第11話 おとぎ話

 大事件が起こったのは、兄が名付けたチクサの配信チャンネル「チクサ推し」が開設四日目を迎え、登録者数が一千人を突破した木曜日のことだった。

 この日、ツルマらはチクサの三回目の路上ライブを決行した。一回目より二回目、二回目より三回目と、少しずつだが足を止めてくれる観客の数は増えており、そのことに喜ぶチクサの顔を見るのがツルマもまた嬉しかった。何か変わったことをしている女の子がいるという噂はネットワーク上でも広く拡散されたようで、ライブの様子を収めた配信動画にアクセスしてくれる人は現実での観客の何十倍にもなっていた。

 警備のヒューマノイドに追い出されないように、二回目からは音楽とマイクの音量をかなり落とさなければならなかったが、明るさと可愛らしさに溢れるチクサのパフォーマンスはそれを補って余りあるほどの眩しい魅力を観客に放っていた。どこで調べたのか、警備AIが考える「大音量」に抵触しないギリギリの音量を兄が調整してくれたので、あれからチクサのライブがヒューマノイドに止められることはなかった。

「わたし、皆さんの前でアイドルをやれて、すっごく幸せです。次は本日最後の曲です」

 観客のほうも慣れたもので、チクサの台詞の前半部には肯定の歓声が、後半部には「ええー」と惜しむ声が一斉に重ねられた。ツルマは実際に生のアイドルコンサートを見たことは今までなかったが、「オータム」が公式配信しているコンサート動画を通じて、そうした声の掛け合いが現場の醍醐味であることは知っていた。

 だが、最後の曲のイントロが流れ始め、周囲の盛り上がりが最高潮に達しようという瞬間、

「チクサ!」

 ツルマの耳にも聞き覚えのある、厳格な響きをまとった太い声が、雑踏の向こうから砲弾のように飛んできたのだ。

「お、お父さん」

 さあっと狼狽の色に変わったチクサの声をマイクが律儀に拾う。周囲の観客からの注目を浴びながら、チクサの父親は秘書らしき男性をはべらせて若者達の前に出てきた。

「このバカ娘が、何をやっとるか!」

 あまりの勢いに、ツルマも兄も、彼がチクサに向けて振りかぶる腕を止めに入ることができなかった。間に合わないと知りながらも駆け寄ろうとしたツルマの眼前で、かわりに彼の腕を後ろから押さえたのは、誰あろう秘書の男性だった。

「先生、手を上げるのはいけません。区民の皆さんが見ておられます」

 チクサの父親は秘書の方を振り向いてから、ぐっと一声唸り、「わかっとる」と吐き捨てて腕を下ろした。ツルマはその一部始終を己の目と端末の画面ファインダーに映しながら、何もすることができなかった。兄に視線で助けを求めると、兄はそっと音楽を止めながら、チクサと父親、そして観衆の様子を見渡し、様子見の姿勢に入っているようだった。

「お父さん、あの、ごめんなさい」

 マイクを持つ手を下ろし、がたがたと体を震わせながらチクサは父親を見上げている。父親は傍らに立つ秘書に向かって、アレを出せ、と命じた。秘書がノートサイズの端末を彼に手渡すと、彼はその画面を叩いて何かを表示させ、チクサの眼前に突きつけた。

「何だ、この記事は! お前はどこまで恥知らずなんだ!」

 ツルマの位置からは端末の画面は見えなかったが、その瞬間に青ざめたチクサの表情を見れば、相当酷い内容が書かれていることは容易に察せられた。

「……ち、違うの、わたし、そんなんじゃ」

「何が違うというんだ。『脱退アイドル、同年代男子と白昼堂々のお遊戯会』……お前の顔と名前はおろか、私のことまで出ているんだぞ!」

 そして、彼は激怒の表情をふいにツルマのほうにも向けてきた。携帯端末を構えたままのツルマの前に、彼はずかずかと歩み寄ってきて、

「貴様か。チクサとくだらん遊びをやっているのは」

 と、ツルマから一切の反論の機会を奪う勢いで凄み、ノート端末の記事を彼の前にも見せつけてきた。そこには、読解することを脳が拒むほどの、あまりに酷いバッシングの文句が踊っていた。ツルマがかろうじて受け入れることができたのは、「渦中の元アイドル、金山チクサの父親は、区会議員の金山コウゾウだ」という客観的事実を述べる一文だけだった。

 もちろん、この記事は、誰か人間が悪意を持って執筆しているわけではない。AIがひとりでに情報を取捨選択し、ニュースの読者に受けそうな文面を構成しているだけにすぎない。そのくらいのことはツルマも知っていたが、それでも、醜悪な言葉を並べた記事に対する怒りで自分の血が沸騰しそうになるのを感じた。

「二度と私の娘に近付くな。くだらん動画配信とやらもすぐに止めろ」

 ツルマは彼に言い返したいことが山のようにあったが、猛々しい剣幕に押されて口を開くことができなかった。ちらと視線をやると、チクサもまた、両手を胸の前で合わせて震えていることしかできない様子だった。

 兄もどこか諦めたような顔をしている。終わった――。チクサの目から涙が溢れるのを見て、ツルマの喉にも熱い嗚咽がこみ上げてきた、その時。

「オッサン。そこまで言わなくてもいいじゃないかよ」

 思わぬところから救いの手が差し伸べられるのを、ツルマの耳はとらえた。

「そうだそうだ。アイドルがアイドルやって何が悪いんだよ!」

 事態を静観していた観客達が、一人また一人と声を上げ始めたのだった。チクサの父親は彼らの方へ首を向け、「娘はもうアイドルではない!」と怒りの声で一喝した。

「これは私の家庭の問題だ。他人が口を挟むな!」

 彼は怒りに肩を上下させている。だが、周囲の他人達は、他人であるがゆえか、怯まない様子で口々に野次を飛ばし続けた。

「そういうの虐待って言うんじゃないですか」

「見ろよ、こんな可愛い子泣かせて、あんたの方こそ恥ずかしくないのかよ」

「次の選挙で投票してやらねえぞ!」

 最後の若者の一言が発せられたとき、高級スーツの肩がびくりと震えたように見えた。

「そうだ! 子供にやりたいことをやらせない議員なんか落ちてしまえ」

「AIの言いなりのお前らより、チクサちゃんの方がよっぽど立派だぞ!」

 無責任に囃し立てる観衆達を前にして、チクサの父親が元々赤かった顔を更に真っ赤にしていくのがツルマにも見えた。スーツの袖から覗く拳は固く握りしめられ、彼の腕全体が怒りでわなわなと震えているのがわかった。

「先生、先生」

 男性秘書が彼の背後から何か耳打ちをしていた。ぐうう、と声に出して唸ってから、彼は握っていた拳をぱっと開いた。

「お父さん」

 そのタイミングを見計らっていたのだろうか、チクサがすっと父親の前に歩み出て、涙声のまま告げた。

「わたしに、このままアイドルをやらせてください。お願いします」

 華奢な体を震わせながら深々と頭を下げる娘。周囲を取り囲む無数の区民達。区会議員はこめかみを片手で押さえながら周囲の状況を何度も見回し、自分の中の何かと戦っているような難渋の表情を浮かべていた。

「先生。ここはどうか」

 秘書がまた口を開いた。チクサの父親はついに、苦虫を噛み潰したような顔で大きく舌打ちをしてから、「勝手にしろ」と言い放った。

「門限は夜七時だ。それを越えることは許さん」

 父親の言葉の意味が理解できた瞬間、チクサがはっと息を呑み、またはらりと涙をこぼすのをツルマは見た。誰もが静まり返ったその現場で、チクサの父親は静かにきびすを返した。

「君、今後この時間は娘の見張り役をしろ。娘が二度と異性交遊などに手を染めんように」

「かしこまりました」

 秘書の男性はツルマらにも軽く礼をしてから、泰然と歩き去っていく雇い主のあとを追った。

 ――二度と、だって。一度もしてないっての。

 ツルマは心の中でそう呟き、はっと気付いて、状況をリアルタイムに捉え続けている携帯端末をチクサの方に向け直した。「よかったな、チクサちゃん」と多くのファンの声に囲まれながら、チクサは片手で涙をぬぐって、「これからも応援よろしくお願いします」と彼らにお辞儀をしていた。


 チクサが何十人もの観客と握手を終えた頃には、日は暮れはじめ、秋の夕焼けがどこか淋しげに灰色の街を覆っていた。ツルマは音響機器アンプリファイアを収めたバッグを持ち、チクサと並んで高層歩道を歩いていた。兄は少し後ろをのんびりと付いてきてくれていた。

「チクサちゃん、今日は何も助けれなくてごめん」

 ばつの悪さを感じながらツルマが改めて謝ると、チクサは、ううん、と小さく首を振った。

「結果的にお父さんに許してもらえたから。ファンの人達には感謝しなきゃね」

 もちろん、ツルマくんとお兄さんにも。そう言ってチクサは、一度は涙を滲ませていた顔にとびきりの笑顔を浮かべてみせる。彼女の微笑みをじかに見るのは、ツルマには今でもどこか照れくさかった。

「チクサちゃんはさ。どんなアイドルになりたいの」

 バッグを後ろ手に回して、ツルマがふと尋ねてみると、チクサはオレンジ色に染まる空を見上げて答えた。

「わたしがずっと夢見てたのは、レナちゃんみたいなアイドルになること」

「……それは前にも聞いたよ。俺、その子のこと知らないからさ」

 小学校の卒業の日、チクサがポニーテールを揺らして宣言したのがその名前だった。そのときのツルマには、昔の人によくありそうな名前だな、という感想が浮かんだ以外、何もわからなかった。

 チクサは少し考えるような素振りを見せ、自身の携帯端末を取り出し、白い指で軽く操作してからツルマに渡してきた。

「これって?」

 チクサの端末の画面に映っていたのは、ボロボロになった紙の本の表紙だった。表紙以外のページもある。紙の本を素人がただ撮影しただけのような、とても電網書籍とまでは呼べないしろものだ。どのページを見ても、誌面のあちこちが破れ、印刷は色あせてほとんど読めなかった。小学校の頃に見学で行った資料館の所蔵品がこんな感じだったな、とツルマは思った。

 表紙に戻ってみると、おそらくは青系の色をバックに、髪に花飾りをつけた一人の女の子が、どこか儚げな微笑をたたえて写っているのがわかった。下の方にかぶせられた「Graduate」という文字がかろうじて判読できる。グラデュエート……卒業。

「ここに写ってるのが、レナちゃんなの?」

 ツルマの直接の質問には答えず、チクサは遠い空を見つめたまま口を開いた。

「わたしのお母さんが、お母さんのおばあちゃんから聞いた話なの。そのおばあちゃんは、そのまたおばあちゃんから。そのおばあちゃんも、そのまたおばあちゃんから……ずっと聞かされてきた話なんだって」

 むかしむかし、とおとぎ話のように前置きをして、チクサはゆっくりと歩を進めながら語り続ける。

「あるところに、レナちゃんって女の子がいたの。アイドルにすっごく憧れる女の子。でも、その時代、アイドルはまだ簡単になれるものじゃなかった。レナちゃんの住んでた街には、アイドルグループの拠点すらなかった」

 チクサの話は、ツルマの頭にはひどく遠い時代のエピソードのように受け止められた。アイドルグループが国じゅうに存在してなかったのなんて、一体いつの時代の話だったっけ。江戸時代くらいだろうか。その頃に写真なんてあったのかな。

「地元を離れて東京に出なきゃ、アイドルの夢は叶わない。レナちゃんは一度はアイドルを諦めかけてたの。そんなとき、初めてレナちゃんの街でもアイドルのオーディションが開かれるってわかった。……それが、この国で初めて、東京のグループが他の地方に支部を開いた瞬間だったんだよ」

「そ、それって、いつの時代の話?」

 ツルマが質問を挟んで話の腰を折ってしまうのを、チクサは優しく「知らなぁい」と受け流す。

「……そのオーディションに合格して、レナちゃんは念願のアイドルになったの。そうしたら、そのグループの中でも大変なポジション争いがあってね。何度も何度も泣いたり、レッスン中に倒れたりもしながら、アイドルになったからって終わりじゃないんだ、ここからが本当の戦いなんだ、って歯をくいしばって頑張って、レナちゃんは少しずつ、ポジションを上げていったの」

 チクサの言葉には熱い感情が込められているように聴こえた。きっと、チクサ自身も東海ミリオンで似たような経験をしてきたんだろうな、とツルマはしんみり思った。

「アイドルを続けるのは、思ってたほど簡単じゃない。地元のグループでやっとエース格まで上り詰めたあとは、今度は東京にいるたくさんの人気メンバーとの選抜争い。ファンの応援だけが心の支えだった。何年も辛い思いを繰り返して、レナちゃんはやっと、東京から九州まで、全部の支部のメンバーが集まった人気投票で、ファンから神様って呼ばれるくらいの順位まで上り詰めることができたの」

 すごいシンデレラストーリーだ、とツルマも思った。その時代のアイドルが何人いたのかはわからないが、とにかく、レナちゃんが人並み外れた偉業を成し遂げたのだということは、チクサの語り口からよく伝わってきた。

「そして、レナちゃんの卒業コンサートの日。最後にひと目、レナちゃんの姿を見送ろうと、会場には国じゅうから何万人ってファンが駆けつけたの。たった一人の女の子のために、何万人だよ。卒業コンサートのクライマックスでは、ひろーい会場が、お客さんの手持ち照明サイリウムで、レナちゃんのイメージカラーのグリーン一色に染まって。綺麗だったんだろうなあ……」

 最後の部分はおとぎ話の筋ではなくチクサの感想だった。チクサはうっとりした表情を浮かべてツルマに振り返り、出し抜けに、「わたしの名前ね」と言った。

「漢字では、千、二千の千に、植物の草って書くんだけど……。その一面のサイリウムの光景をイメージして、お母さんが付けてくれたの」

 楽しそうに話すチクサの笑顔の向こう、ツルマの脳裏にもその光景が目に浮かぶようだった。幾万のファンに名残を惜しまれ、ガラスの靴を脱いだシンデレラ。夜闇に包まれたコンサート会場を照らし出す無数の緑色。その一本一本が、会場に集まった一人一人のファンの思い……。

「いい名前だよね」

 ツルマは思わず呟いていた。チクサは満面の笑みをツルマ一人に向けて、うん、と頷いた。

「……わたし、ミリオンを追い出されるまでは、この時代に生まれてよかったって思ってた。レナちゃんの時代と違って、スタートラインには誰でも立たせてもらえる社会。もちろん、そこから上に行けるかは頑張り次第だけど。……でもね」

 気付けば夕陽はビル街の向こうに消え、夜のとばりが辺りを包んでいた。

「こうなってみて、わかったの。ゼロから本気で目指した夢じゃなきゃ、夢を叶えたなんて言えない。社会のルールでアイドルになったって、そんなの誰かに与えられた目標にすぎないんだ、って」

 ツルマの隣を歩くチクサは、この逆境に目をきらきらと輝かせていた。

「……チクサちゃんも、レナちゃんみたいに頑張りたいんだ」

「うん。レナちゃんみたいなアイドルになるっていうのは、死んだお母さんとの約束でもあるの」

 ツルマからそっと受け取った端末の画面を、まるで母の形見のように指で撫でながら、チクサは言う。

「わたし、絶対諦めない」

 ツルマもしっかりと頷いた。これから目指す道に何が待っているのかはわからない。だが、自分は必ず、チクサが望むアイドルになるまで彼女のそばで見届けようと胸に誓った。

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