第10話 インディーズアイドル

 金曜日、兄の帰りはいつもより遅かった。ツルマは勉強机スマートデスクに渋々かじりついて苦手な微分方程式の復習に取り組んでいたが、兄の帰宅を今か今かと待ち続けるのに気もそぞろで、目の前の数式など全く頭に入ってこなかった。

 今日は母が休みで自宅にいる日、すなわちツルマがチクサとの束の間の逢瀬を我慢して放課後すぐに帰宅せざるを得ない日だった。そのこともまたツルマの気持ちが落ち着かない要因の一つであったが、今それ以上に彼の頭を占めているのは、昼休憩の時間にJDC中京ブランチのキタガワ支社長から掛かってきたパーソナルラインのことだった。

『とにかくね、動画共有サイト。これを軸に考えてみたら、きっと何か見えてくると思う』

 と、キタガワは何世紀も前に栄華を極めたらしい文化の話をツルマに語って聞かせたのだったが、その内容はまるで今目の前にある連立線形微分方程式の解法のように複雑難解なものだった。かろうじて理解が及んだのは、とにかくそれを使えばチクサのアイドル活動を独力で世間に発信できるということくらい。そして、ただそれだけのことでも、ツルマにとっては大ニュースだった。

『チクサちゃんとお兄さんにも宜しくね。あ、くれぐれもダメだからね、ボクから聞いたってよそで言ったら』

 キタガワ支社長は通話の最後にかたく口止めを繰り返していた。きっと、大人の世界には色々なしがらみがあり、こうしてツルマらの手助けをしてくれるのにも危険がつきまとうのだろう。ツルマには、そんなリスクを冒してまで彼がヒントを授けてくれたことが何より嬉しかった。

『チクサちゃんがアイドルできる道がありそう! 兄ちゃんに確認したらすぐ伝えるよ』

『ほんと? 嬉しい!』

 そんなテキストメッセージをチクサと交わしあったのが数時間前。そして、母と二人の夕食を終え、ツルマが自室で数学の課題に取り組み始めてからも、兄はまだ帰宅の気配を見せないのだった。帰宅がいつになるかメッセージで尋ねてみると、北海道からの帰りのリニアに乗っているという。

「北海道?」

 相変わらず行動の読めない兄だと思った。北の大地がチクサのアイドル再デビュー計画に関係しているとも思えないが、兄とて四六時中そのことばかりを考えてくれているわけでもないだろう。元々趣味の多い人なのだから、とツルマは納得し、こうして記号と変数の大群と格闘しているというわけだった。

 ――古典力学なんてカンタンだよ、あんなもん。頭のなかで物理現象と微分方程式が繋がれば、あとはスイスイと……。

 と、いつだったか兄がさらりと言ってのけたフレーズがツルマの頭に蘇る。要は、微分方程式をしっかり押さえていれば物理学の理解も早くなるという旨を兄は述べていたと思うのだが、そもそも物理との繋がりうんぬん以前に目の前の式の数学的解法すらスムーズに思い浮かべられないツルマには、なんだかまるで別次元の話をしているようにしか思えなかった。


 夜八時頃、ようやく兄が帰宅する物音がしたので、ツルマは跳ねるように自室からリビングへ飛び出した。

「兄ちゃん! 微分方程式教えて」

「あ? 微分方程式?」

 なんだお前、そんな簡単なもので躓いてるのか。そう言ってツルマの部屋へ直行する兄の姿を見て、母はにこにこと機嫌よく笑っていた。ツルマが数学と全く関係ない話のために兄を防音ルームに誘い込んだとは、母は夢にも思っていないだろう。

「兄ちゃん、北海道なんか何しに行ってたの」

「ちょっと大学の用事でな。それより、何か新しいアイデアでもあるのか? さっきからソワソワしてるぜ」

 兄はツルマのデスクチェアに陣取って彼に人差し指を向けてきた。ツルマはベッドに腰を下ろして兄と向き合い、キタガワ支社長から教わった「動画共有サイト」というものの話を兄に必死で語って聞かせた。

 兄はふんふんと頷きながらツルマの話に耳を傾けていたが、説明が一段落したところで、何でもないようにさらりと言った。

「できると思うぜ。要は企業や学校のコマーシャル配信と同じだろ」

 ツルマの勉強ノートをぱらぱらとめくって弄びながら、兄は言葉を続ける。

「俺の卓上端末インターフェースをポートにして、ネットワーク上に配信チャンネルを開けばいいんだ。確か放送権を取るのにいくらか金がかかるはずだけど……まあ、俺の貯金で何とかなるだろ」

「ウソ。兄ちゃん、そんなにあっさり金まで出してくれるの」

「出世払いだから気にするな。クライアント様は将来のトップアイドルだしな」

 技術的な部分は任せとけ――。そう言って太鼓判を押す兄の姿を見て、ツルマは心の底から、この兄が居てくれてよかったと思った。


 チクサとの話はすぐにまとまった。大昔の「動画共有サイト」にならい、チクサのアイドルパフォーマンスを世間に動画で発信するというプランを聞いて、端末の向こうのチクサは弾むような声を出した。

「わたし、やってみたい! なんだかワクワクする」

 ただ、目下の課題は、動画配信が技術的に可能だとしても、そのチャンネルの存在をどうやって人々に知ってもらうかということだった。「動画共有サイト」は一般人の配信動画が大量に集まっている場所で、そこに動画をアップロードするだけで多くの人の目に留まる仕組みになっていたらしいが、現代のネットワーク上にはそんな奇妙な場所はない。動画配信は、「オータム」やJDCのような芸能プロダクションや、企業、学校、行政機関など一定の知名度を有する組織が行うからこそ人目に触れるのであって、元アイドルとはいえ無名の個人にすぎないチクサの配信をわざわざ見に来てくれる人がそれほどいるとはツルマにも思えなかった。

 だが、ここでも兄の頭脳が役に立った。ツルマとチクサの音声通話を横で聞いていた兄は、こともなげに、「アイドルなんだからライブやればいいじゃん」と言ってきたのだ。

「ほら、路上に立って宗教の話とかしてる人達がいるだろ。あんな感じでチクサちゃんが路上で喋るなり歌うなりして、その様子を端末で撮って配信するっていうのはどうよ」

 兄の提案にツルマもチクサも驚嘆の声を上げた。兄がツルマの手から端末を受け取り、チクサに追加で語ったところによると、昔の歌手にはそんな手段からプロデビューを成し遂げる人も少なくなかったらしい。

「ネットワーク上で知名度を上げようと思っても、まずはある程度の人に知られなきゃいけないっていうハードルがある。道行く人を現実につかまえることが最初は大事だと思うぜ」

 それに、街で話題になればひょっとしたらメディアも取り上げてくれるかもしれない。そう言って兄はプレゼンを締めくくった。

 土日は区議会も休みなので、チクサは父親の監視下で自宅謹慎を強いられることになる。その間にツルマら兄弟で動画配信に必要な準備を整えておくことにして、チクサには心の準備だけをお願いし、作戦会議は滞りなく終わった。

「で、微分方程式はいいのか?」

 それから始まった兄のしごきも、今のツルマにはどこか楽しかった。


 そして月曜の放課後、遂にチクサのインディーズアイドル計画はスタートした。フリルのついたブラウスに黒のベスト、赤のチェックのスカートという私服姿でツルマらとの待ち合わせの駅に現れたチクサは、東海ミリオンの正規のコスチューム姿でこそないものの、清楚で可憐なアイドルらしい輝きを全身にまとわせていた。艶やかな黒髪は丁寧に編み込まれ、ハーフアップの形で上品にまとめられている。

「チクサちゃん」

 可愛い、と素直な感想を口にすることをツルマが躊躇していると、チクサはナチュラルメイクの頬を赤く染めて、「恥ずかしいな」と片手で片手を握った。

「わたし、本当に街中で歌うの……?」

 数百人、数千人のファンの前でスポットライトを浴びることには慣れていても、孤立無援の路上ライブとなれば緊張の種類が違うらしい。ツルマが励ましの言葉を考えている内に、兄が先に口を開いた。

「もうプロジェクトは走り出したんだから、今さら恥ずかしいとか言いっこなし。あ、そうそう、配信チャンネルの名前は『チクサ推し』にしといたぜ」

「ええっ!? 恥ずかしいですよ!」

「こういうのはわかりやすい方がいいんだよ」

 兄は二人を先導するようにして歩き出した。ツルマがごくりと唾を呑み、チクサに「行こう」と声をかけると、チクサも意を決したような表情で、うん、と頷いて早歩きの一歩を踏み出した。


 ドミトリー外の一等地に建つサンシャインタワーの壁面の看板サイネージには、華美な装飾に彩られて48millionのトップメンバー達のランキングが次々と表示されている。敢えてそれを見上げる位置の歩道広場ペデストリアンデッキ に陣取り、ツルマら三人は少し冷たい風の下で準備を進めた。人通りの多いエリアだ。多くの人は彼らの様子を気にも留めず通り過ぎてゆくが、中には彼らを遠巻きに眺めながらヒソヒソ話をしたり、何が始まるのかと直接聞いてくる人達もいた。兄が如才なく客あしらいを担当する。

「超人気アイドルの凱旋ライブですよ。ほらチクサちゃん、お客様にご挨拶して」

「あっ……あの、金山チクサといいます。このあと歌うので、聴いていってください」

 そんな調子でチクサが挨拶をするたび、道行く人々は好悪様々な反応をみせた。「いや、いいです」と足早に通り過ぎる人、ドミトリーの外に女の子がいることに好奇の視線を向けてくる人、そしてチクサに興味を示してライブの開始を待ってくれる人。

 若い男性を中心に十人ほどが集まってくれたところで、兄が遂にライブの開幕を宣言した。

「いよいよ、チクサちゃんが歌います! ライブの最後には握手会があるのでお楽しみに」

 晴天の霹靂のような後半の言葉に、チクサが「えっ!?」とびっくりした顔になって兄の顔を見返したが、兄は構わず端末を操作して音楽をスタートさせた。チクサの足元に設置された音響機器アンプリファイアから東海ミリオンの最新曲のイントロが流れ始める。携帯端末の小さな画面にチクサの姿を収めるのはツルマの役目だった。兄は自身の端末から自宅のインターフェースを遠隔操作し、ツルマの端末が映した映像をネットワーク上でリアルタイム配信する作業を進めていた。

 端末の画面ファインダー越しにツルマが捉えるチクサの姿は、まだどこか表情をこわばらせ、寒さのせいか緊張のせいか足元も震えているように見えた。スタンドに設置されたマイクに向かって、チクサがおずおずと手を伸ばす。ツルマは彼女の様子をはらはらしながら見守っていた。大丈夫なのかな。ちゃんと歌えるのかな。

 だが、次の一秒で、ツルマはそんな自分の心配が的外れも甚だしいものだったことを知る。

 大音量の音楽の中、マイクを手にしたチクサが、すっと息を吸って一瞬目を閉じた。ツルマの画面の中で彼女の瞼が見開かれた、その瞬間。

「金山チクサです。今日は楽しんでいってください!」

 さっきまでの落ち着かない様子からは一変し、チクサはよく通る声と満面の笑みで観客に告げた。そして、くるりとターンして曲のメロディーラインを歌い始める。

 明るく。

 激しく。

 美しく。

 透き通るようなチクサの声が、正確無比な音程と熱情たっぷりの表現で歌詞を紡ぐ。スピード感溢れる振り付けに彼女の黒髪がたなびき、スカートがひらりと揺れる。最早、マイクを持つ前までの、恥ずかしさに身を捩らせる彼女の姿はどこにもなかった。

「……チクサちゃん」

 思わず彼女の名を呟いてから、配信動画に自分の声が入ってしまうことに気付いてツルマは慌てて唇をかたく結んだ。それでも思わず感嘆の声を漏らしそうになるくらい、目の前のチクサは輝いていた。

 僅か十人ほどの観客を前に、溢れんばかりの笑顔を振りまき、曲に合わせて腕を振りながら歌い続けるチクサ。彼女の視線レスが端末の画面を通過してツルマの瞳に突き刺さったとき、彼の全身に電撃が走った。これが――!

 ここ一週間ばかり、チクサの存在が身近になりすぎたためにツルマの頭から抜けていたことがある。音声通話やメッセージで言葉を交わし、幼馴染としての彼女の表情をじかに見続ける内に、ツルマの意識から知らぬ間に抜け落ちていた何か。それがこの一瞬で戻ってきた。ツルマは思い出していた。金山チクサが本質において何者であったのかを。

 これが――

 これが、アイドル――!

 二曲、三曲と音楽が切り替わり、チクサが予定のセットリストを歌い終えるまで、ツルマの目は彼女の姿に釘付けになっていた。気付けば足を止めて聴き入る観客はもとの三倍ほどに増えていた。最後の曲を歌い終え、チクサがびしりと振り付けのラストを決めたとき、人々の間からは割れんばかりの拍手と声援が巻き起こった。

「チクサちゃんの活躍は、実は皆さんの端末からも見られます! チャンネル登録してくれた方にはチクサちゃんの握手サービスがありますよ!」

 兄が調子よく声を張り上げると、ツルマと同い年くらいの若者達が我先にと人だかりの中から歩み出てきた。兄は自身の端末から彼らの端末に配信チャンネルのアドレスを送る操作をすると、頬を上気させたチクサの前へと彼らを順にいざなった。

「チクサちゃんっていうんだ。歌、よかったよ」

「ありがとうございます! これからも応援よろしくお願いします」

 ツルマは少し迷ったが、その握手会の様子をも端末に映し続けることにした。目の前で知らない男子達と嬉しそうに握手を交わすチクサの姿は、やや直視に堪えない部分もあったが、それよりもチクサのアイドルとしての姿が人々に認められているという喜びの方がツルマの中でも大きかった。

 だが、チクサが数人ほどの観客と握手を交わし終えたところで、警備のヒューマノイドが二機、人の波をかき分けて一同の前に進み出てきた。

『こちらで何をしているのですか。官有地での私的経済活動は禁じられています』

「経済活動してないっすよ。何も売ってないし、お金取ってないし」

 兄はぬけぬけとヒューマノイドらに言ってのけたが、今度は「大音量で音楽を流す行為も禁じられています」というので、はいはい、と言葉を引っ込めた。

『では、ただちに音響機器を撤去し解散してください』

「というわけで、皆さん、チャンネル登録のほうもお願いします! 今日握手できなかった方は次回、三倍の時間握手できるので」

 いつの間に用意していたのか、兄はチャンネルのアドレスを示す多次元マトリックスコードが印刷された紙を皆に配って、いそいそと機材を担ぎ上げてツルマとチクサにも撤退を促した。集まった観客達が名残惜しそうにチクサの名を呼んだりしているので、チクサはそのたびに彼らに視線を送り、「ありがとうございます」とお礼の言葉を繰り返した。

 メトロ駅でそれぞれの帰路に別れる際、チクサはこの上なく嬉しそうな表情でツルマに微笑みかけてきた。

「アイドルするって大変なんだね。でも、すっごく楽しかった」

「チクサちゃん、今までで一番可愛かったよ」

 隣に兄がいるのにもかかわらず、ツルマは少しの勇気を出してその言葉をチクサに贈った。チクサは気恥ずかしさそうに頬を染めた後、ありがとう、とツルマに言った。

「またしようね、ライブ。お兄さんも、ほんとにありがとうございました」

「礼は早いぜ。ここからが本番だから」

 兄とともに家路を辿りながら、ツルマは充実した達成感で胸をいっぱいにしていた。チクサが再びアイドルとして踏み出した輝かしい一歩が、まるで自分のことのように誇りに思えた。

 街中でこんな騒ぎを起こしていたら区会議員の耳にも入らないはずがない、という考えは、幸福に浸りきったツルマの頭にはまだ浮かばなかった。

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