人間の練習

準永遠

update

 寝る前に宇宙のアップデートをはじめたら案外時間がかかってしまう。

 普段なら歯を磨いている間に済むはずが、今夜はいつまでたっても完了しない。眠れなくてつらいのにあくびのひとつもできやしない。宇宙全体のアップデートにおいてはあらゆる概念が更新中で使用不可なのだ。ベッドも枕もパジャマも、眠るための肉体も、あくびさえもが更新される。

大型アップデートなら事前にそれと告知してほしいものだと恨みながら私は歯磨きを続けている。口の中でぬるく薄まるミント味を、吐き捨てる洗面台すら存在しない。

 もうどれほどの時間がたったのか。時計を持っていれば目安にはなるけれど、そもそも時間を表す単位も更新されてしまっては意味がないので持たないことにしている。一時間は六十分。一分は六十秒。一秒はセシウム原子の放射周期をもとに定められる。だけれどかつては、一秒地球の自転の八万六千四百分の一の時間だった。人間の決めた単位でさえそんな風に変わっていくのに、宇宙が変わらないなんて、そっちのほうが余程おかしい。原子の波長や光の速さといった、人間が事象を認知する根源的な基準さえ変わってしまったら、人間はそのことに気づけるのだろうか? 人知の及ぶ範囲では変化を証明すらできないアップデートが、宇宙ではたびたび起こっている。誰のためでも何のためでもなく、ただ、不変のものなどこの世にひとつとしてない、という唯一の法則に従って変化しつづけている。だから、今回のアップデートだって人類には何の影響もないのだろうなと緩く構えている。

 私にとって目下の問題は、口内にあふれた爽やかな風味の唾液を、観念して飲み込むべきか否かだ。毒というわけではもちろんないだろうが何となく嫌な感じがする。おそらくはこのミント味のせいだ。これが子供向けの、バナナ味やイチゴ味といった甘い歯磨き粉だったらまだ抵抗が薄かったのだろう。ミント味=歯磨き粉。歯磨き粉=吐き出すもの。∴ミント味=吐き出すもの。で、私にとってミント味は口内で味わうものではあれど嚥下するものではないのである。おかげでチョコミント味の飲食物まで苦手な始末だ。例えば宇宙のアップデートによって地球の食べ物がすべてチョコミント味になったら、と不吉な仮定が頭をよぎり、そのときは潔く飢えて死のうと誓う。そういうくだらない覚悟を決めているうちにどうやらアップデートは終了する。

 シャットダウン。再起動。プログラムを再構成しています。一%、四十九%、七十二%、九十七%。

 ハローワールド、久しぶりじゃーん、そのリップ新色? 似合ってるよ~。とか。言ってやれたら良いのだけれど。少なくとも私の目の前の洗面台はアップデート前と寸分たがわぬホーロー製で、私はそこで待ちかねたように口をゆすぎ、居間に戻り、つけっぱなしだったテレビを消す。リモコンのスイッチを押す瞬間に一瞬違和感があったけれど、その日の私は眠気に勝てず、ベッドに直行してぐっすり眠る。

 翌朝。起床、顔を洗う、湯を沸かす、またテレビをつける。天気予報と本日のニュースのまとめが流れたところで私はようやく異変を理解する。嫌な予感を抱きつつ、服を着替えて街に出る。行きかう街の人々を見て、私は今回のアップデートの内容を確信する。

 全人類の髪型が黒髪ツインテールになっていた。

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