48million ~国民総アイドル社会~
板野かも
『48million ~国民総アイドル社会~』本編
第1話 国民総アイドル社会
午前六時四十五分、ツルマは部屋中に鳴り響くアラームとベッドの傾斜で目を覚ました。まどろみの中にあった意識が一瞬のうちに覚醒し、彼がベッドから跳ね起きると、体重移動を感知した部屋のアラームがひとりでにその音量を下げていった。
傍らに揃えてあったスリッパに両足を下ろし、ツルマはふわふわとした高揚感の中でベッドから降りた。彼が携帯端末を勉強机から取り上げるのと並行して、ベッドは静かな駆動音を立てて平坦な状態に戻る。中学受験の勉強をさせられていたとき、彼に毎朝の起床時間を守らせるために母が購入したこのスマートベッドの機能に、ツルマは初めて本気で感謝したくなった。
洗面所に降り、顔を洗っていると、既に起きていたらしい兄がニヤついた笑いを浮かべながら鏡の中のツルマの隣に映り込んできた。
「ようネボスケ。さすがに今日はちゃんと起きれたか」
むっとして、ツルマは鏡面に映った兄の長身を見返す。確かに、普段は高校に間に合うギリギリの時間まで夢から覚めることができない彼だが、今日に限っては寝坊などするはずがない。なんたって今日は、
「愛しのチクサちゃんに会うんだもんな」
兄がツルマの耳元に顔を寄せ、就寝中の両親に万が一にも聞こえないような小声でそう囁いてきた。
「……うん」
ツルマは思わず素直に頷いてしまった自分に気付く。頬のあたりに熱さを感じ、慌ててハンドタオルで顔を覆ってごまかす彼の背後で、兄が機嫌良さそうにくっくっと笑うのが聞こえた。
「お。チクサちゃん、今日は20,000位以内に入ってるぜ」
「えっ!」
兄の言葉に慌てて振り向き、その姿を今朝初めて鏡の外に捉えたとき、ツルマは兄が自分の端末を勝手に手にしていたことに気付いた。元は兄のものだったその端末には、今でも兄弟二人分のバイオメトリクス情報が登録されたままになっている。
「ちょっ、俺より先に見るなよぉ」
兄の手から端末を奪い返し、ツルマがはやる気持ちで画面を見ると、そこには
「ほんっと好きなんだな」
兄の茶化すような台詞がツルマの意識を上滑りしていく。名前と順位の上には、脳裏に焼き付くほど目にした金山チクサの最新プロモーション動画が表示され、眩しい笑みを彼に投げかけてくる。
デビュー以来、チクサが人気投票で20,000位の壁を突破したことはなかった。この三年間、ツルマも毎晩欠かさず投票に参加してきたが、昨日までの順位はどれほど上がった日でも21,000位台が関の山だった。頭のなかで簡単な引き算をすると、昨日から今日までの二十四時間で、彼女が順位を1,800位ほども上げたことがわかる。
「昨日の配信は可愛かったからなー」
ツルマの目に映る金山チクサはいつだって可愛いのだが、昨晩、十六本のキャンドルを吹き消して自身の誕生日を告げた彼女の配信はまさしく神がかっていた。彼女と同じ時代に生まれ、同じ国に生き、この配信に立ち会っている自分はなんという幸せ者なのだろうとツルマは思ったものだ。
だが、ツルマの幸せはそれだけにとどまらない。今日は彼が生まれて初めて、アイドルとしての金山チクサに会いに行ける日なのだ。
「三年ぶりだもんな」
両親がまだ起きてこないリビングで、出来合いのサンドイッチをかじりながら兄が言った。ツルマの計算では、二人の逢瀬は三年と二ヶ月と十六日ぶりのはずだった。
「小学校のときと、今と、どっちのチクサちゃんの方が可愛いんだ?」
「そんなの」
比べられるものではないに決まっている。ツルマがまたむっとしたのを見て、彼の言いたい答えを見透かしたのか、兄はにやりと口元に笑みを浮かべてきた。
「まあ、口裏合わせは任せろ」
「……ありがとう」
食事を終えると、歯磨きと髪のセットを念入りに済ませ、一番格好がつくと思える私服を羽織ってツルマはマンションを出た。両親には、二年後の大学受験のためのセミナーに参加するのだと告げてある。私服に似合わない通学カバンを持ち歩かねばならないことは難点だったが、これから味わえる至福のひとときを思えば、全くどうということはなかった。
これだけ朝の早い時間なら、無人タクシーが空いているかと期待していたが、ツルマの希望的観測に反して車は一台もつかまらなかった。早朝には早朝の、また休日には休日の需要というものが常にあるらしい。仕方なく、といっても日々の通学と同じように、ツルマは最寄りのメトロ駅まで歩き、バイオ認証で地下リニアに乗り込んだ。車内は平日と同じくらい混んでいたが、乗っている客層は随分違っていた。
ものの数分で、街の中心に位置するドミトリー駅のホームに到着した。もどかしいほどのエレベーターの遅さと対照的に、ツルマは自分の心臓がいつになく速く鼓動するのを感じていた。まだ本番は何も始まっていないのに。ようやく改札階に着き、陽の光の下に出たとき、ツルマの緊張はいよいよ臨界点に達していた。
――緊張をほぐすツボは手のひらの中心にあるらしいぜ。
いつだったか、兄が得意げな顔で語ってきた豆知識がフラッシュバックする。兄も彼も、何世紀も昔に信じられていたという民間療法を本気で信奉しているわけではなかったが、今のツルマはそれにもすがる思いで左の手のひらの真ん中を右の親指で強く押し込んでいた。そびえ立つドミトリーの高い壁の向こうに青空を見上げながら深呼吸すると、少しだけ心臓の動悸が収まってきたように思えたが、それが遥か昔の東洋医学の効果なのかどうかはわからなかった。
この壁の向こうに、金山チクサがいる。
ドミトリーの外と中を隔てる白亜の巨壁を見やり、ツルマはぐっと唾を飲み込んでいた。もうすぐ、二つの世界を隔てる壁を超え、彼女と再び会うことが叶うのだ。
ツルマが目指す定例握手会の会場までは、メトロ駅を離れ、ドミトリーの壁伝いに少し歩かなければならなかった。ふと見ると、自分以外にも同じ方向を目指して歩く人の流れがあることに彼は気付いた。若い人もいれば、ツルマの父より年上に見える人もいる。ツルマと変わらない年頃の若者や、中学生くらいの男の子もいる。片手に持った端末を熱心に覗き込みながら器用に歩く人もいるし、推しメンの名前が大きく描かれたシャツを着ている集団もいた。皆に共通しているのは、一人の例外もなく男性だということくらいだ。
目的地に近付くにつれ、そうした人の波が増えてくるのがわかり、ツルマは少しほっとしていた。これだけ多くの「お仲間」の姿を実際に目にしたのは初めてだったからだ。高校での彼は、金山チクサという特定の推しメンがいる事実を友人達の前でも表に出せずにいた。アイドル全体をただ眺めるのと、誰か一人を特別に応援するのとは決定的に意味合いが違う。単推しであることを学校で告白しようものなら、どんな囃し立て方をされるかわかったものではなかった。
だが、ツルマが今向かっているのはどうやら、推しメンへの愛を堂々と表に出すことが許された場所であるようだった。名も知らぬ無数の同志達の存在を心強く思いながら、ツルマは同時に、この中の一体何人がチクサ推しなのだろう、とも思った。
ドミトリーという単語は、古典英語では「寮」を意味するのだとツルマは学んだことがある。だが、それがアイドルの住む街を指すドミトリーとどう関係しているのかは知らなかった。ツルマが少し前に卒業した私立中学で英語を教えていた女性教師も、自らもその中の住人であったことがあるはずなのに、街区の呼び名に寮を指す単語が使われるようになった理由は全く把握していないようだった。
そういえば、あの先生は最高何位だったのかな。
入場待ちの長い列に加わるさなか、ツルマはふとその若い女性教師の顔を思い返していた。彼女がアイドル在籍中に行った活動のすべては、彼の持つ端末でも簡単に調べることができるはずだったが、そこまでする気は起こらなかった。教師としては悪い人ではなかったが、まだ若いのに教職などに就いている時点で、アイドル時代にさしたる成績は残せなかったことは容易に想像がつく。
「ユウセンケンをお持ちの方はこちらからどうぞ!」
「ブッパンは全て売り切れです! ブッパン、全て売り切れです!」
百メートル以上も向こうのゲート近くから、スタッフらしき男性達の張り上げる声が聴こえる。定例握手会などのイベントに一度も足を運んだことのなかったツルマには聞きなれない単語も多かった。「ブッパン」は「物販」すなわちグッズの販売のことだと想像がついたが、「ユウセンケン」は「優先権」なのか「優先券」なのか確信が持てない。いずれにせよ、優先される権利も券も持ち合わせていないツルマは、人の群れの中でただひたすらに入場の順番を待たなければならない。彼のカバンに入っているのは、友人達に変な目で見られながら昼食代を現金決済で払い続け、お釣りの硬貨を必死に工面して手に入れた握手券が一枚きりだ。
順番待ちの間、チクサの配信動画を観て過ごそうと思い、ツルマは通学カバンから耳掛け式のイヤホンを取り出した。これも中学受験のときに母に買い与えられたものだが、今ではもっぱら、夜間に音が漏れないようにチクサの動画を観られるツールとして重宝していた。
人の波に沿ってじりじりと歩を進めながら、ツルマは携帯端末に「オータム」の公式チューブを表示させた。チクサが所属している東海ミリオンの最新曲がツルマの片耳に溢れ始める。もちろん、チューブを開いたときのデフォルトBGMとして彼自身が設定しているのだ。
さらに一歩ばかり列が進んだ。ツルマは音漏れに気を遣いながら、ブックマークから昨夜のチクサのバースデー動画を呼び出そうとした。十月生まれの金山チクサは、ツルマらの学年の中でもかなり早くに十六歳の誕生日を迎えていた。
「あれ?」
間抜けな声を出してしまい、ツルマははっとして周りを気にしたが、名も知らぬ同志達は誰ひとりとして彼の声に気付いてはいなかった。皆、推しメンとの逢瀬を今か今かと待ち望みながら、自分の世界に没頭するのに大忙しのようだった。
……おかしいな。
今度は心の中だけに声を留めることに成功した。意図した画面が表示されないことに疑問を覚え、ツルマは端末の表面を何度も指で叩いてみた。だが、何をどう操作しても、兄のお下がりのこの端末がツルマを納得させる仕事を果たすことはなかった。
金山チクサの配信動画が、どうやっても彼の画面に現れないのだ。
またしても一歩列が進んだ。機械的に足を動かしてから、ツルマはもう一度端末の画面を覗き込んだ。
反則級に可愛かったチクサのバースデー動画は、彼のブックマークから影も形もなくなっていた。そればかりか、彼が今までにブックマークに保存してきた動画のすべてが、アクセスエラーとなり表示できなくなっていた。
いや、正確には、ブックマークには一つだけ動画が残っていた。それは東海ミリオンの中でも特にチクサと仲が良いとされるメンバーの配信動画で、彼女の誕生日を祝うために配信の途中でチクサがサプライズ乱入してくるという内容だった。
いっそ、全ての動画が見られなくなっているという方がまだよかった。だが、ツルマが震える指で端末を操作して調べてみると、公式チューブには、チクサの配信動画以外のコンテンツは全て変わらず残っていることがわかった。
これって、つまり……。
バクバクと音を立てる心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死に抑え込みながら、ツルマは押されるがままに一歩二歩と足を進めた。駅に降り立ったときの心臓の動悸とは全く違う何かが彼の全身を襲っていた。片耳のイヤホンに流れる最新曲はもう何度もループを繰り返していたが、彼の意識には一言の歌詞も入ってきていなかった。
どれほどの時間が経っただろうか、ツルマはいつのまにかスタッフらの立つゲートの目の前まで押し出されていた。スタッフの男性が、接客用の作り笑顔の中に、隠しきれない怪訝さを浮かべてツルマの顔を覗き込んでいる。
「お客様、握手されるメンバー名は?」
男性が何度か繰り返して問うてくるのがやっと聴こえた。ツルマは自分の喉とも思えない喉から、必死の思いでカナヤマチクサの七文字をひねり出した。
「カナヤマ、チクサですね」
スタッフの男性が専用端末に向かってその名をリピートする。ゲートの向こうでは一万人を下らないアイドルがファンを待っており、受付スタッフといえど端末の助けなしには全員の名を把握などできるはずがない。
「……すみません、もう一度メンバーの名前をよろしいですか」
男性が端末から目を離し、申し訳なさそうにツルマに問い返してきた。冷や汗が額を伝うのを感じながら、ツルマは消え入るような声で、この世の何より愛する元同級生の名を口にした。
「カナヤマチクサ。再検索、カ、ナ、ヤ、マ、チ、ク、サ……」
男性が端末に向かって音声入力を繰り返している。ややあって、男性は断念したような表情で、「大変失礼ですが、メンバーの名前をお間違えではありませんか」とツルマに告げた。その台詞の後半は、もうツルマの耳には入っていなかった。
呆然と立ち尽くすツルマに別の男性スタッフが声をかけ、柔らかな物腰でゲートの脇へと誘導していく。ツルマは、スタッフに従って足を動かしているのが、自分ではない何者かの身体であるかのような絶望的な感覚を覚えていた。
「お客様、大丈夫ですか。医務室へお連れいたしましょうか」
スタッフの声にふるふると首を振り、ツルマはがたがたと震える手で自分の端末を操作した。まさか。まさか。最悪の予感に導かれるままに、画面を「オータム」の公式チューブから切り替え、めったに気に留めることのなかった「スプリング」の速報を開く。
瞬間、ツルマの手から端末が滑り落ちた。続いて、どさりと自分の膝が崩れ落ちる衝撃を感じた。
リニアが轢いても壊れないとの触れ込みの耐衝撃ボディに守られた携帯端末は、「スプリング」の無機質なニューステキストを映し出していた。
『10月28日、東海ミリオン・チーム13の金山チクサ(16)に即日脱退の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます