第3話 パーソナルライン
自宅の前で何分も泣き続けていた金山チクサは、やっとその嗚咽が収まったところで、ツルマの兄がそっと差し出した清潔なハンカチを震える手で受け取った。プライベートで男性と触れ合ってはならないと教え込まれるというアイドルも、物を受け取るだけなら大丈夫らしかった。
兄の準備の良さに感心しつつ、ツルマが思わずその長身を見上げると、兄は顎をクイと動かしてツルマに何かを促してきた。声をかけるのはお前の役目だ、とその目が語っているように見えた。
「チクサちゃん」
へたり込んでいるチクサの前に腰を落とし、ツルマは彼女の顔を遠慮がちに覗き込んだ。
「ツルマ、くん……」
チクサの瑞々しい唇がゆっくりと彼の名を紡いだ。彼女は涙声を隠そうともしないまま、家に入りたくない、という旨のことを二人に向かって言った。
そのとき、自動車が近づくかすかな駆動音がツルマの耳に聴こえ、金山邸の前に滑り込んできた小型の無人タクシーから一人の男性が降りてきた。ひと目見て高級品とわかるスーツを身にまとい、厳格な人柄を顔面に貼り付けたようなその男性は、可視化させた怒りを全身に立ち昇らせるごとき勢いで、ずかずかと若者達の前に歩み寄ってきた。
「チクサ!」
男性の怒号がチクサとツルマの間に割り込んだ。慌ててチクサのそばから飛び退いたツルマの存在を意にも介さない様子で、彼はチクサの片腕をつかんで彼女を強引に立ち上がらせた。
「お、お父さん」
消え入るようなチクサの声を聴くまでもなく、男性が彼女の父親であることはツルマにも直感でわかった。大昔のドラマのようにビンタが飛ぶのかと思ってツルマは息を呑んだが、さすがの男性も娘に向かって暴力に訴えるまでのことはしなかった。かわりに飛んだのは、このあたりの街路全てに響き渡るのではないかというような怒りの罵声だった。
「『オータム』から全て聞いたぞ! だから私は言ったんだ、芸能活動なんかにうつつを抜かすなと!」
「ち、違うの、わたし」
チクサが涙声でひねり出そうとする反論を、父親はさらなる怒声で封じ込める。
「アイドルの期間など、黙って動画と握手にだけ出て、あとは遊ばず勉強していればいいんだ! それなのにお前は、歌だ、ダンスだと遊び呆けたあげく、果ては異性交遊などと……」
父親の叱責を耳にして、チクサはもう黙って涙を浮かべることしかできない様子だった。ツルマは思わず声を上げかけたが、兄が後ろから彼の口元をふさぎ、首を突っ込むなと視線で注意してきた。
「お前の母親は貞淑な女だったのに、まったく誰に似てこんな育ち方をしたのか。私の顔に泥を塗りおって」
兄に肩と口元を押さえられながらも、ツルマは男性の言葉に己の額の血管がぴくぴくと震えるのを感じていた。チクサがますます大粒の涙を溢れさせているのを見て、ツルマは、今すぐにでも兄の腕を振り払って飛び出し、チクサと男性の間に割って入ってやりたい衝動にかられていた。同時に、そうしたら余計にチクサが可哀想な目に遭うであろうこと、それを察して兄が自分を止めてくれているのだということも、理性の片隅でかすかに悟っていた。
「来い。これからお前がどう生きていくか、真剣に話し合いをしなければならん」
そう命じて男性はチクサの腕を引き、玄関のゲートへずかずかと踏み入っていった。連れて行かれる途中でチクサが一度だけツルマらの方を振り向き、何かを訴えるように口を動かしていた。ゲートが他人同士の間を遮断するその瞬間まで、男性はただの一度もツルマら兄弟に目をくれようとはしなかった。
一時間や二時間でチクサが家の外に出てこられるような状況とも思えなかったので、結局、ツルマは兄に促されるまま、再び兄の車に乗ってマンションに帰るしかなかった。行きの道はツルマの記憶頼みだったが、帰りはオートコントロールが使えた。そういえば、チクサの父親はツルマの両親の何倍もお金を持っていそうなのに、自家用車は所有していなかったのだろうかと、ツルマは感情の整理がつかない頭の隅でふと考えていた。
「『私の顔に泥を塗りおって』……か。何百年前のドラマだよ、って感じだったな」
兄がわざと軽口を叩いてツルマを宥めようとしているのがわかった。ツルマが何も答えず、車の窓から見える無機質な街並みをうわの空で眺めていると、
「あれで区会議員とはね」
と兄は心の底から嘆息するような声で言葉を続けた。
「議員?」
「議員バッジしてただろ。善良な区民の前であんな怒鳴り声を上げてるようじゃ、お偉いさんの正体見たりだよな」
「……ふうん」
チクサの父親が区会議員だと聞かされても、ツルマの頭には、ああそうなんだ、という程度の感想しか浮かばなかった。政策AIの助言に基づいて意思決定を下すだけの仕事で、それでいて並の大企業の重役達よりもふんぞり返っている――というのが、ツルマがいつだったか兄の言葉で聞いて知っていた議員に関する知識のすべてだった。学校の授業でもその職業が話題にのぼることはあったが、それはもっぱら、情報倫理の分野で、現代の社会は決してAIだけに支配されているわけではないのだと方便を述べる際に引き合いに出されるだけだった。
「実は、さ」
車がツルマらのマンションまであと二ブロック程度の距離まで差し掛かったとき、兄が珍しくばつの悪そうな表情を作ってツルマの目を見てきた。
「金山チクサが異性交遊なんかするわけないってお前の言葉、正直それほど本気にしてなかった。悪い」
兄が顔の前で両手を合わせている。虚を突かれたツルマが何か言葉を返すよりも早く、彼は続けた。
「だけど、さっきの涙を見て俺も確信したぜ。あれは絶対、やましいことはしてないって」
だから俺達で何とかしてやろう――そう宣言するかのように、兄は親指を立てるサムズアップという古い仕草をしてみせた。
「……そうだよ。チクサちゃんは、俺のアイドルなんだから」
そんな恥ずかしい台詞が無意識に自分の口をついて出てくるのを気にも留めず、ツルマはまた胸の奥から熱いものがこみ上げるのを感じていた。
チクサから連絡があったのはその日の深夜零時近くのことだった。今日一日で色々なことがありすぎたせいで、とても日課の勉強に手を付ける気にもなれず、さりとて今後チクサのために取るべき具体的な行動も思い浮かばないまま、ツルマは自室で東海ミリオンの過去のコンサートの動画をぼんやりと観返していた。チクサの姿はもはや過去の動画からさえも抹消されていたが、それでも昨日までその場所にいた彼女の姿をツルマは鮮明に思い返すことができた。
そんなとき、片耳に差したイヤホンから唐突にアイドル達の歌声が止まり、かわりにパーソナルラインの着信を示すアラーム音が鳴り始めたのだ。
「……チクサちゃん!?」
ツルマの端末の画面には、発信元を示す「CHIKUSA」の文字がはっきりと表示されていた。ツルマはもちろんチクサのパーソナルIDなど知らないので、この名前はあちら側が設定して表示させているということになる。
今日何度目かの心臓が飛び出しそうになるほどの緊張を押さえながら、ツルマは応答の操作をした。
「は……はい」
ツルマの自室は受験勉強のために防音仕様にされているはずだったが、それでも普通に喋ると両親に聴こえてしまうのではないかという無根拠な恐れを感じ、ツルマはかなり抑えた声量で通話に応えた。
端末の向こうの相手は、数秒の間をおいて、やっと喋り始めた。
「あの……ツルマ、くん……?」
聴き間違えるはずもない、金山チクサの声だった。
「はっはい、ツルマです」
思わず声が裏返ってしまう。まさか本当にチクサがラインをかけてくるなんて。相手がチクサだと確信を抱いて通話に応答したはずなのに、それと矛盾する驚きがツルマの意識を襲っていた。
「な、なんでID知ってたの」
相手の用件を聞きもせず、真っ先にツルマの口から飛び出した一言はそれだった。まったく無意識の内にその質問を言い終えてしまってから、もっと他に言うことがあるだろう、と自分で自分を責めた。
「なんでって、クラスのネットがあったでしょ?」
彼女にとってはわかりきった答えだったからなのか、その言葉は今日聴いたチクサの発言の中で最も明瞭な発音で発せられた。
「え……だってそんな昔の」
確かに、小学校ではクラス内の連絡ネットワークに全員がパーソナルラインとホームラインのIDを登録することになっていた。女子はドミトリー入りと同時にそれまでのパーソナルIDが破棄されるのに対し、男子は中学進学後もIDを変更しない者が多く、ツルマもまた兄のお下がりの端末をもらってからも小学校以前のIDを使い続けているというわけだった。
「昔じゃないよ。たった三年前だよ」
端末の向こうから、チクサがくすくすと笑うのが聴こえた。ツルマが小学校時代を大昔のように表現したのが琴線に触れたらしい。ツルマにとっては一日千秋の三年間だったが、彼女にとってはそうではなかったのだろうか?
「……ツルマくん、さっきはごめんね。せっかくウチまで来てくれたのに」
チクサは澄んだ声でそう言った。着信の瞬間、ツルマは震える声のチクサを無意識に想像してしまっていたが、応答してからの妙なやりとりで彼女の緊張がほどけてくれたのかもしれないと思った。
「さっきまで家族会議してたの。会議って、お父さんがわたしを叱りつけるだけだけどね」
ツルマは、足を踏み入れたことのない金山邸の豪華なリビングルームで、テーブルを挟んで二人向かい合うチクサと父親の姿を想像した。こちらまで息が詰まりそうだった。同時に、チクサが今朝までは遥か遠い存在だったことにふと気付き、憧れのアイドルと言葉をかわしている現実が不思議に思えた。
気付いた途端に緊張が戻ってくる。ツルマは「あ、あの」と言葉をどもらせながら、ライン越しにチクサに問いかけた。
「脱退の話……あれ、本当じゃないよね」
不明瞭な質問だなと自分でも思った。脱退自体が本当じゃないという答えを期待しているのか、脱退の理由が濡れ衣だという答えを期待しているのか。あるいは、望む答えはその両方なのかもしれなかった。
数秒待ってもチクサの返事がなかったので、しまった、とツルマは思った。いちファンにすぎないツルマの何十倍も脱退処分にショックを受けているのはチクサ自身のはずだ。デリケートな核心に触れて、彼女をまた泣かせてしまったら……。
だが、そのさらに数秒後に返ってきた言葉は、涙ではなく、何かの決意に満ちているように聴こえた。
「ツルマくんは、信じてくれる?」
チクサはそう尋ねてきた。肯定をためらう理由などツルマにはなかった。
「もちろん信じてるよ。チクサちゃんは俺のアイドルだから」
兄の隣で言ったのと同じ台詞を、今度は無意識ではなくしっかり噛み締めて告げた。チクサが「ありがとう」と応えたとき、ビデオ通話でもないのに、ツルマの端末の画面にはチクサの満面の笑みがはっきり見えたような気がした。
「お父さんには、ドミトリーの外の大学を出て、何か仕事を見つけるしかないって言われたけど……。わたし、やっぱりアイドルでいたい。もう一度、アイドルになりたい」
ひょっとしたらツルマが最も聴きたいと望んでいたかもしれない言葉をチクサは口にした。その一言一言が、彼女の心が折れていないことの証であり、彼女の人生をかけた夢の発露でもあった。
「俺にできることがあったら、なんでもするよ。兄ちゃんも力を貸してくれるかもしれない」
この状況から何をどうすれば彼女の夢が叶うのかはわからなかったが、それでもツルマは真剣に彼女にそう伝えたかった。本気でチクサの力になりたいと願っていた。
「ありがと。そうだね……ツルマくんが応援してくれるなら、なんとかなる気がする」
チクサの言葉の最後は涙で滲んでいた。ツルマのほうはもう泣かなかった。元同級生のため、憧れのアイドルのため、いや、好きな女の子のために、身を粉にしてでも何かをしなければならないという熱情の炎が彼の体中を駆け巡っていた。
「俺が絶対、チクサちゃんを本当のアイドルにする」
何の根拠も自信もないまま、決意だけでツルマはそう告げた。小声で話そうという注意がとっくに自分の頭から消えていることには気付かなかった。
「ツルマくんと会えてよかった。次会ったときは、もっとちゃんと話そうね」
チクサはそう言ってから、これ以上の夜更かしはツルマの身体にさわるのでうんぬん、と通り一遍の遠慮の文句を続けた。ツルマはチクサが望むなら徹夜ででも話し続けたいと思ったが、彼女のほうこそ今夜はゆっくり休むことが必要だと思い直した。
最後の一瞬までチクサの声の余韻を感じながら、ツルマは通話を終えた。AIが通話先のパーソナルIDを記録するか尋ねてきたので、彼は間髪入れずはいと答えた。
そこでふとツルマは思い出した。クラスの連絡ネットワークは、セキュリティ上の理由かなにか知らないが、卒業と同時にアクセス不可になり、クラスメイトのIDは二度と見られなくなる仕組みだった。卒業後も連絡を取りたい相手については、そうなる前にIDを個別に保存しておく必要があった。
つまり、チクサがツルマに連絡を取ることができた理由はただひとつだった。気付いてしまった以上、ツルマは悶絶して一晩じゅう眠れず過ごすしかなかった。
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