第2話 センテンス・スプリング
それからどうやってマンションまで帰り着いたのかは記憶に定かでない。バイオ認証でエントランスゲートをくぐり、エレベーターで自宅のフロアまで運ばれる最中も、ツルマは自分の身に何が起きたのかを把握することを本能レベルで拒み、虚ろな目で空中の一点を眺め続けていた。
もっとも、彼自身の身には何も起きてはいない。だが金山チクサの姿を端末越しに見られなくなることは、ツルマにとって人生の希望を丸ごと奪われるに等しい喪失にほかならなかった。
「どうした、こんなに早く帰ってきて」
インターフェースいじりに興じていたらしい兄は、ツルマの足音に気付いて自室から出てくるなり心配そうな顔で声をかけてくれた。両親はそれぞれ休日シフトで出勤しているはずで、いま自宅には兄弟二人しかいなかった。
「本懐を遂げて帰ってきたって顔じゃないな。握手会、うまく行かなかったのか」
「兄ちゃん。チクサちゃんが……」
兄に次第を説明しようとして、ツルマはそこから先を言いよどんでしまった。説明すべき内容ははっきりしているのに、喉が何かに締め付けられるように声が出ない。先程見た事実を口にすることを全身が拒絶しているようだった。
かわりに、ツルマは力の入りきらない手で兄に端末を差し出した。兄の手でロックを解除された画面には、定例握手会のゲート前でツルマが取り落としたときと同じままの情報が表示されているはずだった。
「金山チクサ……脱退!?」
兄もまた虚を突かれたという顔で声を上げた。兄の声が耳に届いた瞬間、押し込めていたその現実が奔流となってツルマの意識になだれ込み、ツルマは通学カバンを取り落として人形の糸が切れるように床にへたり込んでしまった。頬を伝う熱いものが自分の涙だと、数秒後に彼は気付いた。
異性交遊で処分されるアイドルはいつの時代も後を絶たないが、即日脱退はさすがに厳しいな。真面目そうな子なのに何があったんだろうな。――おおよそそんな意味のことを兄がキッチンで独りごちるのを意識の片隅に捉えながら、ツルマはダイニングテーブルにうつ伏せ、網膜の裏にしっかり焼き付いたはずの金山チクサの笑顔を思い返していた。
「第一級異性交遊」が何を意味するのかは、高校生になりたてのツルマでも知っていた。異性交遊の罪は第一級から第五級まであり、本人または相手の男性がネットワーク上で恋人関係を公言したり、キスの現場を「スプリング」に押さえられたりするのが第二級だ。第一級とは、つまり、それ以上の何かに及んでしまった事実を「スプリング」の全域監視システムで立証されたということだった。
こうした事案は各地のドミトリーで日々発生しており、脱退の
「そんなわけない……」
ツルマがぼそりと呟いた言葉を、兄は耳ざとく聴き取ったようだったが、キッチンでコーヒーを淹れながら一言「そうだよな」と返してくるだけだった。そんなところが兄の優しさなのだとツルマはよく知っていた。
あのチクサが第一級異性交遊になど及ぶはずがない。ツルマには信仰めいた確信があった。したがって、いま彼の頭を占めている絶望の正体は、チクサが東海ミリオンから追放されてしまったことや、彼女が誰かとそういう行為に及んでしまったことへの悲しみではなく、こんなことは絶対に間違っているという確信に基づく憤りだった。
兄が二つのマグカップを食卓に置いたとき、その音で跳ね起きるように、ツルマは兄に向かって顔を上げた。
「何かの間違いだよ」
数時間ぶりに自分の声帯が思った通りに震えるのをツルマは感じた。兄は「俺もそう思う」と同意を口にしながら、ツルマの向かいに腰掛け、コーヒーを一口啜った。本気でそう思ってくれているのか、ツルマを元気付けようとしてくれているのかは読み切れない。ツルマはかまわず言葉を続けた。
「チクサちゃんは誰よりアイドルらしくあろうとしてたんだ。自分からアイドルを辞めさせられるようなこと、するわけない」
アイドルが暮らすドミトリー内で「スプリング」の全域監視システムが絶えず目を光らせていることは、この国のすべての人間が知っていた。十三歳から二十二歳まで、青春時代のすべてをドミトリー内で過ごすこの国の女子にとって、そこに働きに来る成人男性との自由恋愛は、一分の例外もなく人生のレールからの脱落を意味した。
卒業年齢に達する前にドミトリーから叩き出された元アイドルは、二度とアイドルに復帰できないというだけではなく、二十二歳を過ぎたあとも生涯ドミトリー内に立ち入ることはできない。女性が入学できる上級大学や、国内の大手企業のオフィスは決まってドミトリー内に置かれており、ヒエラルキー上層の未婚男性との出会いの場もまた、ドミトリーの内部にほぼ限られていた。脱退処分とは、人生選択の可能性すべてを剥奪する厳罰に等しかった。
だが、そんな理屈以上に、金山チクサが違反行為に及ぶはずがないという確かな根拠がツルマの中にはあった。
「俺に言ったんだ。ほんとのアイドルが夢だって」
小学校の卒業の日、「絶対、レナちゃんみたいなアイドルになるから」とツルマに向かって微笑んでみせたチクサの笑顔を、彼は今でも覚えている。何世紀も前の、ネットワークに記録が残る以前の時代の人物であるらしい「レナちゃん」とやらがどんな素晴らしいアイドルだったのかツルマは知らなかったが、あの日のチクサの決意に満ちた瞳を今日まで彼は信じ続けてきたのだ。
「元始、アイドルは太陽だった……か」
早くもマグカップを空にしたらしい兄が、窓の向こうの青空を眺めるようにして、ツルマもよく知る言葉を呟いていた。百年以上も昔のアイドル評論家が、そのさらにずっと昔の文化人の言葉をパロディして述べたフレーズだった。
「会いに行ったらどうだ?」
兄の唐突な発言に、ツルマは思わず「へっ?」と気の抜けた声を上げてしまった。
「こうなった以上、本人に会って聞いてみるしかないだろ。車出すぜ」
「ムリだよ。チクサちゃんはもうミリオンに居ないんだから……」
即日脱退の
「だから会いに行くんだよ。ドミトリーを追い出されたんなら、こっちに帰って来てるはずだろ?」
「あ……!」
ツルマはぽかんと口を開けたまま、数秒固まっている自分に気付いた。兄の提案は、「目から鱗が落ちる」という古い言葉がまさにぴったりとはまるような衝撃だった。
涙の痕跡を隠すように何度も顔を洗ってから、ツルマは兄の運転する自家用車の車中の人となった。チクサの自宅のアドレスは知らなかったが、小学生のときは何度か家の前まで一緒に歩いたことがあったので、小学校を起点にすれば記憶を頼りに道を辿れるはずだった。
「街中でマニュコンなんて久しぶりだぜ」
校門前で車のオートコントロールを停止させ、兄は両手のひらに息を吹きかける仕草をしてみせてから、白色のステアリングを握り込んだ。この多趣味な兄がマニュアルコントロールのカーレースに何度か参戦していたことはツルマも知っていたが、運転をじかに見るのはそういえば初めてだった。
三年と二ヶ月と十六日前の記憶を辿りながら、ツルマは兄に道筋を教えた。兄の運転は思った以上に慎重だった。
「卒業式の日も、一緒に帰ってたんだ」
ツルマは呟き、せっかく痕跡を消した涙が再び溢れ出るのをなんとか飲み込んだ。兄は前方から目を離さないまま、そうか、とだけ応えてくれた。
十二歳の頃の金山チクサはいつも、長く伸ばした髪を後ろで束ねる古風な髪型をしていた。二人の自宅は小学校を挟んで正反対の方向だったが、チクサと長く話せるのが楽しくて、ツルマはたびたび規定のルートを無視して彼女の家の前まで一緒に歩いたものだ。どのみち、マンションへ直帰したところで、クラムスクールの遠隔授業が始まる時刻まで一人で暇を持て余すだけだった。両親はずっとダブルインカムだったし、その頃は兄も大学受験の準備とやらで毎日忙しそうに飛び回っていた。
チクサの古風な髪型にポニーテールという呼び名があることは、その頃に彼女自身から教えてもらった。その後、アイドルになったチクサがその髪型でメディアに露出したことはツルマの知る限りない。この世に何人の金山チクサ推しのファンがいようとも、あの日のポニーテールを目にしたことがあるのは自分ひとりだけだという密かな誇りが彼にはあった。
「……着いたぜ。先客がいるな」
兄はチクサの自宅の五十メートルほど手前で静かに車を停止させた。ツルマの記憶と同じ金山邸の一戸建ての前には、大型の無人タクシーが横付けされ、引越業者のコーポレート・カラーに彩られたヒューマノイドロボットが荷台からブロック詰めの荷物をせっせと玄関の前に下ろしているところだった。
「女神のご帰還かな」
兄がツルマの顔をちらりと覗き込み、「行くだろ?」と言った。兄の操作で車のドアが開けられると、ツルマは涙が引くのも待てず、安全ベルトを外して車外に飛び出していた。
もつれそうな足でなんとか転ばずに路面を蹴り、ツルマは金山邸前の大型タクシーに駆け寄った。この車の中にチクサがいるのだろうか。ちょうど彼の目の前で、すべての荷物を下ろし終えたらしいヒューマノイドが荷台に戻り、うずくまるようにして待機モードに入った。車の側面のドアグラスから、見慣れたはずのチクサの横顔が目に入った。
「チクサちゃん!」
自分でも意識しないままに彼女の名を叫び、ツルマは車のフロント側に回り込んだ。ドミトリー内の高校の制服に身を包んだチクサは、シートに収まったまま深く俯いている。ノックしてもいいのだろうか、と逡巡したとき、車内に流れているらしいアナウンスがツルマの耳にも聞こえてきた。
『ご降車ください。ご降車ください。ご降車ください……』
際限なくリピートされる電子音声の渦の中で、チクサはまだ車外のツルマの姿に気付かないまま、ふるふると小刻みに首を振っていた。彼女の目元から膝の上に水滴が落ちるのをツルマは目にした。
「青春だねえ」
背後からの兄の声にツルマは身体をびくりとさせた。兄は何でもないように、ツルマの後ろから手を伸ばし、チクサの乗る車のフロントグラスをこんこんと軽くノックしてみせた。車内のチクサがツルマと同じかそれ以上にびくりと驚き、ツルマの顔を見て息を呑むのが見えた。
『ご降車ください。ご降車ください』
車内のアナウンスに負けない声で、ツルマは「チクサちゃん!」と彼女の名を呼んだ。チクサは目をぱちぱちとさせながら、慌てたように安全ベルトを外し、自動で開いたスライドドアからゆっくりと車外に出てきた。
「ツルマくん……どうして……?」
チクサの泣きはらした目がツルマの姿を映していた。三年と二ヶ月と十六日ぶりに聴く、チクサの生の声だった。
「俺、チクサちゃんがアイドル辞めるって見て、それで……」
自分がチクサに負けず劣らずの涙声になるのをツルマは頑張って食い止めようとした。その視界の奥で、周囲の安全を確認し終えたらしい無人タクシーが『ご利用ありがとうございました』と告げ、ひとりでにドアを閉めて走り去っていった。
「わたし、違うの。わたし……わたし……!」
ツルマの眼前でチクサは顔を手で覆い、膝を折って泣き崩れてしまった。アイドルがドラマの中で演じるように、男子であるツルマの胸の中に飛び込んで泣くなどということはしなかった。ツルマはチクサの肩に手ひとつ添えることもできないまま、彼女の姿を見下ろす格好でおろおろと立ち尽くすことしかできなかった。チクサの目指すものを知っている兄もまた、彼女の身体に不用意に触れようとはしなかった。
十三歳を迎えてドミトリーに入った女子は皆、間違っても男性と身体を接触させてしまうことがないよう、身のこなしの訓練を徹底的に叩き込まれると聞く。兄弟の目の前で嗚咽を上げる金山チクサは、この人生の極限状況にあってもなお鉄の掟を無意識に遵守してしまう、品行方正にして神聖不可侵なアイドルそのものにしか見えなかった。
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