第6話 芸能プロダクション
チクサと初めてパーソナルラインで会話を交わした次の日、ツルマは高校の授業が終わると、友人達との雑談も早々に切り上げてカレッジタワーを飛び出した。ゲートの前では、見慣れない黒スーツを野暮ったく羽織った兄が、予定通り彼を待っていてくれた。
「じゃ、行くか。憧れの彼女とのデートに」
デートじゃないだろ、と律儀にツルマが顔を熱くしていると、兄はそんな彼を先導するようにメトロ駅への道をつかつかと歩き始めた。
今後の行動計画について改めて話そうよ――。そんな意味のテキストメッセージを、朝の登校前にツルマが送信したところ、チクサは二つ返事で「デート」の誘いに応じてきた。昼休憩の時間にツルマが端末を確認して一人で舞い上がっていると、二人のメッセージのやりとりを大学のラボから傍受していたらしい兄が、保護者としての同伴をツルマに申し入れてきたのだ。
『チクサちゃんの今後のことを考えたら、たとえドミトリー外でも男と二人きりってのはマズイだろ』
兄の提案をツルマは素直に受け入れた。チクサと直接会えるのはもちろん天にも昇る心地に違いないが、自分は決して大昔のラブコメに出てくるような甘い逢瀬のために彼女に声をかけたのではない。金山チクサを再びアイドルの舞台に立たせること、それが今の彼の夢なのだから。
ツルマらが待ち合わせのカフェに着くと、チクサは既に店の隅のほうの席を確保して待っていた。彼女は鍔付きのニット帽をかぶり、パンツスタイルの落ち着いた格好をしていたが、ツルマに向けられた照れるような微笑は、アイドルとして歌い踊っているときの彼女と同じ輝きをたたえていた。
「改めまして、愚兄のヒサヤです」
チクサと二度目の対面となる兄がまず自己紹介をした。兄が同行してくれることは、ツルマが道中のメッセージのやりとりで伝えてあったので、チクサは戸惑うこともなく席から立ち上がって頭を下げた。
「金山チクサです。あの、昨日はちゃんとご挨拶できなくてごめんなさい」
「いいよいいよ、大変な状況だったしね。こっちこそ図々しく押し掛けちゃって悪いね」
兄は気さくな調子で「コイツ、二人きりじゃ君と何も話せなくなるから」とツルマをだしにしてチクサの笑いを取ってみせたあと、彼女の向かいの席に座るようにツルマに促した。
テーブルを挟んだすぐ向こうにチクサの顔がある。今日のチクサはニット帽の下、髪を片頬に添わせてまとめた大人っぽい髪型をしていた。さすがにツルマとじかに向かいあうのは緊張しているのか、彼女は口をきゅっと結んだまま伏し目がちに彼の顔を見返していた。ツルマもまた、自ら誘ったこととはいえ、自分の心臓の鼓動が握手会に向かっていたときの何倍にも高まるのを感じていた。
手のひらの汗をチクサに見えないようにズボンで拭き、ツルマは唾をのんで話を切り出す。
「あ、あの、チクサちゃん。これからのことなんだけど……」
「ツルマくん。先に注文したほうがいいと思う」
チクサの口から突っ込みの言葉が飛び出し、それから彼女は自分の発した言葉にあとから意識が追いついたように、小さくくすりと笑った。ツルマが顔面から湯気を立ち昇らせ、キョロキョロと専用端末を探して首を回していると、兄が横から「ここ、パッドないぜ」と助け舟を出してきた。
そうだった。チクサとデリケートな話ができるように、ツルマ自身が端末のAIに頼んで、おしゃべり向きのカフェを探してもらっていたのだ。
えっと、とどもっているツルマにかわり、兄が「すみません」と片手を上げてウェイターを呼んでくれた。その間、目の前のチクサは口元を隠してくすくすと二人の様子を見守っていた。
最近流行っているこうしたカフェの売りは、客が誰かに聞かれたくない話を気兼ねなくできるよう、可能な限り客席から電子機器を廃しているという点にあった。注文を取ってくれるのも人間のウェイターだ。ヒューマノイドと違って、録画機や録音機が仕込まれているかもしれないといった不安は限りなく小さい。
ツルマと兄がそれぞれの飲み物を頼み終えると、チクサはほぼ緊張がほぐれきったような柔らかな表情を見せて、「今日はありがと。わたしのために時間作ってくれて」と健気にお礼の言葉を述べてきた。
「そっそんな、こちらこそ」
「お兄さんも、ありがとうございます」
「いいってことさ。可愛い弟の女神のためだし」
兄の冗談めかした言い方に律儀に頬を赤らめているチクサを見て、ツルマは先ほどの認識を改め直した。アイドルとしての彼女と同じ輝きなんかでは利かない。今日の金山チクサは、これまでにツルマが観尽くしてきたどのコンサート動画の彼女よりも可愛かった。
じきに兄のコーヒーとツルマの炭酸が運ばれてきたので、緊張でからからの喉をひとまず潤してから、ツルマは改めて「これからどうしたらいいのかな」とチクサに切り出した。
「……うん。わたしも何か考えがあるわけじゃないの。でも、ミリオンにはもう戻れないんだろうな、って思ってる」
チクサは悲しげな顔をするでもなく、ただ淡々とした口調を作ってそう述べた。突然の脱退処分から僅か一日で、涙を見せずにこのことを彼女が言えるようになるまでに、一体どれほどの葛藤があったのだろうかとツルマは思った。自分のほうこそ泣きそうになるのを、奥歯を噛んでなんとかごまかした。
チクサがミリオンに居られなくなった理由そのものについては、ツルマは今朝からのメッセージでも問い質すのを控えていた。彼女の方から釈明してこないということは、絶対に言いたくない何かがあるのだと思ったからだ。それに、何があったのか知らずとも、自分が彼女の潔白を信じていればそれで十分だとも思った。
「チクサちゃんは、絶対アイドルを続けたいんだよね」
「うん。昨日ツルマくんに言ったのが本当の気持ちだよ。わたし、アイドルでいたい。ミリオンのメンバーじゃなくなっても」
「でも、一体どうしたら……」
情けない台詞を吐きながら、ツルマはチクサの力になると言いながら何も具体的な策が浮かばない自分が恥ずかしく思えてきた。とにかく顔を合わせさえすれば有意義な作戦会議ができると思っていたが、とどのつまり、自分は全くの空手なのだ。
兄はティーンエイジャー二人の様子を見守りながら黙ってコーヒーを啜っている。「具体的プランをお前かチクサちゃんが思いつくまでは手助けしないぞ」というのが彼が事前にツルマと交わした約束だった。
「ドミトリーの中ってね、大人の芸能人の
停滞した空気にくさびを打つように、チクサがまた口を開いた。しかし、続けて発せられた言葉は諦観の響きをまとっていた。
「そういうところに入れてもらうのも、ちょっと考えたんだけど……でもムリだなって。わたし、ドミトリーの中にはもう入れないから……」
切なさを隠しきれないチクサの声を聴きながら、ツルマは突如、自分の脳内で何かのパズルがかちゃりとはまるのを感じた。
「そうだ! チクサちゃん、それ、ひょっとしていけるかも」
「えっ?」
ツルマの脳裏に去来したのは、男子アイドルのプロダクションに入るといって転校していった中学の同級生のことだった。その時はさほど気にも留めていなかったが、改めて考えてみると、若年男子を集めたプロダクションなるものがドミトリーの内部に存在できるはずはない。未成年の男子はドミトリーに立ち入ることができないからだ。つまり、この国には、ドミトリーの外に社屋を構える男性芸能プロダクションというものが、少なからず存在しているはずなのだ。
という内容をしどろもどろになりながらツルマがチクサに伝え終わると、チクサはぱっと顔を輝かせて、「ツルマくん!」と彼の手を取ろうとしてきた。驚いたツルマが反射的に手を引っ込めると、チクサも自分の挙動に気付いて恥ずかしくなったのか、もじもじと片手で片手をさすりながらテーブルの下に両手を引っ込めてしまった。
しまった、握手してもらえばよかった――。ツルマがわけのわからない恥ずかしさと後悔に苛まれていると、それまで沈黙を保っていた兄が、そこでやっと口を挟んできた。
「ビンゴだな」
ツルマとチクサが目を向けると、彼はコーヒーのカップをソーサーの上に置いてから、おもむろに自分の端末を取り出した。
「そういう話になるんじゃないかと思って、実はピックアップしてきてある」
兄が端末をサクサクと操作してテーブルの上に置くと、とある高層タワーへの道筋を示すGマップがツルマらの眼前に3Dオブジェクトで浮かび上がった。「JDC」――国内最大級といわれる男性芸能プロダクションのブランチオフィスの一つだ。
「JDC……こんな近くにあるんだ」
国内各地で男子アイドルグループのプロモーションを展開するJDCは、各都市に巨大なブランチオフィスを構え、我こそはと望んで門を叩く少年達に徹底したレッスンを施していることで知られる。だが、それらがドミトリーの外に置かれているという事実はツルマにとって盲点だったし、まして中京オフィスがここから歩いても行けるほどの距離にあることは衝撃的だった。
「そう。どうする、行くか? チクサちゃん」
兄の問いかけが自分に向けられるやいなや、チクサはうんうんと首を振って答えた。さっきまでのチクサも十二分に可愛かったが、このアイデア一つで途端に目を輝かせた彼女はツルマにはまさしく太陽の女神に見えた。
「兄ちゃん、ひょっとしてスーツなんか着てきたのもそのため?」
「まあな。一人くらいちゃんとした大人がいた方がいいだろ」
そう言って兄は、さっそくウェイターを呼び、恐縮するチクサを押さえて三人分の支払いを端末決済ですませてくれた。
ドミトリーの内外を分けるのが白亜の巨壁なら、JDCの中京オフィスタワーはさしずめ白銀の金字塔だった。三人がエントランスで受付を済ませる間にも、男子アイドルやその卵らしき若者達、そしてミリオンを卒業して就職したばかりとみえる見目麗しい女性スタッフ達が慌ただしく建物を出入りしていた。
「こちらでお待ちください。すぐに支社長が参ります」
三人を応接室まで案内してくれたのは三十代くらいの女性だったが、この場に若い女の子がいることがよほど想定外なのか、チクサにしげしげと好奇の目線を向けているのがツルマにもよくわかった。
兄が四人がけのソファの一番奥に座り、チクサが遠慮がちに一番手前に座ったので、ツルマは少し迷ってから兄の隣に腰を下ろすことにした。
一分と経たず三人の前に現れたのは、ピンクのシャツに純白のジャケット、黒色のスモークサングラスという出で立ちをしたスリムな男性だった。ツルマが思い描いていたより随分と若く、へたをすれば先程の案内の女性よりも年下に見える。支社長のキタガワです、と彼は名乗り、ツルマらがソファから立ち上がろうとするのをジェスチャーで押さえてから自分も着席した。
「ようこそ、ジュニアのドリームを応援するJDC中京ブランチへ。プロダクション入りの面接ですよね。えーと、志願者はキミ……かな?」
支社長はツルマに歓迎の視線を向けて、白い歯を見せて笑ってみせた。ツルマは一瞬身体をびくっとさせてから、おずおずとチクサの方を腕で示した。
「僕じゃなくて彼女なんですけど……」
「ん? んん……?」
支社長はサングラスをくいくいとやってから、ようやく目の前に何がいるのか気付いたような顔になって、「えええ!」と仰々しく驚きの声を上げてみせた。
「女の子? なんでなんで、どうして女の子がウチの面接に?」
「わたし、アイドルになりたいんです」
チクサが姿勢を正して気丈な声で告げた。支社長がしばし固まり、そのまま数秒が流れた。
「ごめん、
「はい」
チクサの肯定の返事を聞いて、支社長はわけがわからないといった表情を作ってうーんと唸った。
「だってキミ、アイドルでしょ?」
「いえ……その……」
チクサが伏し目がちになって言いよどんでしまったのを見て、支社長は数秒考え込むような仕草を見せ、ややあって「ひょっとして脱退者?」と聞いた。
「……はい。でもわたし、ほんとにアイドルを続けたくて」
「ちょっと待って待って。キミ達、少しボクに頭を整理する時間をくれる?」
支社長がそのまま黙り込んでしまったので、見かねたのか、兄がツルマの聞いたこともない口調で彼に切り込んだ。
「キタガワさん。彼女をアイドルとしてデビューさせて頂くことは、御社では可能なんでしょうか」
「えーっと……アナタはこの子の身内の方?」
「いえ、僕は付き添いでして、コイツが彼女の友人です」
「えっじゃあ、この子の身内の人は?」
支社長が目をぱちくりさせているのがサングラスのスモーク越しにわかった。ツルマの隣で、チクサは両の拳をきゅっと膝の上で握って、彼に答えた。
「……すみません。お父さんは、わたしの芸能活動には賛成してくれません」
チクサのつらそうな表情を機敏に察したのか、支社長は「まあまあまあ、それは問題じゃないんだよ」と空気の吹き飛ばしに努めてくれた。
「ウチは、ジュニアのドリームを応援するJDCだから。いくら息子を芸能人になんかしないと親が言い張ったって、ウチは本人のやる気だけを見てる。……だけどなあ、女の子っていうのはなあ」
支社長は純白のジャケットに通した腕を組み、うーん、と再び声を出して唸った。
「いくら女性の
「……どうしても、ダメですか?」
「良いとかダメとかじゃなくて、前代未聞すぎるって言ってるのさ。いくらウチでも、前例もノウハウもないことにはさすがに……っていうか」
支社長はそこで初めて重大なことに気付いたらしく、飾りのサングラスを外し、それまでになく真剣な目つきになって三人それぞれの目を覗き込んできた。
「キミ達、わかって言ってるんだろうね? ミリオンを追い出された女の子をよそのプロダクションが芸能人として雇うなんて、もしそんなことが現実に起こってみなよ、そんなの『オータム』の管理体制に対する反逆だよ。ウチは男性芸能人のプロダクションとしては業界最大手かもしれないけど、『オータム』と比べたらゴミみたいなものなんだからさ」
吹けば飛ぶよ、本社まるごと。そう言って支社長は深く息を吐いてから、ハンディ型の
「まあ、どうしても芸能界の近くに身を置きたいっていうなら、ウチの内勤スタッフとして雇ってあげられないことはないけど……それにしても大学を出てからだなあ」
その発言がせめてもの優しさから出ていることはツルマにも十分に伝わってきた。しかし、チクサの夢はそんなことではない。ツルマは思わず口を挟んでいた。
「あの、彼女は……」
「わたし」
チクサがそれまでより少しだけ大きな声でツルマから発言のバトンを奪い取り、一息置いてから、「アイドルになりたいんです。それ以外にないんです」とはっきりした口調で告げた。彼女の小さな唇がその言葉を紡ぎきったとき、ツルマには、彼女の周りの空気がぴりりと震えたように感じられた。
「そっかぁ……」
彼女の本気の決意は支社長の胸にもしっかりと伝わったようだった。彼はサングラスのつるを畳んでジャケットのポケットに仕舞い込んでから、「じゃあごめんね」と三人に向かって言った。
「ウチでは力になれそうにない。いやほんと、せっかく来てくれたのに、申し訳ないです」
JDCの若き経営幹部は両膝に手をつき、大げさなほど深々と頭を下げた。整髪料の匂いがツンとツルマの鼻孔をくすぐった。
両隣のチクサと兄を順に見やると、チクサは沈んだ気持ちを取り繕うように真顔を保っており、兄は仕方ないなといった顔で黙って目を閉じていた。
別れ際、支社長はツルマに「ちなみにキミは芸能界に興味ない?」と抜け目なく尋ねることを忘れなかった。ツルマは丁重にそれを断り、兄とチクサのあとに続いてJDCのオフィスを後にした。
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