白米派もいる

 ハムとバターとシロップの匂いにうんざりして目を覚ます。寝ぼけ眼をこすって食卓に座ると、トースターが音を立ててパンを射出し、私の目の前のお皿には焼きたての六枚切り食パンが着地する。熱い紅茶を啜って、なんとか胃を動かした私は、覚悟を決めて朝食にとりかかる。トースト三枚が毎朝の私のノルマで、それを果たさないことには自分のお小遣いだってままならない。そう、消費が義務なんである。なにしろ私の国の通貨はバッククロージャーなのだから。

 四角いプラスチックの、白か水色をした、食パンの袋をとめるための小さな部品。バッグクロージャー。それを得るためには食パンを食べる必要があり、逆に言えばより多く食パンを食べたものがより裕福になる。

 もちろん、バッグクロージャーの形をしたプラスチック製品を生産するだけなら、いくらでも可能だ。けれどバッグクロージャーは食パンの袋をとめてこそバッグクロージャーであり、食パンの袋をとめていないバッグクロージャーは贋金もとい贋バッグクロージャーとして禁止されている。それに、袋の中の食パンを食べずに廃棄してしまうのも駄目だ。きちんと中身を消費されなかったバッグクロージャーは“汚れたバッグクロージャー”として摘発対象になる。だから清く正しい国民は、ひたすらに愚直に食パンを食べ続け、一斤あたり一個のバッグクロージャーを地道に獲得していく。そうしなければ生活できないから。飢えないためにはパンを食べよ。二重の意味で。

 蜂蜜バターのしみた三枚目のパンを無理やり詰め込むと、私はそそくさと制服に着替え、鞄を持って玄関に向かう。食卓の横を通り過ぎるとき、兄が不満げな目線をよこす。『いってきます』くらい言えよ、と思っているのだろうけれど、食べ盛りの兄は朝っぱらから私の倍のノルマを課せられていて、五枚目の食パンを口いっぱいに頬張っている最中なので、お小言は発生しない。無言のまま家を出る。

 早足で駅に向かい、いつもの電車に乗る。学校は二駅先だけれど、私は途中の駅で一旦降りる。改札内のトイレに駆け込み、個室に鍵をかけ、そこで流れるように嘔吐する。

 吐く、吐く、吐く。この世の理は、一度胃の中に入れてしまえば食事としてカウントするらしく、この方法であれば食パン並びにバッグクロージャーの冒涜とはみなされない。それでもあんまりやりすぎると、バッグクロージャー警察に目をつけられるらしいけれど(そういうニュースをときどき聞く)、今のところは生理現象のうち。だから私は指を喉の奥に突っ込んで、涙目になりながらも吐きつづける。

 口の中に酸っぱ苦い液が逆流するようになって、もう何も出てこなくなったころ、私はようやく息をつく。電車に乗りなおして、今度こそ登校する。

 こんな方法は間違っていると思う。みんなみたいに社会の仕組みに適応するべきだ。だけれど、私にはどうしてもそれができなかった。食パンが嫌いなんんじゃない。バッククロージャーが悪いんじゃない。そんなことは分かっている。だとしたら、私はいったいどうしたいんだろう。答えはいつも出ないまま、学校に着く。

 嘔吐に時間がかかることもあるから、登校時間はいつも早めだ。部活のある子は朝練に出て行って、部活のない子たちがやって来るにはまだ時間がある、そういう時間帯。教室には誰もいないこともざらだけれど、その朝は先客が一人いた。

 私がドアを開けたとき、彼女はちょうど大きく息を吸い込んで、教室の中央でこう叫ぶところだった。 

「おにぎりが食べたーーーーいっ!」

 それは、まるで天啓のように。

 彼女の渾身の思いは、私の全身を震わせた。

 生まれた時から世界はバッグクロージャーで回っていて、そのことに疑問なんてなかった。

 食べることは生きる手段のひとつでしかなくて、与えられた選択肢以外なんてないと思っていた。

 ――彼女のことを知るまでは。

 これは私と彼女の食欲と、この国の経済を賭けた、まるでばかばかしい革命の物語である。




――――

2022.2.7 「通貨」でお題を募ったら「パンクロージャ(食パンを止めるヤツ)」ときたので書きました。

他の通貨候補は 木の実、歌、シャボン玉、踊り、ドアノブ、名前、涙 でした。

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