冬虫夏草

 古本を引き取って帰ったらもう碓氷が家に着いていて、納屋の前でしゃがんでいる。私に気づいて立ち上がったら両腕と腹から土がぼろぼろ落ちた。

 冬虫夏草を植えたのだと碓氷は言った。増えて売りさばけば一攫千金だと。

 ひとの敷地を勝手に使うなよと私は思うが、植えてしまったものは仕方がない。説教はあとにして台所を見に行く。夕食は沖さんが用意していったから、あとは温めるだけだ。私が食卓に皿を運ぶあいだ、碓氷は下着姿になって脱いだ服をばさばさ払う。赤黒い土が縁側に点々と落ちた。

「だいたい冬虫夏草って何だよ」卓袱台に向かいあって手を合わせ、箸をとってから私は尋ねる。

「漢方だよ、キノコの一種だ。あそこは日当たりが悪いからきっとよく育つ」失礼なことを言いながら、碓氷は味噌汁の椀を一度も置かずに空にする。卵とじをかきこんで、きんぴらをわしわし食って、アジの開きを猫が跨ぐくらいにして、その間に米を三杯おかわりする。丼で。

 碓氷はむさくるしい髭面に似合わずまだ学生の身分で、節約のためこうしてたびたび飯をたかりにくる。女癖が悪いのと胡乱な商売に手を出すのをやめれば、少しは生活もましになるだろうに、言っても聞かない。それに私としても、彼のすがすがしい食べっぷりを肴に飲むのが一種の楽しみになっている。相互扶助なのだ結局。

 食後に西瓜を切ろうと思って、長い包丁を出したら、「もう割ってあるよ」と碓氷が言った。廊下にあるのを目ざとく気づいていたらしい。いびつに割れた西瓜の塊に碓氷はかぶりつく。私も小さい欠片だけかじった。ぬるい西瓜はそのぶん甘くて、昔畑でとれたばかりのをわざと地面に落として食べたのを思い出した。

 翌日になって外を見たら、地面からさっそく妙なものが生えている。白くてひょろ長くて、もやしのようなそれが冬虫夏草の芽なのだろう。碓氷の見込みは珍しく当たったわけだ。喜ぶ姿が目に浮かぶようで私は彼の訪問を待つ。

 しかしその日以来碓氷はちっとも来なくなる。後輩に訊いたら研究室にも顔を出していないらしい。音信不通のまま彼の残した冬虫夏草だけが順調に育つ。白い芽が伸びて、膨らんで、それが人の形に似てきたと気づくのは一月ほど立ったころだ。意識したとたんに、それはみるみるうちに女の姿になっていく。

 顔の造作は単純で、鼻と口の凹凸が分かる程度だが、四肢は指先や爪まではっきり分かれている。俯いて、地面に座り込んでいるような格好だ。人型とはいえキノコだから軽くて、風が吹くと揺れるのが、却って意思のあるようで不気味である。夜になるとぼうっと光るので星見にも邪魔だ。

 虫草が育つにつれ、早いうちから嫌がっていた沖さんがとうとう来なくなる。気持ちは分かるが、家のことをやってもらわないと滞るので、沖さんの宅に出向いてなんとか説得を試みる。

「いくら坊ちゃんの頼みでもあればっかりは堪忍してください。あの熊を追っ払ってもらわなきゃ私は御宅にあがれません」

「熊なんていないよ」

「あのなまっちろい牙を見るだけで、残り少ない寿命が縮む思いがいたします」

「牙なんてないよ」

「ほんに不憫なことだとは思いますがね、それでも相いれないものはございますよ」

 話にならないので土産の団子だけ置いて退散する。帰り道、緩い坂の前で私は足を止める。坂の真ん中に佇んでいる人物に目を凝らすと碓氷だった。駆け寄って話しかけても生返事で顎をちょっと動かすだけだ。こっちを認識しているのかも怪しい。私は戸惑いながらも彼の首根っこをつかんで家へ引きずる。普段の碓氷相手ならそんなことはできない。されるがまま私についてくる碓氷はおどろくほど軽かった。

 虫草のことなんてもはやどうでも良く、とにかく彼を正気にさせねばならないと思って家に上げた。しかし狭い家なのでどうしたって納屋の前は見える。柱の向こうの白い影を認めた途端、碓氷は私の腕を振り払って吸い寄せられるように虫草の女のもとへ行く。鼻の触れあうほど近くに腰を下ろして、それきりてこでも動かない。夜が更けて明けてまた宵が来てもずうっとそうしている。伸び放題の髭が蠢いているが、女の薄い唇に吹き込むような喋りかたで、私には何を言っているか聞こえない。彼の吐息で虫草の頬がふくふく膨らんだり凹んだりした。

 雨が降っても日が照っても碓氷は虫草に息を吹き込み痩せていく。そのことについて、私ははじめに碓氷を発見した時よりは驚かない。彼の中身はあのときもうとっくにからっぽで、辛うじて生の名残が形を保っていたにすぎないのだ。それすら抜けてしまったらあとは風船のようにしぼんでいくのは道理だった。

 目が覚めると正午だった。家じゅうにひどいにおいがしていたのが不思議に止んでいた。栄養に満ち満ちた虫草はいまや昼間でも燦然と輝いていた。その口から胸元にかけて、煤けたぼろきれのようなものが真っ黒にへばりついていた。私はそれの名を久しぶりに呼ぼうとして口を開いた。羽虫が一匹飛び込んできて、喉の奥にぶつかり奥歯の裏で死んだ。

 私は台所から腕いっぱいに食器を抱えてきた。ふたたび納屋の前に立つと、虫草を見据えたまま、食器を片っ端から地面に叩きつけた。どれも碓氷が使った皿で、椀で、丼で、箸で湯呑で匙だった。酒杯はない、下戸だったのだ。私みたいな陰気なやつと、酒も飲まずに付き合える稀有な男だった。そういう男がいなくなるのは残念なことだと思った。

 折れた箸を使って私は虫草から碓氷を引きはがした。干上がった海藻のような音をたてて碓氷は剥がれた、萎びた身体はもう首と肩との境目もなかったが、この辺りだろうと思って力を込めて握ると、かすかに一度脈打った気がした。それきりだった。

 遠くの雑木林で風の通る音がした。雲は高くに少しだけあった。私は碓氷の成れの果てを地面に横たえ、下の土を掻きはじめた。大きな穴ではないとはいえ、欠けた食器を鍬の代わりにするので、なかなか進まない。碓氷のように、家主が買い物に出ている間に、とはいかない。日が傾くまでかかる。

 どうにか穴を掘り終えて、碓氷をそこに落とし込む。残った食器と土をかけて平らにする。中草はずっとそれを見ていた。無表情のような、微笑んでいるような顔だった。私は女の隣に座ってできるだけ同じ景色を見ようと試みるが、北側の土地だから暗くなるのも早くて、じきに文目も分からぬ夜がくる。その暗闇のなかで私は、次の冬虫夏草が生えるのを待っている。

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