンバー全員が固唾を呑んで見守る中、夜闇のスタジアムは突如として太陽の輝きに包まれた。

 ステージから観客席までもをあまねく照らす黄金の光。神聖なる後光をまとって、遂にその神が地上へと降り立つ。

 オレンジ色の衣装に身を包み、燦々と輝くスポットライトを一手に浴びて、栄クリスは歌い始めた。

 夢に見るような微笑みを振りまいて、響かせる声は金剛石ダイヤモンドの輝き。夜空を青空に変えるがごとき眩さを放ち、心を射抜く視線は翠玉エメラルドの煌めき。

 愛も未来も幸福も、下界のすべてを手中で弄ぶように、エースの中のエースは歌い続ける。

 その存在感はまさしく神の領域。何者にも消すことのできない炎。

 太陽の威光に目を焼かれ、観衆は奴隷の如くひれ伏すしかない。

「……やっぱり、勝てない」

 クリスのパフォーマンスを目の当たりにして、羨望と絶望にカスガが打ちひしがれる中、ミクニはしれっと言ってきた。

「そうですか? わたしは互角だと思います」

 それに、まだ終わりじゃありませんから――。そうミクニは続けてきた。

 そう、ソロパフォーマンスは対決の序章にすぎない。

 スターは一人でスターになるわけではない。幾十人、幾百人のメンバーをバックに従え、センターとして誰より可愛く輝くすべを知ってこそアイドルは真のスターになる。

 二人の本当の対決はここからだった。チクサはクリスとダブルセンターを張り、東海ミリオンの第一線級メンバーを従えて歌い踊らなければならないのだ。

「……今からじゃ絶対、追いつけないんだろうな」

 ミクニが少し悔しそうに言うのを片耳に捉えつつ、カスガは虹色の光に包まれたステージに目を凝らしていた。差をつけ、追いつき、また差をつけられるのが日常であるアイドルの世界といえど、いまや彼女達の遥か手の届かない戦場で戦っているチクサのことを思うとカスガも涙が止まらなかった。

 瞬間、爆音のごとき歓声が天地を震わした。東海ミリオンの超選抜メンバー達を下僕のごとく従えて、遂に栄クリスと金山チクサが揃いの衣装でステージに並び立つ。

 息を合わせて歌い踊る二人の姿は、さながら天地をうがつ二条の美麗なる稲妻。満員の観衆は一人残らず沸き立ち、諸手を挙げて女神の饗宴を歓迎した。

 一つステップを踏むたびに、二つ視線を交わすたびに、三つ腕を振りぬくたびに、四つの瞳が夢の瞬きを銀河に解き放つ。

「チクサぁぁ! 頑張ってぇぇ!」

 カスガが我慢できずにあらん限りの声を張り上げると、隣のミクニはそれをかき消さんばかりの勢いで声を重ねてきた。

「チクサさぁぁぁん! 頑張れぇぇぇ!」

 いたずらっぽく自分を見上げてくるミクニの瞳に、カスガは目を丸くした。この子、こんな顔できたんだ――。

 知らぬうちに離れていた手をミクニと繋ぎ直し、カスガは親友とそのライバルのステージを見守る。

 その舞台では二人ともが強者であった。ダブルセンターの放つオーラは完全に互角に見えた。

「チクサ……!」

 幾度流したかわからない涙でカスガの顔はぐしゃぐしゃになっていた。

 本来ならありえないのだ。無名アイドルにすぎなかったチクサが栄クリスと対等に張り合うなど。だが、カスガらの前で繰り広げられる光景は夢でも幻でもなかった。ステージの上の金山チクサは、神であるクリスに勝るとも劣らない輝きを放っていた。

「……なんだか二人とも、楽しそう」

 ミクニがぽつりと呟いた。カスガは片手で涙をぬぐって、大画面に映る二人のアイドルの姿を見据えた。

 それは不思議な光景だった。金山チクサと栄クリスは、宣戦布告の日に初めて画面を通じて向かい合い、今日この場で初めて相まみえた者同士。互いの未来を懸けて争う敵同士……のはずなのに。

 無数の視線が注がれる先で、チクサとクリスは本当に楽しそうに呼吸をシンクロさせていた。互いに互いが寄り添うように。互いが互いを補い合うように。大ステージの中心で舞い踊り、同じ歌詞を紡ぐ二人の姿は、ずっと昔からの友達のように見えた。

 弾ける可愛さの中に艶めかしささえも秘めた視線で、曲のさなか、二人は互いを見つめあう。まるで、長い長い片想いの相手とついに心が通じ合ったかのように。

 ダブルセンターのパフォーマンスが終わったとき、スタジアムは爆音の拍手に包まれた。

 最後の演目は対決者のスピーチだった。ここでも挑戦者チャレンジャーのチクサが先にマイクを持つと、彼女の名を叫ぶファンの声が、円形の観客席の至るところから湧き上がった。

「……皆さん、こんばんは。金山チクサです」

 全力で歌い踊ったあとの息切れを交えながら、ゆっくりと、全方位を見渡して、チクサは語り始めた。

「この会場には……インディーズアイドルのわたしを街頭で応援してくれた人が、ひょっとしたら来てくれてるかもしれません。ネットワークを通じて応援してくれた人も、きっとたくさん来てくれてると思います」

 チクサの語りに呼応するように、あちらからもこちらからも、「見てたよ!」「来てるよ!」といったファンの大声が響く。

「……わたしが今日ここに立たせてもらえたのは、見放さないで応援してくださった皆さんのおかげです。本当に、ありがとうございました」

 チクサはマイクを持った両手を胸の前に揃え、深く深く頭を下げた。彼女の名を呼ぶ声が幾重にも幾重にも浴びせられる。

 再び顔を上げたチクサは、またゆっくりと観客席を見渡し、涙の滲む声で何度も「ありがとう」と繰り返した。

「ここに至るまで、たくさん辛い思いをしてきました。インディーズアイドルをやりながら……もうこのままミリオンには戻らなくてもいいかもな、って思ったことも、一回や二回じゃありません」

 溢れる涙を抑えながら、彼女は続ける。

「でも、今日こうして、クリスさんやたくさんの先輩と一緒に歌わせていただいて、わたしは確信しました。……辛い出来事もあった場所だけど、それでもわたしは、ミリオンが好きです。アイドルが好きです。みんなが切磋琢磨しあってキラキラ成長してゆく、この戦場が好きです。……これからも、皆さんの前に立たせてもらえたら、どんなに幸せかと思います」

 チクサの言葉に観客は全力の拍手と声援を贈った。この国のすべての人の声を合わせたよりも大きいのではと思うほどの大声援が、広大なスタジアムにチクサの名を何度も何度も共鳴させた。

「……ひとつ、昔話をさせてください」

 マイクを持ち替え、少し落ち着いた声色で、チクサは言った。

「ずっとずっと昔、この街に、アイドルに憧れる女の子がいたそうです」

 カスガはチクサの独白にはっとなった。それは、ルームメイトになったばかりの頃に、チクサが瞳を輝かせて語っていたおとぎ話だった。

「その時代には、この街にはまだアイドルグループの拠点すらなくて……でも、その女の子は、アイドルになる夢を諦めなかった。初めてアイドルグループの支部がこの街にできると知ったとき、その子は神様に感謝しながら、倍率百倍以上のオーディションに飛び込んで、夢を叶えたんです」

 観客は静まりかえってチクサの話を聞いていた。この国のだれも知らない、想像すら及ばない遠い昔の話を。

「その女の子をアイドルにしたのは、ただ、アイドルになりたいという純粋な想いだけでした」

 そこで言葉を止めたチクサは、深く深呼吸をしてから、三たび客席の全域に視線を送り、再びマイクに唇を寄せた。

「わたしは……社会の決まりでアイドルになるんじゃなく、自分の想いでアイドルになりたい」

 チクサの口から出た一言は、カスガの胸を強く打った。隣のミクニも、周りのメンバーも、満員の観客も、そして栄クリスでさえもがはっと息を呑むのがわかるような気がした。

 それ以上、何も語る必要はないと、チクサ自身はよくわかっているようだった。

「ご投票、よろしくお願いします」

 再び深々と頭を下げたチクサに、少し間を置いて、我に返った観客の割れんばかりの拍手が浴びせられた。

 チクサが目に涙をためて顔を上げたところで、クリスがマイクを手に、「……ふう」と可愛く息をついた。

「感動は全部チクサちゃんに持っていかれちゃったな。じゃあ、わたしもチクサちゃんにならって昔話でもしましょうか」

 満員の客席が一瞬にして軽い笑いに変わり、「いいぞ!」とクリスへの合いの手が響く。

 チクサの何百倍も場馴れした視線で客席を見渡し、クリスは語り始めた。

「チクサちゃんのお話とどっちが昔かはわからないけど……この街に、アイドルの女の子がいたそうです。その子は中学に上がる前からずっとトップスターでした。……あ、わたしのことじゃないですよ」

 トークにも長けた不動のセンターは、さらりと観客の笑いを取ったかと思うと、急に神妙な顔を作って続けた。

「その子は、ずっと孤独でした」

 クリスの繰り出した一言に、カスガは息を呑んだ。

「その子のグループには、誰も自分と張り合えるだけの相手がいなかったからです。東京のグループと兼任して、すごい中学生がいるって国じゅうから騒がれても……その子は、ずっとずっと、独りでした」

 言葉を切り、客席の静まりを確認するように一呼吸置いてから、クリスは語る。

「でも、ある頃から、その子は孤独ではなくなりました。同じグループの中で、すごい勢いで自分を追い上げてきた仲間が、ついに自分と並び称されるだけの存在になってくれたからです。一人で輝くよりもライバルと二人で輝くほうが、ずっとずっと嬉しいことを、彼女は知りました」

 もう、どこへ行っても彼女は寂しくありませんでした――。そう語るクリスの瞳には、信じられないことに、チクサと同じように涙が滲んでいた。

「……わたしも、ずっと寂しかった」

 アイドルヒエラルキーの最上層に君臨するクリスの口からそんな言葉が発せられたことに、カスガは今日いちばん驚いた。

「ごめんなさい、東海ミリオンの先輩や仲間や後輩のみんなには、本当に失礼な言い方だってわかってるけど……今までわたしには、ライバルと思える存在はいなかったから。でも……明日からはもう寂しくない、って、なぜだかそんな気がするんです」

 クリスは隣に立つチクサとそっと視線を交わし合い、そして再び客席を見上げた。

「もちろん、東海ミリオンのトップに立つ者として、わたしはチクサちゃんにも誰にも負ける気はありません。……でも、ここで自分の気持ちに嘘はつけない。金山チクサちゃんは、間違いなく、東海ミリオンに必要な存在です」

 その場の誰もが呼吸を止められたようだった。クリスは白い頬に涙を伝わせて、言葉を続けた。

「チクサちゃんは、すぐにトップまで駆け上がって、またわたしの前に立つ。何度でもわたしを倒しに来る。わたしだって、負けないように魅力を磨き続ける。……そんな素敵な戦いの場が実現するように……皆さん、どうか、清き一票をお願いします」

 深く深く頭を下げるクリスの背中に、観客達はすぐには言葉をかけられなかった。何秒も経ってから、ようやく、彼女の言葉の意味を理解したらしい拍手が、あちこちから少しずつ起こり、やがてスタジアムを埋め尽くしていった。

 クリスとチクサが互いを見て頷き合い、揃って満面の笑みを客席に向けたところで、男声のアナウンスが響いた。

「それでは会場の皆さん、このあとの合図で一斉に投票をお願いします! 王者チャンピオン、栄クリスの勝ちだと思う方は、オレンジ色を! 挑戦者チャレンジャー、金山チクサの勝ちだと思う方は、緑色を! お手元のサイリウムで点灯させてください!」

 アナウンスの残響がこだまする中、一旦、すべてのサイリウムが消えた。一面の暗闇の中、ステージの上だけが一際明るい光を放つ。

「投票まで五秒!」

 カスガには、チクサが祈るように両手を胸の前で組むのが見えた。

「四……三……二……」

 彼女が夢を叶えるのは、もうわかっている。

「一……ゼロ!」

 瞬間、満員のスタジアムがただひとつの色に染まった。

 それはチクサがずっと見たがっていた景色にほかならなかった。

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