#f2c9ac

 盛岡への出張も今回で五度目になる。宿だって決まったところがあるのだが、大通りから一本入るだけのいつもの道が、今日は何かの行列で塞がっている。それで南側からの道を初めて使ってみた。角を曲がると神社があったが、こういう時に通り抜けはしないと決めてあるので、帽子だけ取って鳥居の前を過ぎた。同居人が鼻の利きすぎるせいで、下手に参拝もできやしない。思った以上の遠回りだなと頭を掻きつつ歩いていたら、後ろから「ちょっと待ってください」と止められた。

 道沿いの建物から出てきた相手が、小走りで私のもとまでやって来る。相手は学生服の少年で、息も整わないままに「あのこれどうぞ」と長い物を渡してくる。傘だった。何の変哲もない、色褪せ気味の中古の傘だ。

 私は空を見た。まだ明るいし、雲は少ない。予報でも晴れのはずだった。

「でもきっと入用になりますから。うちのひとが絶対にお渡ししてこいって」

 だからお願いなんで持ってってください、おれの顔立てると思って。と、少年は懇願する。私は半ば気圧されるように受け取った。

 しかし借りるとなると返すのが難しい。明日の朝には発つ身である。頂戴するならお代を、と財布を探ったら、少年は慌てて「結構です。うちは傘屋じゃありませんから」と言う。

 私は彼が出てきた建物を見た。看板が出ていて、豆腐屋らしい。

「それじゃせめてお店で何かいただきましょう。まだ開けてますか」

「ええまあ、構いませんけど。ほんとに豆腐しか残ってませんよ」

 私たちは店に引き返した。少年は慣れた手つきで絹ごしを掬って、使い捨ての容器に移した。

「このへんにお住まいの方じゃないでしょう。お仕事ですか」少年が聞いた。

「ええまあ、普段はあっちの、立派な酒屋さんのある道を通るんですが、今日は人がたくさんいたから……」硬貨を数えながら私は答える。

「大きなキツツキが出たそうですよ」少年は言った。「狂暴なのは猟師さんが仕留めてくださったんですが、一羽はぐれて残ってたようです。まあ心配ありません。あれくらいなら近所の誰かが片付けるでしょう」

 豆腐屋というのは火を焚くので熱くて暑いはずだけれど、暗い店の奥からは冷えた風が吹いてくる気がした。「毎度ありがとうございます」豆腐を渡して、少年はにこりと笑った。

 水の張った容器を、こぼれないよう胸の前に持って、そろそろ足を運んで宿に帰った。箸を借してくれと言ったら受付の男性に変な顔をされた。部屋で食べてみたけれど、素のままの豆腐だから最後の方は飽きてきて、傘より醤油でも拝借すればよかったと思った。




「あなたのお人好しには呆れるな」

 と、クイックステップ・リバースターンは言った。

 迎えの約束なんてしていなかったけれど、最寄り駅を降りたら黄色のシティークーペが当たり前みたいに停まっていた。そういうことは前にもあったので、私は黙って助手席に乗り込んだ。バックミラーをいじくっていたクイックステップ・リバースターンは、私の出がけの持ち物にはなかった洋傘に早々に気づいていて、車を発進させるや否や尋問を開始したのだった。私は昨日の夕べの豆腐屋のことをひとしきり喋った。

 話を聞き終えたクイックステップ・リバースターンは「そんなの客引きの方便に決まってるじゃないか」と眉を顰めた。

「どうせ捨てそびれた古傘でも押し付けられたんでしょう。体のいい厄介払いに使われたね」

 ハンドルから浮いた右手が傘を示す。あれから街はずっと晴れで、予想通りに傘の出番はなかった。所在無さげに軽い傘は、なるほど、柄の塗りも剥がれているし、骨は一本歪んでいる。

 それ見たことか、とクイックステップ・リバースターンは鼻を鳴らして、アクセルを踏みこむ。

「今回は豆腐で済んだから良かったものの、そのうち壺やら絵画やら売りつけられそうで冷や冷やするよ。わたしと会うまでどうやって生きてられたのかつくづく疑問だ」

「嘘ついてる風には見えなかったけどなあ」

「呑気なことで。だいたい豆腐屋って言うなら、油揚げでもお土産にしてくれれば良かったのに」

「油揚げって、きみ、もう食べられないだろう。大社を出るときに啖呵切ったじゃないか。独り立ちの証明に、好物のひとつやふたつ我慢してみせるって。あれって神様との誓約の扱いだろ」

「つまらないことばかり覚えてるんだな」

 苦虫を嚙み潰したような顔で、クイックステップ・リバースターンはハンドルを切る。

「それで仕事は片付いたの」クイックステップ・リバースターンは尋ねる。

「ひと段落だね」凝った首を回しながら私は答える。「さんざん探し回って時間はかかったけど、見つけてしまえば駆除するだけだからね。後始末は地元の人でやってくれるようだよ」

「大したことない案件なら、きみが出張る必要もなかったんじゃないの。どうしてわざわざわたしの加護の外、北の方の仕事ばかり取って来るかな。風邪ひいたって知らないよ」

「お山から南の地域の仕事は断ってるんだ。きみと出かける場所を、先に仕事で知っていたんじゃ興ざめだもの」

 クイックステップ・リバースターンは返事をしなかった。呆れてしまったのかもしれない。

「ともあれ、おかげさまで無事に帰ってこられたんだし。出張とはいえ旅をするのは嫌いじゃないんだ」見慣れた景色が流れていくのを見ながら、私は喋る。

「今回の宿の部屋は、狭いけど眺めは良くて、周りを少し見下ろせたんだ。今日も早く起きて、外を見たら、まだ暗い街の上に、星が一粒光っててさ。他の星はもう輝き疲れて、人はまだ眠っていて。誰にもさよならを言われない夜を見送る目印みたいに、その星だけがずっと残ってた」

「それが何だって言うの」クイックステップ・リバースターンは低い声で言った。

「きみを思い出して見ていた」私は言った。

 隣に大事なひとがいないとき、隣にいるときよりも却って強く焦がれるのだと、私は愚かな人間なので、それだけのことも忘れてしまう。だからときどき思い知る必要があるのだろう。

 なんだか腰のあたりが落ち着かないなと思ったら、座席がぐにゃぐにゃに波打っているのだった。

 そういえばこの車も、クイックステップ・リバースターンの一部なのだったと思い出す。すなわちこの乗り物の性能は、クイックステップ・リバースターンの精神状態に少なからず影響を受け、あまりにも大きく動揺すると、形態維持すら困難になるということ。

 今や車のメーターは振り切れ、サイドミラーは燃えて、エンジン音は爆音で不整脈を鳴らしている。

「クイックステップ・リバースターン!」蛇のようにのたくるシートベルトにしがみつき、私は叫ぶ。

「きみ、ちょっと落ち着いて。道路のど真ん中で放り出されるのはさすがに」

「あなたが変なこと言うからでしょう!」クイックステップ・リバースターンが負けじと叫び返す。高速回転するハンドルと掌の摩擦で煙が上がっている。

「いいから今は照れないで。命に関わる」

「照れとらんわ!」

 ハンドルがとうとうすっぽ抜け、すでにオープンカーと化していた頭上を、竹トンボのように飛んで行った。焦っている間にボンネットもドアも霧散する。駄目だ無理死ぬ死なすか阿呆なんて喚きながら、底の一部とタイヤだけになった残骸を無理やり方向転換し、私たちはどうにか路肩に転がり込んだ。

「…………ヘイダーリン、怪我はない」咳き込みながら私は問う。

「おかげさまで」私の腕の中、クイックステップ・リバースターンは憮然と答えた。「なんでわたしより弱いくせに庇うかな、あなたは」

 ぶつくさと呟き、クイックステップ・リバースターンは私の上から退く。強がりではなく実際ほとんど無傷のようで、すぐに立ち上がる。眼を閉じて天を仰ぐ。やがて道路のあちこちから、車を形作っていた霊子が金の帯になって漂ってきて、クイックステップ・リバースターンの身体へと回帰していく。私はそれに、やっぱり見とれた。ひとの目で追える霊子の動きはほんの一部でしかなく、クイックステップ・リバースターンの向こう側での姿を、私は完全に捉えることはできないけれど。それでも、ふとした折に晒されるクイックステップ・リバースターンの本性は、その片鱗だけでもまぶしいくらいに美しい。

「今こっち来たら火傷するよ」

 しなやかな背中が帯びる、陽炎のような揺らめきに指を伸ばしたら、振り返りもせずに遮られた。不機嫌でもきちんと忠告してくれるあたり、クイックステップ・リバースターンも、私のことを言えないくらいのお人好しだと思う。

「一緒にしないでくれるかな」クイックステップ・リバースターンは言った。「あなたと違って、誰にでも優しいわけじゃないよ」

 散らばる荷物をふたりで拾い集めた。鞄の中身を確かめて、顔を上げたら、クイックステップ・リバースターンの髪が湿っているので雨だと気づいた。クイックステップ・リバースターンは小さな舌打ちをひとつして、私の手から傘を取って、開いた。

 傘の内側に鼻をひくつかせていたクイックステップ・リバースターンが、ああ、と低い声で呻いた。

「思い出した、このにおい、むかし出雲で会ったやつだ。そういえば、こういうちまちました呪いかけるのが得意だったな」

「呪い? それって、どんな」

 私は尋ねた。

 クイックステップ・リバースターンは眉根を寄せて、こう答えた。

「家内安全。と、縁結び」

 余計なお世話だっての、とクイックステップ・リバースターンは空に向かって毒づく。

 霧雨が、世界に銀の紗幕を引いていた。暗い雲は空の途中で切れていて、その向こうから光が届いた。傘の影は、当然のように私に傾いていた。笑うのが下手なクイックステップ・リバースターンの、今みたいに片側だけ引きつっている目元は、つまり口で言うほど機嫌は悪くないしるしなのだった。

 冷たい傘の布地に触れてみる。光に洗われて淡くなった柿色は、きっとこれまでも繰り返し誰かを守ってきたゆえなのだろう。

 なるほど、狐の嫁入りには、こういう傘がちょうどいい。


―――――

2022.9.19 #f2c9ac 洗柿 

渋い色をお好みですねと思ったが出題者は特に思い入れはないとのこと。ないんかい。

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