冷の荒野〈1〉
“影切り”の手解きは奉行から受けた。手本を見せられただけで、要は即実践だった。気功を影に繋げるが出来れば上等だと、実践を積み上げて“影切り”の腕を磨けと云うことだった。
順風満帆とはいかず、壁にぶち当たる。奉行から言わせて貰えばあって当然、なかったら堕落する。無言の喝は意外にも重く圧し掛かったし、遠回しの戒めに思えた。
今回執る事案に於いて、奉行自らが腰をあげた。力を添えて戴けるのは幸いだが、どこかしっくりこない。
案の定だった。
気付いた時には、既に遅し。事案の現場となった場所で、奉行が柔軟体操をおっぱじめていた。
腕を伸ばして背伸びの運動。屈伸、反復横跳び。倒立前転、後方二回宙返り一回ひねり。地に足を着けて直ぐに手を膝に添えて左右に回すとアキレス腱を伸ばす。今一度、腕を伸ばして背伸びの運動で呼吸を調える。
途中で柔軟体操の領域を超えていた。
見た目は若いが中身は中年男性、名は
男も茶太郎と同じく“影切り”の使い手。
奉行は事案に便乗して“影切り”の腕慣らしをしたかっただけだ。他の捕り物に事実を伏せるのが心苦しいーー。
「茶太郎、武器」
「清登様、何てことを催促されるのですか」
「いいから武器」
月明りで奉行の顔つきがはっきりとしている。どうやら形格好をしたいのだ、チャンバラごっこにつきあわされているようなものだ。など、口が裂けても言うは出来ない。
茶太郎は渋々と、十手を奉行に差し出した。
「んじゃ、いっちょやるかっ」
十手の柄を握り締め、夜空に先端を向けて士気を高める。奉行は完全にやる気満々だ。
で、肝心の標的は。何処と辺り一面に目を凝らすが見当たらない、代わりに奉行からの視線が矢鱈と熱い。
ーー防、影壁……。
迷う暇はない。衝撃に備えると、茶太郎は防御の通力を発動させる。
ーー刺、影突き……。
腕慣らしとは思えない威力だった。影の盾が消滅してしまった、再度通力を発動させる余裕がないほどだ。
奉行を、清登を侮っていた。奉行、馬場清登は“影切り”だ。間を置かずに通力を発動させる余裕があるのは熟練の証拠。それも、息遣いの乱れをしないでだ。
「ちっ、やっぱり腕が鈍っていた。茶太郎、
あれほどの腕前を見せといて、寝ぼけているのか。と、思うものの指示は指示だ。
奉行は、清登は標的を見定めていた。直接仕掛けなかった理由はわかるが、不意を突かれたようなものだ。球技、格闘技で見受けられる、相手を惑わす動作は“影切り”馬場清登が得意としていた。道義的に正しいのはさておき、囮となった茶太郎には気の毒だが悪業を仕置きするに相応の対処は必要だ。と、いうことにしとこう。
ーー捕、影踏……。
形格好だと伺えるが、これも“影切り”の通力のひとつだ。人混みでごった返す場所での現行犯で発動させているのが殆どだが。
縄で縛る手応えがない。ぺらりとした、薄紙を彷彿させる影。
「“呪塗り”の挑発だ、奴は蜥蜴のように尻尾を切って逃げたふりをしているだけだ。茶太郎、俺たちも餌に釣られるふりをするぞ」
矢張り、此処が“呪塗り”の居所だった。奉行が行動を起こしていたのにも関わらず、直前まで見抜けなかった。
これまでの“影切り”での力量が通じない、かつてない恐怖が其処にある。奉行はそれとなく教えを示していたーー。
「お奉行様、貴方は先程通力を連続で発動された。現役でないお身体でありながら、なんて無理をされたのですか」
「文句いうな。ちと、腕と脚にきてるだけだ。と、いうことで……。」
一歩踏み出しただけで転倒してしまうのは、反動の証拠。これ以上、奉行の痛々しいお姿をみたくない。
ーー着、影張り……。
「茶太郎、解けっ」
奉行は藻掻いていた。茶太郎が放った通力で、動きを封じられた為にだ。
「何をおっしゃるのですか。貴方なら、私の通力を破るはお手の物でしょう」
「馬鹿垂れ、ふざけるなっ。おいっ、指輪を俺に填めるな」
「貴方を犬死にさせたら、私が門倉に叱られてしまいます。これは貴方に相応しいと、私は判断致しました」
茶太郎は地面に突っ伏す奉行から離れ、翻す。
ーー茶太郎、戻れっ。おまえひとりで太刀打ちできないっ、いっちょまえに格好をつけるなっ。
吹き荒ぶ冷たい風が、奉行の罵声を掻き消している。暖をとる支度をしてなかったのが心残りだが、声を荒らげる気力があれば心配はない。
***
此処は太古の息吹が象りを残している。しかし、砕かれてしまった。直接の行動をせず罪を他に被せる手口は、この上ない卑怯ぶりだ。
その大罪を、この手で仕留めるーー。
「我が名は万楽寺茶太郎、捕り物与力で“影切り”の使い手。型は違えど、通力使いの誇りがあるならば、正面からの勝負を挑め」
今いる立ち位置で火の気はない。ぼっと、全身が熱くなった瞬間直感した。だから、煽った。無謀だが漆黒の中をむやみに動くをすれば先手の思う壺に嵌る。
ーーこっちから動くな……。
先日、奉行は助言をしていた、先程は“影切り”の腕慣らしの振りをやってのけた。どっちも大役を務められたのだ。まだまだやる気満々だっただろうが、引っ込んで貰うことにした。付け足すと、奉行には容姿はいいが口か悪くて若い新妻がいる、鎹を宿っているのも考えられる。護身用の指輪は元々門倉が押し付けた。
馬場清登、門倉亜瑠麻からの恩恵が我の護身。そして、そして……。
ーー茶太郎、今度は無事に帰ってきて……。
椿、椿、椿。ああ、椿。待っててくれーー。
『ぬるい、温い。意を強くしてるだろうが、役に立たない。あっという間に粉みじんになる』
「寄席でいえば真打ちの登場だが、何ともつまらない語り初めだ。欠伸と退席を促してどうする」
「ほおう、つまらなかったか。ならば、次の演目に取り掛かろう」
漆黒の中から聞こえた、くぐもった悍ましい呼び掛けだった、姿を見る為には野次が必要だった。煽りも耐えられなかったに違いない。
はっきりと、聞こえていた。白く凍り付いた息遣い、踏みつけられる枯れ草、擦れる装飾品。冷たい空気で共鳴した音が、聞こえていた。
“呪塗り”がいる、正面にいる。
茶太郎は、腰に着ける藍染めの麻袋を掴んだーー。
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