第14話 エースオブエース
ゆるりと煙を吐き出し、男がクリスを手招きする。クリスは内心、今夜もまだ解放してくれないのかと思ってうんざりしたが、そんな本音をおくびにも出さないままバスローブ姿で男の隣にもぐり込んだ。男と過ごす時間が長く続くことを強く望んでいるかのように、うっとりと瞳を輝かせて。
東海ミリオンの不動のトップ、エースオブエースにしてセンターオブセンター。48million全体の人気投票でも全国第三位という神の領域にあるクリスにとって、好きでもない男の前で恋する乙女のような恍惚の表情を作ってみせることなど赤子の手をひねるよりも容易い。
「聞いたかね。金山チクサのこと」
クリスのしっとりと濡れた髪を片手で弄びながら、男は出し抜けに問うてきた。彼女の知らない名前だった。
「だあれ?」
クリスが無垢な子供のような声を出して応えると、男は彼女の身体を太い腕で抱き寄せ、得意げになって話し始めた。男の加齢臭と電子煙草の嫌な匂いがクリスの鼻孔を刺激したが、彼女は嗅覚が存在しないかのように、蕩けるような表情を作ったまま男の顔を上目遣いに見上げた。
「お前は本当に何も知らんのだな。まあいい、アイドルなど無知なほうがかえってカワイイものだ」
そう言って男は、サイドテーブルに手を伸ばし、携帯端末の画面に何かの動画を表示してみせた。ひと目で素人が撮影したとわかる揺れの多い画面に、ひらひらした私服を着て東海ミリオンの曲を踊る女の子の姿が映し出されている。
「なにこれ? 誰の配信動画?」
「『オータム』のものではない。脱退処分になったアイドルが勝手にやっている配信だが、これが案外、民衆の注目を集めているようだ」
「ふうん……」
クリスはそんなものに全く興味はなかったが、それでも男の機嫌を取るために真剣に端末の画面に見入ってみた。踊っているのは、艶やかな黒髪と白い肌のコントラストが眩しい、清純な印象をたたえた少女だった。年齢はクリスより二つ三つ年下だろうか。
脱退処分になったアイドルだと男は言っていたが、画面の中の彼女はとても火遊びをするようなタイプには見えなかった。もっとも、それを言うなら、クリス自身とて他人の目には相当に清楚な美少女に映っている自信があった。この自分が「オータム」のトップと寝ているなど、ファンは夢にも思っていないだろう。
「脱退処分って、この子、何をしたの?」
「
「バカみたい。そんな小物のことで将来をフイにするなんて」
東海ミリオンの総支配人を務めている錦という男の本性は、当然クリスもよく知っていた。あの男は年甲斐もなく清楚系のアイドルが好きで、目についたメンバーには片っ端から声をかけ、東海ミリオン内でのささやかな地位上昇と引き換えに夜の奉仕をさせているという噂だ。身の程知らずにも、クリスにもしつこく誘いをかけてきた時期があったが、地方支部の総支配人ごとき相手にする価値もないと思って適当にあしらっていた。言うまでもなく、既に本店トップの寵愛を受ける身であるクリスに対して、振られた腹いせに錦がくだらない復讐を仕掛けてくるなどということはなかった。
「小物だなんて言ってやるな。やつだって東海ミリオンの一般メンバーから見れば雲の上の存在には違いない」
「あなたと比べたら、誰だって小物よ」
男の胸板を指の先で撫でながら、クリスはあたかも自分が男に心酔しきっているかのような演技を続けた。
十三歳の頃から超人気アイドルとして世間を騒がせていたクリスも、今年の春には遂に十八歳になり、アイドル在籍期間の折り返し地点に差し掛かっていた。誰より功名心に燃える彼女は、地方支部にすぎない東海ミリオンのトップなどで終わるつもりはなかった。クリスの野望はあくまで、人気投票で全国一位の座を奪い取り、アイドル卒業後も芸能界のスーパースターとして君臨し続けることだった。
東京ミリオンへの栄転の誘いを彼女が断り続けているのも、中京出身のアイドルが東海の看板を背負って輝くという、地場のファンが信奉しやすいストーリーをなぞり続けるためであった。兼任扱いで東京ミリオンのステージに立つことは構わないが、もし完全に東海ミリオンを離れるということになれば、これまでに獲得してきたファンを大幅に失うことにも繋がりかねないのを彼女はよく理解していた。東海ミリオンに籍を置いたまま、人気投票で全国を制する。それが栄クリスの思い描く理想的なビジョンであった。
そんな彼女からすれば、金山チクサという無名アイドルが錦総支配人の誘いを断ったという話は、愚の骨頂としか思えなかった。もちろん、女なら誰だって、好きでもない男とベッドを共にするのは苦痛に決まっている。しかし、それと引き換えに得られるものを思えば、妥協して身につけるべき処世術の一つではないか。無名の域を脱せずにいたのであろう金山チクサにとっては、錦のような小物が左右できるポジションでさえ千載一遇のチャンスだったはずだ。
きっと、歴史に名を残した名アイドルも、ネットワーク以前の時代のアイドルも、皆、女性として大切なものと引き換えにスターダムをのし上がってきたのだろうとクリスは考えていた。「スプリング」の監視システムがドミトリー全域に目を光らせている現代でさえ、このホテルのスペシャルスイートのように、監視の死角として公然と整備された場所があるくらいなのだ。人間のゴシップ記者がカメラを片手にアイドルを追い回していた時代など、自由恋愛も枕営業もしたい放題だったに違いない。
「……バカな子」
金山チクサへの若干の同情を含んだ感想をクリスが口から漏らしたのは、男に媚を売る上での計算ではなく、彼女の本心に基づいてのことだった。
男はクリスの肩を抱いたまま、長い時間をかけて白い煙を吐き出し、そして今夜の本題を唐突に告げた。
「お前、この子と対決しろ」
「対決?」
「そうだ。金山チクサの東海ミリオン復帰を懸け、彼女とお前との公開対決イベントを組む」
男は自信満々の口調でそう宣言した。「オータム」のすべてを支配するこの男が、何か新しい金儲けのネタを思いついたときには決まってそんな口調になるのをクリスはよく知っていた。
「民衆の間では既に、彼女を擁護する声が全体の半数ほどにも達しているという。一支部の中で起きていることとはいえ、このまま世論を放っておいたら『オータム』に対する批判にも繋がりかねない。彼女には救済のチャンスを与えてやらねばならん」
男はそう断言したが、クリスにはそこでどうして自分が駆り出されるのかわからなかった。
「それがどうして、わたしとの対決なの?」
「わからんか。民衆の半分が金山チクサ擁護派なら、もう一方の半分は否定派だ。そもそも、一度ミリオンからパージされた者を復帰させてやった事例など過去にはない。よほどの障壁を乗り越えて戻るのでなければ、否定派のほうの民衆は納得しない」
彼の意図をクリスはようやく理解した。中央政府以上の権力を持つとも言われる巨大組織を牛耳っているだけあって、やはりこの男はただの肥えた豚ではない。民衆の心を掌握することに長けた彼は、金山チクサを認める者と認めない者、その双方を納得させる状況を作り出そうとしているのだ。
「
男に調子を合わせて台詞をころがしながら、クリスはその企画を本気で面白いと感じ始めている自分に気付いていた。無謀なドン・キホーテを迎え撃つ絶対王者として取り立てられるのは、彼女自身にとっても決してつまらない話ではない。
「そんな上等なものにはならんさ。十中八九、彼女がお前に勝つことなどありえない。お前の役目はただの舞台装置だ。金山チクサに引導を渡すためのな」
そう言って、男はまた美味そうに煙をくゆらせた。
「『オータム』が規則を覆すことはしない、と声明を出して黙らせるのは簡単だ。だが、民衆の心を繋ぎ止めるためには、我々が寛容な心の持ち主であることを常に見せつけておかなければならない。クリス、お前もトップを目指すなら覚えておけ。上に立つ者は公平である必要はないが、公平だと下に思わせておく必要はあるのだよ」
そこまで言ってから、男は電子煙草をサイドテーブルに放り、クリスの細い身体を両腕で己の腹の上に抱き上げてきた。バスローブがはだけて肩から落ちるのを彼女は押さえもしない。
「金山チクサは公正な勝負の場で果敢に戦ったが、惜しくも夢破れ散った……そういうストーリーなら民衆も納得する」
男はアルコールと煙とその他諸々の入り混じった口臭を吐き出し、クリスの唇を求めてきた。クリスは頭のなかで嗅覚と味覚の一切を遮断し、支配者の求めるままに舌を絡めた。
「ほんとに、腹黒いお人」
「トップに駆け上がるため、その私に中学生の頃から色目を使ってきたのは誰かね?」
男の脂ぎった指がクリスの白い首筋を這う。まだ夜は長い。
「クリス……お前はこの国で最高のアイドルだ」
今夜二度目の男の愛撫に耐えながら、クリスは動画で見た金山チクサの笑顔を、歌を、ダンスを思い返していた。可愛らしい私服をひらひらと翻し、時に激しく、時にたおやかに、曲に合わせて揺れる華奢な身体。絶妙のタイミングで観客に
幾万人の有象無象を見てきたクリスの目には、チクサは掛け値なしに魅力的なアイドルと映っていた。東海ミリオンはおろか、東京ミリオンの上位メンバーにすらあれほどの輝きを放つアイドルはそうはいまい。
だが。
「クリス……可愛いぞ、クリス」
男のかすれた声がクリスの耳に醜悪な残響を残す。野望の
そう、自分はこの国で最高のアイドルだ。金山チクサが何者であっても、自分に勝てるはずがない。
彼女とて、ドミトリー入りしてからの五年間、ひたすらに房中術だけを磨いてきたわけではない。歌唱。ダンス。トーク。オーラ。何をとっても、この国のアイドルの誰にも負けない自信があった。
エースオブエースに手抜きは許されない。金山チクサがこの対決にどれほど本気で夢を懸けてこようとも。
いや、本気の夢が懸かっているからこそだ。情けをかけるのは自分にも相手にも失礼というもの。最大限の敬意を払い、全力で叩き潰す。
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