第18話 死角

「兄ちゃん!」

 ツルマとチクサが病室に飛び込むと、兄はベッドの上で上半身を起こし、のんびりとノート型端末を眺めているところだった。病室には既にカワナの姿もあった。秘書の男性がツルマらの後ろからゆっくりと入室してくると、病室のドアがひとりでに閉まった。

「病院で大声はご法度だぜ」

 ベッドに駆け寄るツルマを手のひらで静止して、兄はいつもと変わらない調子で言った。ひとまずは元気そうだったが、とても胸をなでおろすとはいかない。兄の頭に巻かれた白い包帯バンデージは、「暴漢に襲われて」という秘書の言葉と相俟って、生々しい暴行の被害を連想させるものだった。

「お兄さん……ごめんなさい、わたしのせいで……!」

 チクサはベッドに数歩進んだところで膝を折って泣き崩れていた。カワナが「大丈夫よ」と宥めにかかる。兄の負傷に強い責任を感じているらしいチクサの姿を見ると、ツルマも胸の張り裂けそうな思いがした。

「泣かない泣かない。ほら、見ての通り全然大丈夫だから」

 兄は入院着をまとった両手を大きく広げてみせ、からからと乾いた笑いを一同に向けてきたが、それでもチクサはカワナに支えられたまま嗚咽を上げ続けていた。ツルマも到底そんな言葉では納得できなかった。

「兄ちゃん、大丈夫なわけないだろ。何があったんだよ」

 ツルマは兄のベッドに両手をつき、身を乗り出して説明を求めたが、兄は彼の必死さを意にも介してくれない様子だった。

「気にするな、軽く殴られただけさ。もう少し打ちどころが悪かったら、俺の優秀な頭脳が冷葬場れいそうばのチリになるとこだったけどな」

 天才は運もいいんだよ、と言って、兄はツルマの肩を手で叩いて笑ってみせた。ツルマがまだ納得できずにいると、秘書の男性がここでも真面目な顔をして、彼に問い質した。

「ヒサヤ君、これは尋常な事態じゃありませんよ。犯人はわかってるんですか」

「とっくに警察に連れてかれましたよ。来週には刑務所でしょ」

 兄が言うのを聞いて、ツルマにはその暴漢の裏にいる人物が誰なのかはっきりとわかった気がした。

「それって、にしきのやつが人を使って……そうなんだろ、兄ちゃん!」

 ツルマは噛みつかんばかりの勢いで兄に迫ったが、兄は表情を変えることもなく、「いいからお前は静かにしてろ」とツルマを押しとどめてしまった。

 そして、兄はカワナに身体を抱きしめられたままのチクサに向かって声をかける。

「チクサちゃん、君は俺の見舞いなんかに来てる場合じゃないだろ。コンサートはもう今夜なんだ」

 兄の言うことも事実だった。コンサートが始まるのは夜七時。リハーサルや衣装合わせのため、チクサにはその何時間も前からスタジアムの楽屋に入ることが求められているはずだった。

 しかし、チクサは消え入りそうな涙声で、「わたし、もういいです……」と言葉を紡いだ。兄とツルマに向かって顔を上げ、彼女は泣きはらした顔で続ける。

「……わたしがアイドルに戻ろうとすることで、周りに迷惑がかかるのなら……」

「こんなことで折れるのか?」

 兄の声がふいに険しくなった。

「無関係の男が一人殴られただけで逃げるのか? 君が目指した道はそんなものか? お母さんとの人生を懸けた約束じゃなかったのか?」

 病室の中心で、びくん、とチクサの肩が震えるのがわかった。

「……お兄さん。わたし……」

「俺のことはどうでもいい。君は君の夢に向かって走れ!」

 そこで空気を読んだかのようにチクサの携帯端末が鳴り始めた。チクサがそれに出られずにいると、カワナがかわりに端末の表示を見て、「『オータム』の運営からだよ」と告げた。チクサは、こくんと頷いて、端末を受け取った。

「……はい。ごめんなさい、すぐに向かいます」

 涙声を隠す素振りもなく、しかし決意に満ちた声で、チクサは端末の先の相手に向かって告げていた。

「チクサさん、行きましょう。私が同行します」

 秘書の男性に先導され、チクサは何度もツルマらのほうを振り返りながら病室を出ていく。ツルマが「頑張れ!」と叫んだ声に、チクサはやっと笑顔を取り戻して、うん、と頷いた。

「……さて」

 兄とツルマ、そしてカワナだけが残った病室で、兄は唐突に声色を切り替えてツルマの方を向いた。

「ここまで俺の計画通りだ。だが、まだやるべきことがある」

 ツルマははっと息を呑んだ。兄の顔は、すべてが思い通りだという自信に満ちていた。

「敵はこの天才様を排除して油断しきってるところだ。コンサートまではたった数時間。今ならどんな見え透いた呼び出しだって通じる。敵の頭にはもう、追い詰められた金山チクサの仲間が涙ながらに懇願してくるシナリオしか浮かばない」

 そこまで聞いて、ツルマは兄の頭脳の恐ろしさに鳥肌が立つ思いがした。まさか、自分が襲われることまで計算ずくで――?

「先生。傷付く覚悟は」

 兄に問いかけられ、カワナは口元にかすかな笑みを浮かべていた。

「あなたに会った日からできてるわよ」

「ツルマ、お前は?」

 兄の真剣な視線がツルマに向けられていた。ツルマの脳裏に去来するのは、チクサと交わした握手の暖かさだった。

「……チクサちゃんのためなら、死んだっていい」

 ツルマが言うと、兄は満足そうにベッドの上で頷いた。

「主人公はお前だぜ、ツルマ。お前の女神の夢は、お前が守るんだ」

 兄の格好つけた台詞を受けて、ツルマは自分の身体が武者震いに奮い立つのを感じた。

 それから兄は作戦を手短に説明した。コンサートまであと三時間。課せられたミッションはただひとつ。開幕までにチクサの無実を証明するのだ。


 カワナからのパーソナルラインを受けて錦が指定してきたのは、中京第二首都セカンド・キャピタルのドミトリー外のエリアでは最も高級といわれるホテルのスイートルームだった。

 お願いします、わたしにできることなら何でもします、だからチクサちゃんを許してあげてください――。

 そんな台詞を端末越しに述べるカワナの姿は、演技とわかっていても痛々しくて、ツルマはいたたまれない気持ちになって思わず目を背けてしまった。それと同時に、さすがトップアイドルを目指していただけあって演技も上手いな、と、限りなく不謹慎な感想までも思い浮かんだ。

 約束の時間を少し過ぎたところで、ツルマはカワナに先導されてホテルのエレベーターに乗り込んだ。これから巨悪に挑むのだという現実を認識すると、身も縮み上がるような震えが彼の全身を襲ってきたが、愛するチクサのためなら自分は勇者になろうと気持ちを奮い立たせた。

 ツルマが見たことのあるような普通のグレードのホテルと違って、ここの客室の扉は昔を思わせる鍵穴を有した物理ロックだった。前に読んだ雑学の本に、スタッフはおろか警察でさえも勝手に入ってこられないよう、最高級ホテルの扉には電子ロックが付いていないのだと書いてあったのをツルマは思い出し、本当にそうなんだと感心した。

 遂に決戦の時は来た。カワナと視線を交わし合い、ツルマは携帯端末を構えて錦が待つ客室の扉のすぐそばに陣取る。彼の心臓はチクサと礼拝所で向き合ったときよりも激しくバクバクと高鳴っていた。カワナが扉をノックすると、中から「カワナか?」と男の低い声が響いた。

「はい。遅くなってごめんなさい」

 カワナの声は緊張に張り詰めているように聴こえたが、それが本当なのか演技なのかはツルマにはわからなかった。

「本当だ、私を待たせるとは――」

 扉が内側からがちゃりと開けられ、男の半身が覗く――その瞬間、ツルマは扉の隙間から客室内へ転がり込み、瞬時に振り向いて男の背中に携帯端末を向けた。

 なっ、と男が突然のことに目を見張る間隙を突いて、カワナが素早く入室してきて扉を閉める。

 ツルマの構えた携帯端末の画面の中で、口髭にスーツ姿の男、錦は、カワナとツルマに交互に首を向け、そして憤怒の形相を浮かべてツルマに飛びかかってきた。

「貴様らぁ、何のつもりだ!」

 ツルマには逃げる余裕も抵抗する余裕もなかった。大人の体躯がツルマの身体を一瞬で絨毯敷きの床に押し倒したかと思うと、端末を掴んでいた右手首に凄まじい痛みが走った。錦はツルマの手首をねじり上げ、彼の手から容易く端末を奪い取ってしまっていた。

「やめて!」

 カワナが錦の後ろから彼に掴みかかった。だが、錦は「黙れ!」と凶暴な声を上げたかと思うと、ツルマに馬乗りになったまま、ぶんと片腕をカワナに向かって振り抜いた。錦の肩越しに、固い拳がカワナの端正な顔面をもろにとらえるのをツルマは見た。彼女は痛々しいうめき声とともに客室の壁に頭を打ち付け、そのまま倒れて動かなくなった。

「先生!」

 ツルマが叫ぶと、今度は錦の手が彼の口元を塞いできた。凄まじい力にツルマは抗えなかった。錦はその体勢のままでツルマの端末の画面を確認したが、そこに録音や録画の機能がなにも走っていないことがわかると、端末の認証部を無理やりツルマの片眼と向き合わせて電源を切る操作をした。

「どういうことか説明してもらおうか、少年」

 ツルマの端末を自分のポケットに仕舞い込んでから、錦は彼を床に組み敷いたまま、尊大な口調で問うてきた。

「どういうことも何もない。俺はあんたを許さない」

 ツルマは息も絶え絶えになりながら言葉を紡いだ。錦の手足に抑え込まれた全身は激しく悲鳴を上げ、床に後頭部を打ち付けられたときの衝撃で頭はガンガンと痛んでいた。

「許さない、か。……ふん、貴様がチクサと一緒にコソコソやっていたガキだな」

「……兄ちゃんを襲わせたのもお前か」

 まっすぐ錦の目を見上げてツルマは言った。その途端、錦ははっはっと下品な高笑いを上げた。

「そんな間抜けな格好で探偵気取りか。教えてやろう、君の兄とやらを病院送りにしたのは私という個人ではない。権力だ。巨大な力に抗おうとした咎で、君の兄は罰を下されたのだ」

 錦の語るレトリックは、自分はその権力を支配する側に立っているのだという愉悦に満ちているように聴こえた。

 ツルマがぎりりと奥歯を噛み締めながら錦の顔を見返していると、彼は突然、数え上げるように言ってきた。

「不法侵入。脅迫。暴行。強盗。特定営利法人業務妨害罪。何が好みかね」

「……何の話だよ」

「君の逮捕容疑だよ。ガキ一人を警察の留置場にぶち込むことくらい、私には造作もない」

 錦はツルマの眼前で、その表情を嗜虐的な愉悦に醜く歪ませた。ツルマは鉄の心で答えた。

「やるならやってみろ。何年耐えてでもお前の悪事を暴いてやる」

 すると錦は、わはは、とまた笑った。

「考えが甘いな少年。ひとつ面白いことを教えてやろう。現代の刑事収容施設では、大昔に社会問題になったような、看守による虐待死は完全に根絶されている。だが、それでも収監者同士の揉め事で年間何人もの死者が出ているのだ。……君はその囚人達が本当にくだらない喧嘩で殺しあっているのだと思うかね?」

 錦の言いたいことは、ツルマの頭でもよくわかった。権力者が少し細工をしさえすれば、留置場や刑務所内での揉め事に見せかけて誰かにツルマを殺させることくらい容易い、と彼は述べているのだ。

 ツルマが錦の卑劣な発想に目付きを険しくしていると、彼は突然、ツルマの身体を押さえていた両腕を離し、悠然とその場に立ち上がった。

「だが、もっと手っ取り早い方法がある」

 それはまるで映画で見るような光景だった。錦は背広の内側に手を入れたかと思うと、そこから取り出した黒光りする何かを、床に倒れたままのツルマに向かって構えてきたのだ。

 実弾銃かレーザーかなどツルマにはわからない。だが、錦の手にしたその物体が、引き金ひとつで人を殺傷する力を持っていることは、理屈抜きに一瞬で理解できた。

「少年、君は今ここで死ぬのだ。君の死は自殺として処理される」

 ツルマが戦慄に目を見開き、何も言葉を返せずにいると、錦はその道具をツルマに向けて構えたまま、くっくっと機嫌良さそうに笑った。

「面白いだろう。徹底した監視社会というのは、逆説的に多くの死角を生むものだ。なにせ人は、監視に映らないところで起きていることには意識を向けない。権力者がアイドルを食い物にしようが、馬鹿なガキが殺されようがな!」

 錦の講釈を耳鳴りのする頭で捉えながら、ツルマはこの室内の状況を整理していた。力でも武器でもかなわない大人。気絶したままの女性教師。奪われた携帯端末。

「大好きなアイドルをもう助けられないと悟り、純情なる少年は自ら死を選んだ……美しいストーリーじゃないか。何か言い残すことはあるかね?」

 錦は改めてツルマを見下ろしてきた。その冷酷な視線に心臓を鷲掴みにされながら、ツルマは、張り裂けそうになる心を必死に抑え込んで彼に答えた。

「……お願いが、あります」

 なんとか声を震えさせないように努めようと思ったが、今のツルマにそれは無理だった。錦は「ほう?」と聞き返してくれた。ツルマが弱々しい声で敬語に転じたことに、彼は支配欲を満たされてさらに機嫌を良くしたようだった。

「……最後に、チクサちゃんと話をさせてください。死ぬ前に彼女の顔が見たい。声が聴きたい」

 涙まじりになったツルマの発言を、錦はふんという笑い声で見下してきた。だが、その後すぐに、何か楽しいことを思いついたような口調で、「いいだろう」とあっさり応じてきた。

「ただし、君がおかしな細工をしないように、端末の操作は私が行う」

 そして錦は、ポケットに仕舞い込んでいたツルマの端末を取り出し、ツルマの眼前にぬっと差し出してきた。端末がツルマの虹彩を読み取り、バイオメトリクス認証で電源がひとりでに起動した。

 錦の操作は慎重だった。何かの機能が作動していないかを確かめるように、彼は念入りにツルマの端末を調べまわした後、ようやくチクサとのパーソナルラインの画面を表示してくれた。

 錦は片手の武器をツルマに突きつけたまま、もう片方の手でビデオ通話の発信操作を行ったようだった。発信音に続いてチクサの緊張した声が「ツルマくん」と応じかけ、そして、画面に映ったものを見てはっと息を呑むのが聴こえた。まだツルマの目に端末の画面は見えないが、チクサがどんな絶望の表情を浮かべているのかを思うと、身体の痛み以上に心が痛んだ。

「あ……あ……!」

 チクサの引きつった声が端末を通じてツルマの耳にも届く。錦は嗜虐的な笑みを口元に浮かべ、「ごきげんよう、チクサ」と画面に向かって述べた。

「これからあの世へ旅立つ君のボーイフレンドが、最期に別れの言葉を言いたいそうだ。相手をしてやってくれ」

 そして、錦は再びツルマの前に端末を差し出してくる。

「ほら、少年。金山チクサとの最期の逢瀬だ。コンサート直前の彼女をせいぜい絶望させてやるがいい」

 画面に映ったチクサは、白地に緑をあしらった清楚なステージ衣装に着替えていた。だが、メイクの終わったその顔は今や涙に濡れ、混乱と絶望にまみれた表情で端末越しに泣き叫んでいた。

「ツルマくん……どうして……どうして!」

「ごめん、チクサちゃん。俺、ダメだった……。君の無実を証明しようとしたけど」

 ツルマはこみ上げる涙を我慢しなかった。

「でも俺、後悔してないよ。チクサちゃんのために戦って力尽きるなら……」

「そんなこと言わないで! ツルマくん……やだ……こんなのやだ!」

 チクサの絶望に満ちた声は、そこで錦の高笑いにかき消された。

「ふははは! ざまあ見ろ、チクサァ! 私の誘いを断ったりするからこういうことになるのだ!」

 錦は端末の画面を再び覗き込み、心底楽しそうに声を張り上げた。

「お前のせいでこのガキは死ぬ! 一生後悔するがいい!」

 端末から溢れるチクサの嗚咽をも塗り潰すように、錦の高笑いが部屋じゅうに響き渡る。残虐な快感に浸り、悪魔はただひたすらに哄笑を上げていた。

 その笑い声を耳鳴りの残る頭で聴きながら、ツルマは確信していた。勝った――。

「錦さん。錦さん」

「なんだ、少年。まだ何か言い残したいのかね」

 ツルマは黙って頷いた。

「ちょっと、そこのインターフェース付けてみてよ」

「あぁ? そんな見え透いた手にかかるものか」

「じゃあ、あんたの端末でもいいからさ。ちょっと見てほしいものがあるんだ」

 ツルマの声が急に自信満々になったことに違和感を覚えたのか、錦は彼の言葉を真に受け、武器を慎重に背広の内側に戻してから、かわりに自分自身の携帯端末を取り出していた。

「ガキが、今さら何か小細工をしたところで……」

 錦は左手にツルマの端末を、右手に自身の端末を持ち、用心深くツルマの姿を見下ろしながら端末に操作を加えた。右手の端末が配信チャンネル「チクサ推し」のトップページを映し出したらしく、アクセスの成功を示す数秒のメロディが流れる。その後、そこに表示されたものを見て、錦はぴくりと眉を吊り上げた。ややあって、ネットワーク上の配信に何が映されているのかに気付き、見る間に彼の顔が青ざめていった。

「な、何だこれは? なぜ私の姿が配信に映っている!?」

 彼が右手に持つ端末からは、それと全く同じ言葉が、律儀に繰り返されて部屋に響いた。

『な、何だこれは? なぜ私の姿が配信に映っている!?』

 それは、錦がツルマの端末を通じて、今まさにチクサに向かって響かせたビデオ通話の声にほかならなかった。

 通話が始まってから錦がツルマとチクサに向けた脅迫の言葉、そして悪事の告白は、今や地球上の全人類がいつでも知ることのできる状態に置かれていた。

 ツルマは痺れる手を壁に添え、ずきずきと痛む身体をなんとか壁伝いに立ち上がらせた。その目の前で、錦はただひたすらに狼狽を極めた表情で、馬鹿な、馬鹿なとうわ言のように繰り返していた。彼の左手の端末の中では、チクサが涙でぐしゃぐしゃになった顔に驚愕の色を浮かべ、すべての事態を見守っていた。

「貴様、何をしたぁ!」

 錦は怒りと混乱に満ちた大声を上げ、ツルマの端末を壁に向かって投げつけてきた。ツルマの頬の数センチ横を端末が通り過ぎ、ごん、と鈍い音を立てて床に転がった。耐衝撃ボディに守られた使い古しの端末は少しも不調をきたさず、チクサの怯えた顔を画面に映し続けていた。

「……ウチの兄ちゃん、ムカつくくらい優秀なんですよ」

 錦が事前にさんざん確認していたとおり、ツルマの端末上では、録画も録音も配信機能も一切動いてなどいなかった。起動しているのはチクサとのビデオ通話だけだった。

 だが、錦は知らなかったのだ。ツルマの端末は、兄が望みさえすればいつでも、その見聞きしたデータのすべてをあの天才の手元に共有するポートに変わりうるのだということを。

「ガキが……! 一体、なぜ……!」

 錦には今この瞬間もわけがわからないはずだった。錦は、この時代の人間が知っていることをただ当たり前に知り、この時代の人間が持っている感覚をただ当たり前に持っているだけの男に見えた。巨大組織の権力に浸って生きてきた彼は、チクサのインディーズ配信について少し調べはしたのだろうが、結局、個人が世界に向けて情報を発信できるということの本当の恐ろしさになど気付いているはずもなかった。

 数世紀前の人が聞いたら笑うかもしれない。だが、この時代の人間にとって、過去何十年にも何百年にもわたって、情報の発信とは権力に与する側が行うことでしかなかった。どんなにツルマの端末に注意を凝らしたところで、錦は最後まで、自分の行いのすべてが誰かに監視され世界に拡散されるかもしれないという疑いを本当の意味で持つことはできなかった。あの天才はそんな心理の盲点さえも見抜いていたのだ。極論、端末の同期を用いたカラクリなどなくても、錦に見えないものが兄には見えていたという時点で勝負は決まっていた。

 自分が敗北したということだけはわかったらしく、錦は悔しさに歪む顔で何度も自分の端末を見直したあと、我を失ったような表情でツルマに目をやってきた。

 ツルマは床に転がった自分の端末を拾い上げ、ゆっくりと、だが力強く、諸悪の根源に向かってびしりと人差し指を向けた。そうすると、端末だけでなく自分自身の身体と心にさえ、頼れる兄が乗り移っているかのような心持ちがした。

「監視社会の死角に溺れたのは、お前の方だったな!」

 ツルマが錦に向かって叫んだちょうどそのとき、勢いよく客室のドアをノックする音が彼の耳に響いてきた。いや、ノックなどという生易しい音ではない。扉を破らんばかりに激しく繰り返される打撃音と重なって、ドアの向こうで誰かが叫んだ。

「警察だ! 開けろ!」

 刹那、錦の顔が怒りと絶望に狂い、自身の端末さえも手放した彼は鬼気迫る叫び声を上げながらツルマに躍りかかってこようとした。ツルマは思わず後ずさって目を閉じたが、しかし、錦の拳は結局彼を襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると、錦は今にも額の血管が破れそうなほど真赤な顔で、ツルマに向けて振り上げた腕を必死に中空に押しとどめていた。こうなった以上、せめて逮捕されてからの刑期を少しでも短く抑えることを考えたのだろうか。

 そこで、ツルマの背後で大音が響き、客室のドアを力ずくで破った警察のヒューマノイド達が次々と室内に突入してきた。数機のヒューマノイドがうろたえる錦を取り囲んだところへ、人間の警察官が悠々と歩み出て、よく通る声で高々と告げた。

「錦スミヨシ! 傷害及び殺人未遂の現行犯で逮捕する」

 そこからはまた機械の仕事だった。ヒューマノイドらは人間が抵抗できない力で素早く錦の両腕を取り、悪魔の汚れた両手首に銀色の手錠を嵌めた。ぐうう、と錦は悔しそうに唸り続けていた。

『11月18日17時35分26秒、あなたに対して刑事訴訟法第213条に基づく現行犯逮捕が執行されました。この逮捕は第92次改正憲法第33条により……』

 ヒューマノイドの一機が淡々とした口調で述べ続けていた。その機械的な決まり口上を遮るように、錦はツルマに向かって激しく声を張り上げてきた。

「私一人を追い落としたところで、それが何になる! こんなことで『オータム』の支配体制は崩れたりしない。アイドルは監視され、競争させられ、順位を付けられる。この社会の仕組みは何も変わりはしない!」

 その通りだ、とツルマは思った。それでもかまわない。ヒューマノイドの何機かがカワナの応急処置にまわり、残りのヒューマノイドと警察官が錦を連行する間際、ツルマは錦の背中に向かって一言だけ告げた。

「それでも彼女は、この世界で戦い続けるんだ」

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