夏の具合がいよいよ悪いというので見舞いに行くことにした。八月の半ばから顔色が悪く静養していたのが、九月のはじめに調子を戻して近所を散歩するまでになったけれど、やっぱりまた寝込んでしまった。それを聞いて私が残念とかがっかりするとかはない。夏がそういう風なのはいつものことだし、夏自身が納得していることを他の者が嘆くのはお門違いだと思う。

 車を呼ばせてから、家の裏手の野良桔梗を切って、濡れた新聞紙でくるんで、それでも車がなかなか来ないので、やっぱり歩いていくことにした。夏が寝込んでいる町は人出が多かった。老若男女問わず何べんもぶつかってきて、誰も謝りもしなかった。

 夏の屋敷は、玄関から伸びる廊下がすべての部屋をつなげている。奥から出目金が出てきたところだった。厚みが無いので身をかわさずにすれ違える。

 障子を開ける前から薄荷の香りがした。私が這入ると夏が身を起こした。

「お兄さまにわざわざご足労いただくなんて」蜘蛛の糸みたいなか細い声で夏は言った。

「ぜんぜん大したことじゃないよ。まだ半身で軽いから」私は答えた。口にしたのは本心で、姉妹の中でいっとうかわいい夏に会えるなら、わたしは地球の裏側からだって会いに来るつもりだった。

「またそんなこと」夏ははにかむように言った。青白い頬がほんの少し血が通った気がした。もちろん気のせいだ。「お兄さま、みんなにおっしゃっているのでしょ。あたくしたちに会うたび……」

 夏は泉の湧くように咳を生んだ。薄い布団がずり落ちて、さざ波になって床を流れていった。夏の着ているのは蚊帳だった。

「それでもあたくしはお兄さまの嘘を確かめることはできませんわ。あたくしたち姉妹はお互いに、生まれてから一度も会うことができないんですものね。知っているのは、お兄さまの連れてくるかすかなにおいだけ……」

 私は新聞の包みを開いたが、夏の部屋には花器どころか椀のひとつもない。それで夏の蚊帳に花を挿した。花茎はどこまでも深く沈んだ。てっぺんの星型の花まで飲み込んで、夏はちいさく身体を震わせた。

 夏からあふれる波はぬるかった。その正しさに私は安心しても良かったはずなのに、夏の温度がどんどんと逃げ去っていくように思えた。揺れる網目の奥に見えるのは夏の肌か、あるいは息遣いに合わせて蠢く網目こそが彼女の肌で、その奥に見えるのは彼女のもっと深いところの肉かもしれなかった。

「お前の孤独は罰じゃないんだ」私は言う。「なぜならお前に罪などひとつもない。お前がお前であるあいだ、いくつの川が干上がったとかあふれたとか、どこの山が燃えたとか、ひとが何人死んだかとか、どれだけ茄子や胡瓜が実ったかとか、どんな病気が流行ったとか、これからどんなに果物が甘くなるかとか、そういうのは全部ただの結果にすぎない」

「心得ておりますわ」夏は言った。「だからこそあたくしはまた死んでしまうの」

 蚊帳の闇が揺れた。また震えているのかと思ったら、夏は笑っているのだった。喉の奥での忍び笑いが、次第に声高く、哄笑になった。私は急に気味悪くなって、立ち上がり、部屋を去った。

 町に出ても、すぐに帰る気にはなれなかった。身体が重いような、ぶくぶく膨れたような感じで、指一本動かすのも大儀に感じる。夏のところで水を吸ったのだろうか。だとすれば私の身体は夏のにおいがするだろう。通りは変わらず人が多く、けれども行きとは打って変わって、みんなが私を避けて歩くようだった。バス停に着いて並んでいると、時刻表を読んでいた男が私を見て、

「おや、やけにまぶしいと思ったら、もう十三夜か」と言った。

 それで私は、幽霊とは匂いのことなのだと、そしてこの町のぜんぶは抜け殻で、私こそがいちばんはじめの幽霊だと分かった。

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