回送
冬だのに満開の木蓮があるなと思ったら花弁はみんな紙でできているのだった。おみくじを引いた後のひとびとがするように、細く折りたたんだ紙が枝にきゅっと結わえてある。それがいくつもなので、きゅっ、きゅっ、きゅっきゅっきゅっ……音まで揺れているようである。
私は穴の開いた傘をたたんでその木の前に立っていた。いつ鳥居をくぐったかも覚えていないが、こんな木があるのだから境内には違いない。風に吹かれる偽物の花びらは、白い紙なので色褪せるというのはおかしいけれど、雨ににじんだり日焼けたりして古びたのばかりだ。そういえばおみくじというやつは吉を結ぶのか凶を結ぶのだったか、私はそれが思い出せず、けれどどうしても気になって、枝をたぐって紙のひとつを開いてみる。そこに記してあるのは吉凶や禍福でなく何かの地図で、しかしあまりに粗雑な描き方だから、目的地さえ判然としない。走り書きの線に紛れて、土地だか人の名前だかがひとつ書いてある。それを読んだ途端に寒気が強くなってきて、私はたまらずその場から逃げ出した。転がるように階段を下りて、動きかけの路面電車に滑り込んだ。
席に座ってようやく人心地ついたと思ったら、向かいからくすくす笑いが聴こえてくる。新町で下宿をしているおかみさんが、大きな風呂敷包を膝にのせている。
「壊れかけなんか持って、歩き回ったって、仕様がないでしょう」
平べったい眼は私の手元を見ている。傘のことを言っているらしい。
「ほつれが引っかかるから直してもらうんだって、そう言ってお出かけになったでしょう。もう三日も前のことですよ」
そう言われてみればそうだった気がする。しかしこちらはもう一刻も早くうちに帰りたくて、窓の外をちらちらうかがっている。
「早く診てもらったほうがよろしいわ。本当に外で
「傘の穴くらいどうということはないです。それにしばらくは晴れの予報だから」
私が答えると、おかみさんは真顔になって黙ってしまった。機械音だけが響く箱の中で、私はきまり悪くて、手元の傘の柄の、節くれだったところをさすっていた。やたらに古い傘で、私の好みではない。どうしてこんなものを騙しだまし使いつづけているのだったか、思い出そうとしているうち、電車がカーブで揺れた。手が滑って傘が倒れた。おかみさんの風呂敷も捲れた。おかみさんが抱えているのは水の張ったガラス鉢だった。
赤い金魚が一匹泳いでいる。
「だから早く手を打ちなさいと言ったのに」
おかみさんの声に合わせて、金魚からぱくぱく泡が浮く。
「うちのみたいな造作にこだわったのではなくとも、若い身体は値が張ったでしょう。勿体ないこと」
ずっとおかみさんだと思っていたその声は、金魚から聞こえるのだと私は気づく。
「おたがいに不幸なことですわ。この方だって、いまさら夢から醒めたところで、もとに戻れやしないのに」
電車が停まった瞬間、私は飛び出した。
全速力で駆ける。駆ける。視界の両端に流れていく街並みは灰色で、長いこと暮らした近所のようでも、始めて来る場所のようでもあった。どこにでもあるような地形。四つ角、三差路、分かれ道。思い出すのはあの地図のことだった。どこでもない曖昧な地図は、それ故にどこにでも当てはまって、いつでも、望むと望まざるとに関わらず、あの場所への道を辿ることになる。
私は自由になった両手を大きく振って、まっすぐ、ただまっすぐに走りつづけ、少しでも恐ろしい記憶から遠ざかろうとするけれど、だんだんと迫りくる次の交差点の標識が、虹の油膜のように光るのももう見えてしまっていて、あれを越えた私がきちんと私のままでいられるか、まったく分からないでいる。
―――――
2022.5.16
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