第17話 握手券

 あれから数日――。

 クリスとの対決が決まってからというもの、ツルマは両親の目を盗める時間のすべてを費やして、チクサの自主レッスンに付き合っていた。活動場所は金山邸の地下室だった。チクサの父親はもちろん良い顔などしなかったが、目の届かないところで好き勝手をされるよりはよほどましと思ってくれたのか、秘書を見張りにつけることを条件にその場所の使用を二人に許可してくれていた。

 秘書の男性によれば、金山議員は妻を亡くしてから酒を断ち、この貯蔵室ワインセラーにあったコレクションをすべて手放してしまったということだった。かつて無数のワインボトルが並んでいた空間に、ツルマとチクサは小型の音響機器アンプリファイアやマイクを持ち込み、来る日も来る日もレッスンに明け暮れた。ここまできたら、自分の親が在宅している程度でチクサとの時間を諦めるわけにはいかないと思い、ツルマは父や母が休みの日でも兄に口裏合わせを頼んで学校帰りに金山邸に寄っていた。兄は兄で、チクサの無実を証明するために別行動をとると言い、毎日どこかに出かけているようだった。

 時間はいくらあっても足りない。旧約聖書の神は六日で世界を創世したそうだが、チクサに課せられたのはそれにも迫る勢いのハードワークだった。対決が告知されたのが月曜日。その当日を入れても、日曜日の本番まで六日のうちにセットリストを決め、パフォーマンスを仕上げなければならなかったのだ。

 そのタイムリミットの厳しさにツルマが溜息を見せると、チクサはそんな中でも、ふふっと楽しそうに笑っていた。

「ミリオンでは、新曲を半日で覚えるくらい普通だったから」

 小規模な劇場公演ともなれば、本番直前に差し替えになったセットリストを一時間足らずで身体に叩き込むという離れ業も日常茶飯事だったという。それを聞いて、ツルマは改めてチクサが住んでいた世界の別次元さを痛感していた。チクサは決して健気で気弱な乙女などではない。汗と涙の戦場で三年間、しのぎを削ってきた戦士なのだ。

「ツルマくん。セットリスト、これでいいと思う?」

 チクサがツルマに見せてきた携帯端末の画面には、この数日間で何度も何度も組み替えてきた曲目のリストが表示されている。火曜日から、チクサは東海ミリオンの曲を何十曲もツルマの前で歌ってみては、これも違う、あれも合わないと言って真剣に考え込んでいた。東海ミリオンの曲をこれほどまでに繰り返して聴いたのは、さすがのツルマにも生まれて初めてのことだった。

 対決イベントの詳細は、クリスとチクサが互いに宣戦布告し合ったあの日の内には世間の知るところとなっていた。イベント自体は東海ミリオンの臨時コンサートの体裁を取っており、当日は他のメンバーによるパフォーマンスも行われるが、メインはあくまで栄クリスと金山チクサの直接対決だった。チクサには、東海ミリオンのレパートリーから好きな曲を選んでソロパフォーマンスを行うパートと、所定の曲をクリスとのダブルセンターで歌うパートが課せられていた。チクサが今ツルマに見せているセットリストとは、その前者のパートで用いるものだった。

「……いいと思うよ。どの曲も楽しそうに歌ってたよね」

 ツルマが肯定すると、チクサはまた嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「レナちゃんならどんな曲を選ぶかな、って想像してみたの」

 楽しげに声を弾ませるチクサの言葉に、ツルマは理屈を超えた説得力を感じていた。チクサの口からその名前が出ると、まるで本当に、チクサの後ろに数世紀前のアイドルが寄り添っているかのような不思議な感じがしたのだ。

 もちろん、チクサ自身だって、紙媒体でしか後世に記録を残せない時代に生きていた「レナちゃん」のパフォーマンスを見たことは一度もないはずだ。チクサの母親とて、彼女の歌い踊る姿を目にしたことなどなかっただろう。それでも、祖母の祖母のそのまた上の世代から連綿と彼女の伝説を受け継いできたというチクサの姿には、その身体に本当に「レナちゃん」とやらの血潮が流れているのではないかとツルマに錯覚させる何かがあった。

「でも、チクサちゃんのほうが可愛い」

 ツルマがそう断言すると、チクサは恥ずかしそうに頬を染めて、そんなことないよ、と言った。


 そして、ついに迎えた日曜日の朝。

 対決コンサートを今夜に控えたいま、ツルマはチクサに付いて、中京第二首都セカンド・キャピタルのはずれ、彼女の母親が眠る共同霊園セメタリーを訪れていた。チクサの髪型は、小学校以来のポニーテールだった。もちろん夜のコンサートまでにはセットをし直すのだろうが、成長した彼女とポニーテールの取り合わせはツルマの目には究極的に可愛く映っており、そのままでも栄クリスに勝てそうな予感すらした。

 一般的な墓参りの時期をはずした霊園には、二人のほかに誰もいなかった。二人をこの場所まで送ってくれた男性秘書は、霊園のなかには入らず、車を停めて外で待ってくれていた。

 透明な屋根に覆われ、幾千、幾万の墓碑が整然と並ぶ広大な空間は、外界の喧騒と完全に遮断されていることと相まって、一面に静謐な空気をたたえていた。

 青春時代のすべてをドミトリーの中で過ごすアイドルも、近親者の危篤や墓参りのときだけはドミトリー外に出ることが許されるという。だが、チクサは東海ミリオンでの三年間、ついに一度もその権利を行使せずに終わったと言っていた。最愛の母親に近況報告をする余裕すら持てないほど、彼女は毎日必死にアイドルの道を進んできたのだった。

「……お母さん」

 チクサは母親の墓前に膝をつき、静かに手を合わせていた。ツルマも彼女の隣で手を合わせて目を閉じた。二人を取り囲む世界はただひたすらに無音で、そこにはまるで無限の時間が流れているかのように感じられた。

 墓碑といっても、遥か昔のように、チクサの母親の亡骸が物理的にその下に埋まっているわけではない。そこにあるのは故人の名が刻まれたただの石にすぎない。だが、それでも、チクサの母親は確かにそこにいるのだった。その場所でチクサを見守ってくれているのだ。

 ツルマも祖父母の墓参りの際に両親から聞かされたことがあった。墓というのは故人の肉体ではなく、魂を弔うところだ。どれほど科学が進歩し、過去の人類には治せなかった病や怪我を治療できる時代になっても、人はいつか必ず死ぬ。故人の肉体はもはやこの世に存在しなくなるが、その魂は遺された者の心のなかで生き続ける。墓は生きる私たちのためにあるのだ、とツルマの両親は言っていた。遺族が故人と心を通わせ、故人のぶんまで生き続ける勇気をもらうために、墓という場所はあるのだと。

 長い長いお参りが終わり、そっと立ち上がったチクサは、そのままツルマを霊園の建物の深奥へといざなった。

 そこは墓碑の並ぶ空間とは別に設けられた礼拝所だった。どの宗教の信徒でも入れるように、祭壇や偶像のたぐいはなく、そこにはただひたすらに真っ白な空間が広がっているだけだった。人影はどこにもない。この空虚にして神聖な空間を、二人はいま独占していた。

「……二人きり、だね」

 チクサがそっとツルマの顔を見上げ、小さな声でそう呟いた。ツルマはどくんと己の心臓が脈打つのを感じた。ここに至るまでの長く短い日々がふと思い出された。

 チクサの脱退の日から今日まで、ツルマは幾度も彼女と行動を共にし、喜びと悲しみを分かち合ってきた。しかし、チクサと二人きりになるのは今が初めてだった。今この場所には、兄も秘書も先生も、そしてチクサの母も、だれもいない。

「ツルマくん。わたしね」

 緊張の糸を断ち切るように、チクサはツルマと向き合って喋り始めた。

「ドミトリーから帰ってきたあの日、ツルマくんが家の前まで来てくれて、すごく嬉しかったの」

 彼女の言葉は、ツルマの心臓をさらに速く脈打たせた。

「ずっと欠けてたパズルのピースが、そこで嵌まったみたいで。……ミリオンでの三年間、たくさんのファンの人に握手会やライブに来てもらって、支えてもらってきたけど……わたし、ほんとは、ずっと心のどこかで、ツルマくんが来てくれるのを待ってたのかもしれない」

 それを聴いて、ツルマはどうしようもなく後ろめたい気持ちを覚えていた。二人が三年以上も会えなかったのは完全に彼の側だけの問題だった。中学生の間も、チクサは新人アイドルとして各種のイベントに出続けていた。だが、ツルマにはそこに出かけるお金も、親の許しもなかったのだ。

「……ごめん。もっと早く、握手会にもライブにも行けたらよかった」

 ツルマが唇を噛み締めていると、チクサは、ううん、と優しく首を振った。

「いいの。それよりずっと大事な時間を、今日まで過ごしてこられたから」

 それからチクサは、ツルマの前で静かに一歩下がって、すっと深く頭を下げてきた。彼女のポニーテールがふわりと揺れて頭の横に垂れた。顔を上げたチクサが言う。

「ツルマくん、ほんとにありがとう。ツルマくんのおかげで、わたし、アイドルの手前まで戻ってこられたんだよ」

 チクサの瞳には嬉し涙が滲んでいた。ツルマは身に余る感謝の言葉にぎゅっと胸を締め付けられた。自分など、大したことは何もしていない。JDCに引率してくれたのも、配信チャンネルを開いてくれたのも、すべて兄の手柄だった。そして兄は今も、チクサの疑いを晴らすと言ってどこかを駆け回っている。自分には、チクサのレッスンに付き合い、墓参りに同行することしかできなかったのに。

「俺なんか、兄ちゃんの十分の一も役に立ってないよ」

 ツルマが頬をかきながら言うと、チクサは涙をたたえたまま、くすくすと笑って「そうかもね」と答えた。

「お兄さんは、知り合いでもなかったわたしをこんなに助けてくれて……。どんなにお礼を言っても言い足りないくらい。……でもね、ツルマくん」

 チクサは再びツルマに向かって一歩を踏み出してきた。彼女の華奢な身体は、先程までよりもツルマと近い距離にあった。

「あの日、挫けそうだったわたしを立ち直らせてくれたのは、誰でもないツルマくんだった。ツルマくんが居てくれたから、わたし、もう一度アイドルを目指して頑張ろうって思えたの。だから……わたしが、一番ありがとうって言いたいのは、ツルマくんなんだよ」

 ツルマは自分の心臓の爆音を感じながら、すぐ目の前に迫ったチクサの顔を見返していた。二人の身体は今にも触れあってしまいそうなほどに近かった。

 チクサがツルマの目をじっと見つめる。ツルマも彼女の輝く瞳を見返す。そのままじっと見つめ合ったあと、チクサは、ツルマの目の前で、涙の滲む瞼を静かに閉じた。

「……ツルマくん。……ここ、ドミトリーの中じゃないし……」

 彼女の唇がそっと動いて、言葉を紡ぐ。

「わたしも、いまアイドルじゃないから……いいよ……」

 とくん、と、聴こえるはずのないチクサの心臓の音までもがツルマには聴こえたような気がした。

 静謐な世界のなか、二人の間の距離は数センチもなかった。彼女がなにを求めているのかは、どんなにツルマが鈍くてもわかった。

 彼女がミリオンに戻ったら、永遠にその機会が失われてしまうことも。

 迷わなかったと言えば嘘になる。

 ……でも。

 ……それでも。

「アイドルだよ。チクサちゃんは」

 ツルマの唇は、ただ二人の間の空気だけを震わせた。

 止まっていた時間が再び動き出した。彼の視線の先、チクサの目がゆっくりと再び開かれた。

 チクサのつぶらな瞳が、じっとツルマを見上げている。

「チクサちゃんはずっと、俺のアイドルだよ」

 ツルマは限りなく優しい声を出すように努めて、そう言った。その瞬間、彼女の瞳からはらりと新たな涙がこぼれた。

 彼がそっと一歩後ずさると、チクサは目にいっぱいの涙をためたまま、うん、と幸せそうな笑みを浮かべて頷いた。

「チクサちゃん」

 ツルマはジャケットの内ポケットに入っていた財布を取り出し、その中から、大事に仕舞ってあった一枚のチケットを、そっとつまみ上げた。

「……俺、チクサちゃんと再会したあの日、握手会できみと会うつもりだったんだ。三年間、母さんに気付かれないようにお金を貯めて、やっと、この一枚だけ手に入ったからさ」

 照れ隠しに一度視線を逸らしてから、ツルマは改めてチクサの瞳をまっすぐ見据え、己の指に挟んだ握手券を、そっと彼女の前に差し出した。

「これで、俺と握手してくれないかな」

 チクサは驚いたようにその券を見て、そしてまたツルマの顔を見た。

「すごい。紙の握手券なんて持ってる人、初めて見た」

 泣き笑いの声で彼女は言った。

 そしてチクサは、ツルマから受け取った券を大事そうに自分のポケットに仕舞い込んでから、嬉し涙で濡れた顔に最高のアイドルスマイルを浮かべ、どうぞ、と応えた。

 ツルマがそっと差し出した右手に、静かに、優しく、チクサの右手が絡められる。その柔らかさにツルマが驚いた瞬間、チクサのもう一方の手が、ふわりとツルマの手の甲を包み込んだ。

 初めて触れた彼女の両手は、どこまでも暖かく、どこまでも純真に、ツルマの存在自体をも抱き締めてくれるような温もりをまとっていた。

「金山チクサです。いつも応援ありがとうございます」

 そう言ってチクサは、首を傾けてにこっと笑ってみせた。彼女の瞳に射止められ、ツルマはそのまま自分が溶けてしまいそうな心持ちがした。

 それから二人は、強く手を握り合ったまま、色々なことを話した。今日までのこと。これからのこと。自分のこと。二人のこと。

 それはとても幸せな時間だった。何分か、何十分か、ひょっとしたら何時間も、二人はずっと手を握り合っていた。

 好きだ、とは一言も言えなかった。チクサにそれを言わせてはいけないと思った。

 アイドルは、恋愛をしてはならないのだ。

 しかし、ツルマは感じていた。二人の気持ちが確かに繋がっていることを。

 二人の心はひとつだった。このまま時間が永遠に止まればいいのに、とツルマは思った。


 だが、天が二人に与えた束の間の逢瀬の時間は、二人の姿を探して礼拝所に飛び込んできた秘書の男性の言葉で、儚くも崩れ去ることになった。

「チクサさん、ツルマ君! 大変です!」

 握り合っていた手を慌てて離し、ツルマらが振り返った先で、男性は息を切らして告げた。

「ツルマ君のお兄さんが……暴漢に襲われ、病院に」

 瞬間、ツルマの頭はこの空間よりも真っ白になった。

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