うさぎのにおい

 登山に出かけていた兄が帰りにうちに立ち寄って、山頂の土をこねて作ったうさぎを置いていく。迷惑。

 庭の腰掛けの上に放っておけば、邪魔とはいえ打ち壊すまでもなく、日光と風雨にさらされて二三日で丸っこい泥の塊になる。じきに風にふかれて、茶色い輪だけがあとに残っている。

 天気が良くなったので、編み物のつづきは庭ですることにした。温室を兼ねたガラス張りの家から編み棒と毛糸を持ち出して腰掛けに尻を乗せると、ぶぅぅいと音がして、何かが胸をすり抜けていく感じがした。びっくりしている間に湿っぽいにおいが立つ。花とは違う獣のにおい。それで私は編み棒を置いて図書館を訪ねる。午前中いっぱい図鑑をめくって、うさぎは怒ると鳴くということを確かめる。

 兄のやることはいつもこうだ。形式と機能がべつべつにやってくる。彼がよくお茶会を開いた家はもはや海に沈んだけれど、今でもその海域は生クリームの味がする。自作のバイオリンはちっとも音色を奏でず、代わりに地球の裏側の太平洋プレートと共振して地震を起こす。牧場の牛が突然に燃えるので呪いだなんだと騒いでいたら、半世紀後のおんなじ場所で彼が野営のたき火をする。百年前に枯らした松の盆栽をあてにして、女が首を吊りたがる。

 彼の手からまともに生まれたものなど一度しかお目にかかったことがなく、造物主としては私よりも才覚にとぼしい。まあ、かく言う私も、せいぜいが自分の庭で品種改良に明け暮れて、天地創造なんて煩雑な仕事は妹に任せきりなのだけれど。

 ともあれ今回はうさぎである。編み棒を動かしながら、増える網目のような緻密な経験則に基づいて、私はひとつの結論に落ち着く。すなわち諦めて待つべし、ということ。首根っこつかまえて捨ててしまおうにもその首がないのだから、放っておくよりほかにあるまい。

 晴れ渡る空の下、私はうさぎのそばで編み物をする。音とにおいしか持たないうさぎの、その鳴き声すら最初の一回こっきりだから、その小動物の存在はにおいだけが頼りだった。一つの感覚器でしか捉えられない生き物は、それでも十分わかるほど私の周りを縦横無尽に跳ねまわった。食欲も旺盛らしく、花壇の花を端からむさぼった。食べては出した。実体のないくせに排泄物はきちんと庭の片隅に盛り上がっているので辟易した。私の育てる蘭や菊や水仙は、暇つぶしといえどそれなりに咲いて、四季折々にかぐわしかったのに。たかだか獣一匹の消化活動を経るだけでどうしてこんな悪臭になるものだか、理不尽な変換の仕組みは杳として知れない。私はうさぎの出したものを肥やしにして、千切れた花の代わりに新しいのをつぎつぎ植えた。野生のにおいと洗練された香りの循環は、成立させてしまえばもっともらしいように思えた。

 待つのは得意だった。正確には編み物を覚えてから得意になった。自分が何を待っていたかも忘れてしまうほどに。

 晴れがつづいた。しばらくして町の連中がやってきた。あんまり雨が降らないので弱っているという。

「今さら私に縋ってどうしようっていうの」私は言った。手塩にかけたかわいい子供たちではあるが、救いを差し伸べる理由にはならない。

「このままではみんな干からびてしまいます」町の代表らしき男が言った。慈悲を請うその口から蜜のにおいがする。

 私は花鋏を取ってきて、じゃきんじゃきんと彼らの首を刈り取った。「そんなことなら庭から出ていかなければ良かったのに」声はとどかない。生きていた頃だってはじめから届いていなかったのだ。血潮を赤くしたって、言葉をしゃべったって、花は花で、通じ合うはずがなかった。

 何もかも急につまらなくなって家に入った。ガラスの部屋は夜になると冷えて、私は編みかけのマフラーにくるまって目を閉じた。身体中に巻き付けてもじゅうぶんな長さがあるそれは、ずいぶん昔に編みはじめてやめ時が分からない。惰性でつづけた仕業の何をもって完成とするのか、ひいてはどうなれば完全と言えるのか。答えを導くには私自身が不完全な頭しか備えていない。

 夢のあわいでうさぎのにおいがした。いつの間に這入って来たのだろう。温かくも冷たくもないうさぎに、触れられないようで触れていた。うさぎの存在がにおいで、においとは拡散するものなれば、うさぎは部屋じゅうに満ちていた。私はうさぎの中にいて、巻き付けたマフラーによって辛うじて輪郭を保っていた。そうでなければ私はたちまち消化されて、私が育てた花と同じように臭気を放つ汚物に変換されただろう。私を埋めてくれる誰かがいるならば、それでも構わないと思った。自身の肉体のなれのはてから芽吹く草木を想像しながら眠った。

 夜が明けて、目が覚めた。私の身体はまだ私のまま残っていた。

 澄み切った空気の中にうさぎのにおいがないことに私は気づく。マフラーの隙間から差し出した素足に痛みが走った。床にはガラスの破片が散らばって、きらきらと朝陽を反射していた。

 眠っている間に雹が降って、ガラスに穴を開けたらしかった。丘の上の爽やかな風が吹き込んで、うさぎはきれいさっぱり流されたのだった。

 庭に出る。細切れになった葉っぱ、花びら、掘り返された肥料のにおい。それだけだ。うさぎはいない。腰掛けの上に図鑑が置きっぱなしになっている。表紙を見返して、その著者が兄の五十六番目の名前だと、私はようやく思い出す。表紙をめくった最初のページ、すっかり乾いた紙のにおいと共に、彼の言葉は浮き上がる。

『愛と死に置き去りにされたほうの妹へ』

 兄のやることはいつもこうだ。何かをするには早すぎるか、すっかり手遅れ、そして的外れ。彼の作り上げた作品でまともなものはひとつしかない。末の妹ただ一人きり。

 だからこれが私の運命だ。

 私は図鑑を閉じ、まだ全身に巻き付いているマフラーの、端の毛糸を図鑑にくくりつける。そうしてそのまま家を出る。香る箱庭から一歩遠ざかるたび、編みかけのマフラーがほどけていって、それがすっかりほどけるころには今度こそ百年前の松の木にたどり着くだろうと思っている。



―――――

2021.11.28 フォロワーさんが「香り(嗅覚)に係る語彙は他の五感にくらべて少ない」というようなことを言っていて、ほんなら書いてみましょうという動機でした。

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