Final button abroad
シャツのボタンが取れかけている。上から二番目のボタンだ。一番上のボタンは首元が苦しくてはずしがちなので、その下に最も負荷がかかる。私は辛うじて残っている糸をハサミで切って、洗濯の後にボタンをつけ直すことにする。
「第二ボタンね。誰かにプレゼントするの?」洗濯物が乾くまでボタンを握り締めて紅茶を飲んでいると、最終洋行が尋ねた。あいかわらず的外れな質問しかしない飛行機だ。
「あげないよ」私は答える。「それに第二ボタンが珍重されるのは学校制服の上着だろ。これはただの普通のシャツだもの」
「ただの普通のシャツ!」最終洋行はその言葉をくりかえす。「素敵だわ、この世の何よりもかけがえのないものだわね」私の返事のどこが気に入ったのか、そのまま窓から飛びたってしまう。抜けるような青空の中で最終洋行が八の字飛行を決めているうちに、洗濯物はすべてすっかり乾いてしまう。
家の裁縫箱に備えてある糸は、売り物のシャツに使われている繊細な糸とは違ってタコ糸のように太く、その糸でつけ直したボタンはもとからついていたボタンよりも頑丈になる。私はそのシャツを着て旅に出る。道中は山あり谷あり、私は出会いと別れを繰り返す。再就職先を探す赤ずきんのオオカミに動物園を紹介し、サバンナで環境保護活動に参加し、メジャーデビューを目指すロバの音楽隊のマネージャーを買って出て、眠れる美女の目覚まし時計から電池を抜いてやる。やがて私は世界の果てにたどり着く。そこには沙漠が広がっていて、虚無の崖に向かって砂が絶えず流れていく。背中に這入り込んだ砂が肌を撫でては流れていく。旅の間じゅう身に着けていたシャツはすっかりぼろぼろになっている。シャツというのもはばかられるようなぼろきれを纏って、しかもその中身たる私自身は更に擦り切れていた。あとは砂と共に世界の果てに向かって押し流されていくだけだった。長い夕暮れが過ぎ、私は夜空を眺めて最後の時を待っていた。
星だと思っていた一点が近づいてきて、それが飛行機のライトだと気づいたとき、すでに私の右脚は世界の果てから落ちかけていた。
爆音と煙をまき散らして、最終洋行は私の傍に着陸した。
「ずいぶん遠出したわね」最終洋行は言った。「おかげで迎えに来るのにも時間がかかっちゃった」
「悪かったよ。きみが正しかった」私は言う。「ただの普通のシャツを着つづけるのがどんなに難しいことか、思い知ったよ」
「ええ、けれどボタンは残ってる。それは立派なあなたのシャツだわ」
最終洋行は言った。私は自分の胸元を見た。他のボタンはすべてすっかり千切れて失くしてしまったけれど、私が自分で縫い付けた上から二番目のボタンだけは残っていた。
「それじゃあ帰りましょう」ハッチを開いて最終洋行は言う。「そういえば私、あなたを乗せるのってはじめてだわ」
「私もきみに乗るのははじめてだよ、最終洋行」
私は答えた。世界中を冒険しても、まだ初めてのことが残っているなんて。それはなんだか奇跡的なことのように思えた。まるでただの普通のシャツみたいに。
「アクロバットはなしで頼む」
「運賃は第二ボタンで結構よ」
朝よりも早くに家につくだろう。
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